第23話 食べろ
二十日後の朝、受け渡し所には人が多かった。
ダリウス様が付けた条件のせいだ。帯同者は補給の受領に立ち会い、数量と封の状態を記録する。灰の牙が初めてそれをやるというので、ギルドの職員が三人も見に来ていた。
わたくしは麻袋を一つずつ卓に下ろした。
「豆、六袋。封は麻紐。ほどけた跡なし」
書記の方が書き取る。
「穀の粉、四袋。封は麻紐。四袋目の紐に結び直しの跡あり」
「……直しますか」
「直しません。記録に残してください」
◇
十六袋を検め終えたところで、入口に人影が立った。ヴェラ・キーンさんだった。
銀の茶器は持っていない。手ぶらで、袖の折り返しに小さな汚れがついている。
「見学に来たのよ」
「どうぞ」
「あなた、本当に全部数えるのね」
「数えます。数えると出ますので」
その方は卓の脇に立って、記録を覗き込んだ。
「四袋目、結び直しの跡」
「はい」
「……中身は」
「合っております。ですから、そのまま持って参ります」
ヴェラさんは、しばらく黙っていた。
「合っているなら、書かなくてもいいでしょう」
「書きます」
「なぜ」
「次に合わなかったとき、比べるものが要ります」
その方は記録の紙を見た。日付と、袋の数と、封の状態が並んでいる。それだけの紙だ。
「これ、毎回やるの」
「毎回やります」
「面倒でしょう」
「面倒です」
わたくしは次の袋を下ろした。
「ですが、面倒なものは真似されにくうございます。真似されにくいものは、こちらの側に残ります」
◇
全部を検め終えて、記録に署名した。署名欄の下に、受け渡し側の欄がある。ギルドの職員の方が羽根ペンを取ろうとした。
「わたくしが書くわ」
ヴェラさんが、そう言った。職員の方が戸惑った顔をした。
「ヴェラさんは金の穂の方でしょう」
「立会人よ。第三者の署名も要るはずでしょう」
「……たしかに、規定にはございますが」
ヴェラさんは羽根ペンを取って、名前を書いた。角の払いが揃っていて、線の太さが変わらない。あの帳面の最後の行と、同じ字だった。
書き終えて、その方はペンを置いた。
「これでいいでしょう」
「ありがとうございます」
「勘違いしないで」
ヴェラさんは袖を直した。
「あなたのためじゃないの。わたくしが書いた紙が、二枚とも同じ日付で残るようにしただけ」
「二枚、と申しますと」
「補給点で書くほうと、ここで書くほう」
その方は入口のほうを向いた。
「同じ日に、離れた場所で書けるわけがないでしょう。次に誰かが受領を書き足したら、その日わたくしがどこにいたかで嘘が出るわ」
「……ご自分を、証拠になさるのですね」
「ほかに持っているものがないもの」
その方は歩きだして、扉のところで止まった。
「匙、返したわ」
「道具を、ですか」
「全部よ。茶器も、鍋も」
「お仕事は」
「金の穂は辞めた。今日から自分の道具を買うところからね」
振り向かないまま、その方は言った。
「三十六で下働きからやり直すの。笑うなら笑って」
「笑いません」
わたくしは頭を下げた。
「五年ぶんの腕は、道具に付いておりません」
扉が閉まる音がした。
◇
北の峠へ入ったのは、出発から六日目だった。三年前、十一人が越えた道だ。地図では細い線が一本引いてあるだけで、実際には岩と雪の斜面が続いている。
わたくしはこの遠征に、いつもの倍の準備をしてきた。練り物を三十枚焼き、白樺の皮を買い足し、水を五日ぶん積んだ。三年前の隊は、この道で補給を絶たれた。同じことが起きるとは限らない。限らないが、起きた場合の献立を立てておくのが母のやり方だった。
立てておくと、荷が増える。増えた荷は自分で担ぐことにした。隊の誰かに担がせれば、その人の力がそのぶん減る。
二十日ぶんの荷に、備えのぶんが乗った。峠の斜面は雪が残っていて、足が沈む。沈むたびに、腿から力が抜けた。三日目から、豆ができた。リィズさんが最初に言ったとおりの場所に、言ったとおりの日数でできた。
六日目の夕方に、目の前が白くなった。
◇
気がつくと、毛布の上にいた。
「起きた」
リィズさんの声がした。
「……申し訳ございません」
「謝らなくていいわ。荷を持ちすぎたのよ」
起き上がろうとして、手をつかまれた。
「動かないで。今日はもう終わり」
「夕餉が」
「作らせないわ」
わたくしは天幕の外を見た。火が焚かれている。誰かが薪を割る音がする。その音が、いつもと違った。
◇
天幕の入口が開いて、その人が入ってきた。器を持っている。
「グレン様」
「作った」
「……どなたが」
「俺だ」
器の中を見た。湯に練り物を割り入れて、塩を振っただけのものだ。練り物は焦げていて、湯は多すぎる。
「うまくない」
その人が先に言った。
「見ればわかる。だが、腹には入る」
「はい」
「食べろ」
◇
その三文字を、わたくしはしばらく聞いていた。
この人は、八十日のあいだ一度も、誰かに食べろと言わなかった。思い返してみても、一度もない。ニコさんが三杯目を取りに行くときも黙って見ていたし、リィズさんが一杯で止めても何も言わなかった。坑道から出てきたハンスさんに、休めとは言っても食えとは言わない。
言えなかったのだと思う。誰かに食べろと言うのは、その分が余っていると保証することだから。保証できない人間は、言えない。三年前の峠で、この人はそれを一度、言えなかった。言えないまま、最後の食料を渡された。
わたくしは器の縁を持った。焦げの匂いがする。
「グレン様のぶんは」
「ある」
「本当に」
「二人ぶん作った」
その人は自分の器を持ち上げて見せた。中身が入っている。
「余っている」
わたくしは匙を取った。
塩が強い。強すぎる。練り物が焦げているので、苦みが混じっている。おいしくはなかった。おいしくはなかったが、八十日でいちばん温かかった。
「……塩を、入れすぎておられます」
「そうか」
「次からは、指の先ほどで足ります」
「覚える」
その人はわたくしの隣に座って、自分の器に匙を入れた。入れて、口へ運んだ。誰にも待たずに、こちらが食べ終わるのも待たずに。
わたくしは、それを見ていた。見ていることを、その人は気にしなかった。
◇
器が二つとも空になったころ、外で足音がした。ボルドさんが天幕の入口に立っていた。
「隊長。王都から早馬だ」
「なんだ」
ボルドさんは紙を差し出した。差し出す手が、いつもより硬い。
「ロッシュ商会が、王都の穀物を止めた。市場の値が三倍だそうだ」
その人が立ち上がった。
「三倍」
「明日には四倍だと。街の食堂が半分閉まってる」
わたくしは毛布から出た。出ようとして、リィズさんに押さえられた。押さえられたまま、頭の中で数えていた。
王都の人口は十万を超える。三倍の値を払えない人が、どれだけいるのか。
ヴェラは改心しません。「あなたのためじゃないの」と言い、自分を証拠にすることを選びます。ほかに持っているものがないから、というのがこの人の理由です。三十六で下働きからやり直すことにしたのも、たぶん誰のためでもありません。
グレンが「食べろ」と言うまでに八十日かかりました。誰かに食べろと言うのは、その分が余っていると保証することです。三年前、この人はそれを言えませんでした。
次回から、相手が変わります。飢えを商品にする人です。
【今日の遠征飯】焦げた練り物の湯かけ、塩多め(作:グレン・アーレンス)/制約:作った人が初めて/ひとこと:おいしくはありませんでした。八十日でいちばん温かかったのですが。




