第22話 お返しに参りました
王都のギルド、三階の小部屋。前と同じ部屋だった。前と同じ卓に、前と同じ銀の茶器が出ている。
「まあ、無事にお帰りで」
ヴェラさんは笑った。目尻に皺が寄る笑い方も、前と同じだった。
「湿地はいかがでした」
「地図のおかげで助かりました」
「よかった。役に立ったのね」
わたくしは椅子に座らずに、布の包みを卓へ置いた。
「お返しに参りました」
◇
ヴェラさんは包みを見た。
「あら、何かしら」
「五つ目の台地の石の隙間に埋まっておりました」
布を開いた。銀の匙が、部屋の灯りを受けて白く光った。
ヴェラさんの手が、茶器の取っ手から離れた。離れて、少しのあいだ、どこにも置かれなかった。
◇
「……ずいぶん細かいところをご覧になるのね」
「石を並べ直しておりましたので」
「これがわたくしのものだと思ったの?」
「刻印がございます」
わたくしは匙を裏返して、付け根を見せた。麦の穂を、丸で囲んだ形。
ヴェラさんの顔から、笑いが消えた。消えたというより、置き場所を失ったように見えた。
「ロッシュ商会の印でございますね」
「……ええ」
「お借りになっているものですか」
答えは、しばらく返ってこなかった。
「持たされているのよ」
その方は、そう言い直した。
「借りている、というのは自分から頼んだ場合でしょう。わたくしは頼んでいないわ」
「では、なぜお持ちなのですか」
「持っていると、腕がいいように見えるから」
ヴェラさんは匙を取って、柄の痩せたところを指でなぞった。
「金の穂に入ったとき、わたくしは二十九だったの。専属を置く隊なんて、当時は三つしかなかった。誰も炊事番に金を出さなかったのよ」
「はい」
「そこへ商会の方がいらして道具を貸してくださった。銀の茶器と鍋と匙。全部揃えて明日から使いなさいって」
「見返りは」
「何も言われなかったわ。最初の一年は」
◇
わたくしは椅子を引いて、そこで初めて座った。
この部屋に来る前に、ヴェラ・キーンという人のことを少しだけ調べた。ギルドの名簿は誰でも見られる。登録は十六年前。最初は下働きで、六年目に炊事担当として登録し直している。専属になったのは十一年目。三十を過ぎてから急に名前が上がった人だ。
名簿には腕の良し悪しは書かれない。書かれるのは日付と役目だけで、そこから読めるのは「十年かけて上がってきた」ということだけだった。十年かけて上がった人が、五年前に道具を持たされた。
「二年目に何か言われたのですね」
「補給の受け取りを手伝ってほしい、と」
「手伝うだけですか」
「最初はね。数を確かめて署名するだけ。うちの隊の荷だもの、当たり前でしょう」
「そのうち他の隊の荷も」
ヴェラさんは頷いた。
「置いてあるから受け取っておいてくれって。誰の荷か書いていないから、と言われて」
「書いてございました」
「……ええ」
「札がついております。わたくしは受け渡し所で確かめました」
その方は匙を卓に置いた。置いたとき、少し音が立った。
◇
「わかっていたのですね」
「わかっていたわ」
「では、なぜ」
「返せと言われたら、終わりだからよ」
ヴェラさんは茶器を見た。
「わたくしは五年この道具で仕事をしてきたの。金の穂が十四人まで増えたのは道具のおかげじゃない。わたくしの腕よ。それは本当。でも、みんなは道具を見て信じたの」
「道具を返せば、腕も疑われると」
「疑われるわ。あの子は道具だけだったって言われるの。五年ぶん全部よ」
わたくしは、その言葉をしばらく置いていた。
値踏みされて、値踏みの物差しに合わせて生きて、合わせたぶんだけ動けなくなる。わたくしが婚約を切られた日と、方向が逆なだけで、同じ形をしていた。
あの日わたくしは物差しから外れた。外れたから何も持てなくなって、そのかわり何も返さなくてよくなった。母の壺と、包丁と、砥石と、綴じ本。全部わたくしのものだ。この方は物差しの内側に入った。入ったから銀を持てて、そのかわり全部返さなければならなくなった。
どちらが良かったのかは、たぶん決められない。決められるのは、いまどちらの側に立っているかだけだ。
わたくしは卓の上の匙を見た。柄の痩せたところに、この方の五年が入っている。腕は本物なのだろう。本物だからこそ、道具に負けているのが惜しかった。惜しいと思ったことは、言わなかった。言えば同情になる。同情は、この方がいちばん受け取りたくないものだと思った。
◇
「ヴェラさん」
「なあに」
「うちの補給を止めたのはあなたのご判断ですか」
「……止めていないわ。受け取っただけ」
「受け取れば、こちらには届きません」
「届かないのは商会が回さなかったからよ。わたくしは署名しただけ」
「署名がなければ商会は回せません」
ヴェラさんは茶器を持ち上げて、また置いた。中身は減っていない。この方は、わたくしが来てから一度も飲んでいなかった。
「あなた、感じが悪いわね」
「はい。先に謝っておくべきでした」
◇
ヴェラさんは、匙を手に取った。
「これ、返してくださってありがとう。無くしたって言ったら代金を引かれるところだったの」
「引かれるのですか」
「引かれるわ。給金から」
「五年働いて道具の代金も払っておられるのですね」
その方の手が止まった。止まってから、匙をきつく握った。
「……そういう言い方、やめてくださる」
「申し訳ございません」
「本当に、感じが悪いわ」
わたくしは立ち上がって、頭を下げた。
「次の遠征は二十日後に出ます。行き先は北の峠です」
「なぜわたくしにそれを」
「今度はこちらから申し上げておきます」
◇
部屋を出ると、階段の下でグレン様が待っていた。
「どうだった」
「持たされておりました」
「では、話は通じるか」
「通じません」
わたくしは階段を降りた。石段は磨り減っていて、真ん中がくぼんでいる。何十年ぶんかの足がここを通った。通った人の中には、道具を持たされた人も、持たされなかった人もいるのだろう。
六十日前、わたくしはこのギルドの掲示板の前に立っていた。剥がれかけた紙を二度読んで、それから剥がした。あのとき剥がさなければ、いまここを降りていない。
「ですが、あの方はもう、知らなかったとは言えなくなりました」
「それだけか」
「それだけです。ですが、次に同じことが起きたら、あの方は自分の意思でやったことになります」
その人は少し黙って、それから短く言った。
「北の峠だと言ったのか」
「はい」
「本当に行くのか」
「行きます」
わたくしは階段の下でその人を見上げた。
「三年前の峠を、もう一度通ります」
ヴェラは道具を持たされています。返せば腕まで疑われるので返せません。値踏みされて、値踏みの物差しに合わせて生きて、合わせたぶんだけ動けなくなる——セラが婚約を切られた日と、方向が逆なだけで同じ形をしています。
だからといってセラは同情しません。「署名がなければ商会は回せません」まで言い切ります。感じが悪い、と言われる場面を、この物語で一度は書きたいと思っていました。
次回、二十日後の受け渡し所から。ヴェラが、頼まれてもいないのに見学に来ます。
【今日の遠征飯】(王都のため作らず)/制約:他人の道具/ひとこと:返せと言われたら終わるものは、最初から持ち物ではありません。




