第21話 泥の中の、銀の匙
帰路の三日目に、五つ目の台地を使った。
行きに通らなかった台地だ。地図では最も小さいと書いてある。実際に小さかった。七人が座ると、もう鍋の置き場所が限られる。
石を並べ直していたニコさんが、途中で手を止めた。
「セラさん」
「はい」
「これ、なんだろ」
石の隙間から、細いものが覗いていた。泥に半分埋まっている。
◇
抜いて、水で洗った。匙だった。
柄が長く、先が浅い。粥をすくうためのものではない。鍋の縁から手を伸ばして、少しだけ取って、味を見るための匙だ。厨房ではこれを味見匙と呼ぶ。柄が長いのは、熱い鍋に手を近づけずに済ませるためだ。先が浅いのは、一口ぶんより少なく取るためで、多く取ると味が変わってしまう。
使う人間の癖が出る道具でもある。長く使うと、柄の一箇所だけが薄くなる。この匙も、付け根から指二本ぶんのところが痩せていた。
そして、銀だった。泥がついていても、擦れば下から白く出てくる。鉄なら錆びるし、錫なら曲がる。錆びても曲がってもいなかった。
「銀じゃん」
ニコさんが声を上げた。
「銀ですね」
「なんでこんなとこに」
「落とされたのでしょう」
わたくしは柄を裏返した。付け根に、小さな刻印が入っていた。
麦の穂を、丸で囲んだ形だった。
◇
その夜、わたくしは匙を布に包んで荷に入れた。リィズさんが横で見ていた。
「持って帰るの」
「はい」
「捨てたほうがいいんじゃない」
「捨てると、無かったことになります」
リィズさんは何か言いかけて、やめた。やめてから、別のことを言った。
「ここ、金の穂が使ったのよね」
「行きに通った跡がございます。石の崩れ方と、灰の乾き具合から、十日ほど前かと」
「じゃあ、あの女のよ」
「そうかもしれませんし、十四人のどなたかのものかもしれません」
「銀の匙を持ってる冒険者が、あの隊に十四人いると思う?」
思わない。
◇
わたくしは匙のことを考えながら、帰路の献立を組んでいた。
道具に刻印を打つのは、貸す側だ。自分のものなら、打たなくていい。屋敷でもそうだった。銀器には家の紋が入っていて、あれは持ち出しを防ぐためのものだった。使用人が一枚持ち出せば、質屋ですぐ知れる。持たされている道具は、そういうふうにできている。
落としたら、たぶん困る。わたくしなら、探しに戻る。
もう一つ、気になることがあった。味見匙を落としたということは、鍋のそばで落としたということだ。台地の上で調理をして、片づけのときに気づかなかった。
料理をする人間が、味見匙を無くしたのに気づかない。そういうことは起きる。急いでいれば起きるし、疲れていても起きる。ただ、あの方の袖の折り返しには汚れが一つもなかった。急ぐ人の袖ではない。
急がない人が、あの夜だけは急いでいた。その夜に何があったのかは、湿地の泥が飲んでしまった。
◇
「戻ってきていないのですね」
翌朝、わたくしはボルドさんに聞いた。
「何がだ」
「この台地に、誰かが探しに来た跡はございますか」
ボルドさんは石の周りを歩いて、屈んで、しばらく地面を見た。
「無い。ここは十日、誰も踏んどらん」
「では、落としたことに気づいておられない」
「か、探せんかったかだな」
ボルドさんは立ち上がった。
「湿地で落とし物は探せん。泥が飲むからな。俺なら諦める」
「諦めた場合、貸主にはどう申し開きをするのでしょう」
「さあ。俺は借り物で仕事をせんから、わからん」
この人の言い方は、いつも短くて、たまに刺さる。借り物で仕事をしない。それは選べる人の言葉だ。ボルドさんは自分の斧を二本持っていて、片方の柄は自分で替えている。替えられるのは自分のものだからだ。
わたくしの包丁も自分のものだった。屋敷を出るときに持って出た。あれだけは父が黙って持たせてくれた。持って出られるものと、返さなければならないもの。その差は、いつもは意識しない。意識しないでいられるうちは、たぶん自由なのだと思う。
◇
五日目の夕方、湿地を出た。
地面が固くなって、空気が乾いた。それだけのことなのに、隊の歩き方が変わった。ミルカさんが鼻歌を歌いはじめて、ハンスさんが荷を持ち替えた。
わたくしは水の残りを数えた。四日ぶんのうち、二日ぶんが残っている。灰の上澄みで半分をまかなえたので、思ったより減らなかった。
十二日の依頼で、倒れた人はいない。二杯目までの時間がいちばん延びたのは坑道の四日目で、そこは休みを入れた。それだけを書いて、この遠征の帳面は閉じられる。閉じられる遠征というのは、たぶん、良い遠征なのだと思う。北も西も、閉じたあとに続きが出た。
わたくしは最後に湿地を振り返った。平らで、水が光っていて、どこにも目印がない。あの中で、銀の匙は十日間、誰にも探されずに埋まっていた。
◇
その夜、久しぶりに乾いた薪で火を焚いた。白樺の皮は使わなかった。使わなくても火がつく。
「楽ですね」
「楽だな」
グレン様が石の上に座った。今日は輪の中にいる。湿地を出てから、この人の座る場所が少しずつ内側へ寄っている。
「セラ」
「はい」
「王都へ戻ったら、あの女に会うのか」
「はい」
「なぜ」
わたくしは荷から布の包みを出して、火の明かりに近づけた。匙が白く光った。
「これをお返しに参ります」
◇
その人は匙を見て、それから刻印を見た。
「返す必要はないだろう」
「ございません」
「では、なぜ返す」
「返すと、あの方が困るかどうかを見たいのです」
火の音がした。
「困れば、借り物だとわかります。困らなければ、ご自分のものです」
「それを確かめて、どうする」
「わかりません」
わたくしは包みを閉じた。
「ただ、あの方がご自分の意思で動いておられるのか、動かされておられるのかで、こちらの打ち方が変わります」
「変わるか」
「変わります。ご自分の意思なら、話しても無駄です。動かされているのなら、話が通じる余地がございます」
「通じたとして、何を話す」
「補給を止めるのをやめていただきます」
「聞くと思うか」
「聞かないでしょう」
わたくしは正直に答えた。
「ですが、聞かなかったという事実が残ります。残れば、次はギルドへ持って行けます。何もしないまま持って行くと、こちらが先に手を出したことになりますので」
その人は火のほうを向いた。
「……お前は、順番を大事にするな」
「順番を守らないと、正しいことを言っても通りません。三年で覚えました」
言ってから、その三年がどの三年を指すのか、自分でもよくわからなくなった。
その人はしばらく黙っていた。
「……お前は、あの女を助けるつもりか」
「いいえ」
わたくしは首を振った。
「わたくしは次の遠征で補給が届く状態にしたいだけです。そのために、いちばん短い道を探しております」
その人は匙を布に戻して、こちらへ返した。
「一人で行くな」
「お一人では、話が硬くなります」
「硬くなっていい」
わたくしは包みを受け取った。受け取ってから、少し考えて、頷いた。
「では、外でお待ちいただけますか。中の話は、料理人同士でいたします」
「……わかった」
この人は、はじめの遠征のころなら「駄目だ」と言っただろうか。それとも黙って先に行っただろうか。どちらにしても、いまは待つと言った。
道具に刻印を打つのは貸す側だ、というのは屋敷の銀器の話から来ています。自分のものなら打たなくていい。持たされている道具は、持ち出せないようにできています。
セラが匙を返しに行くのは、優しさではありません。相手が困るかどうかで、打ち方を変えるためです。困れば話が通じる余地があり、困らなければ話しても無駄だ、と彼女は考えています。
次回、王都。銀の匙を、持ち主に返します。
【今日の遠征飯】乾いた薪で炊いた粥/制約:なし(湿地を出た)/ひとこと:捨てると、無かったことになります。




