第20話 言いかけて、やめる
坑道の魔物を退けるのに、四日かかった。
わたくしは坑道へは入らない。入口の外に竈を作って、出てくる人たちを迎える係だ。
戦って帰ってくる人間は、腹が減っているのではない。空っぽになっている。空っぽの人に重いものを出すと、受けつけない。
だから最初の一杯は薄くする。薄いものを飲ませて、体が動きはじめてから濃くする。
二日目の夕方、ハンスさんが最初の一杯を飲み干して、二杯目を求めた。
「早いですね」
「今日は浅かった」
三日目は、二杯目まで一刻かかった。四日目は二刻かかった。
わたくしは綴じ本にその時間を書いた。深く入った日ほど、二杯目までが遅い。
この時間は、たぶん疲れの深さそのものだ。本人に聞いても「平気だ」としか返ってこない。冒険者というのはそういう人たちで、痛みや疲れを申告する習慣がない。
だから器で測る。
二杯目までが二刻を超えたら、翌日は坑道へ入れないほうがいい。そう思ったので、四日目の夜にリィズさんへ数字を見せた。
「これ、なに」
「二杯目までの時間です」
リィズさんは表を追って、それから小さく息を吐いた。
「……ハンスとボルドが遅いわね」
「はい。お二人がいちばん重い荷を担いでおられます」
「明日、坑道が通らなかったら止めるわ。わたしから隊長に言う」
治癒師のこの人は、脈を取り、顔色を見る。わたくしは器を数える。測っているものは違うのに、同じ二人が浮かんできた。
◇
四日目の夜に、坑道が通った。
集落の人たちが酒を出してくれた。ボルドさんとハンスさんが受け取って、ミルカさんは断り、リィズさんは一口だけ飲んだ。
ニコさんは酒より肉を選んだ。
「セラさん、これ焼いていい?」
「焼いてください。わたくしは今日は休みます」
「え、いいの」
「集落の方が作ってくださいます。わたくしが横から口を出すものではありません」
言いながら、少し落ち着かなかった。
五十日あまり、毎日七人ぶんを作ってきた。作らない夜がどういうものか、思い出せなくなっている。
◇
わたくしは輪から離れて、竈の片づけをしていた。
灰を集めて、袋に入れる。鍋の底を擦る。砥石を出して、包丁を研ぐ。明日から帰路なので、研いでおいたほうがいい。
背中で足音がした。足音のしない人が、わざと音を立てて近づいてくる音だ。
「食っていないのか」
「あとで頂きます」
言ってから、自分でおかしくなった。
「……お互いさまでございますね」
その人は、少し黙った。それから、笑ったような息を出した。この人が笑ったのを聞いたのは、初めてだった。
◇
その人は竈の縁に腰を下ろした。
「今日はいい夜だ」
「はい」
「みんな、食っている」
「はい」
「……こういう夜が、三年前にもあった」
わたくしは砥石を動かす手を止めなかった。止めると、この人は続けない気がした。
「峠を越える前の晩だ。村で酒を出してもらった。十一人いた」
刃が砥石を擦る音だけが続いた。
「あのとき俺は、荷を見なかった」
「はい」
「宴の翌朝に出た。荷は積んであったし、数は聞いていた。聞いた数を、そのまま信じた」
「聞いた数が、違っていたのですね」
「わからん」
その人は膝の上で手を組んだ。
「いまでもわからん。誰かが減らしたのか、最初から足りなかったのか、俺が聞き違えたのか」
「帳面は、残っておりませんか」
「無い。あのとき持っていた紙は全部、峠で捨てた。荷を軽くするのに」
紙は軽い。軽いものから捨てるのではなく、要らないものから捨てる。要らないと判断されたのが紙だった。
わたくしなら捨てなかった、とは言わなかった。言えば、この人を責めることになる。
それに、たぶんわたくしも捨てた。十一人で六日ぶんを十日に伸ばす道の途中で、紙を抱えて歩ける人間がどれだけいるだろう。
◇
わたくしは包丁を布で拭いた。
「わからないままで、三年」
「ああ」
「お辛かったでしょう」
「辛いのとは違う」
その人は首を振った。
「わからんから、決められない。誰を責めればいいのか決められない。決められないから、置いておくしかない」
置いておくしかない。
わたくしは、父の帳面のことを思った。あの夜、わたくしも聞かずに置いた。聞かなかったから、三年前の父が何を選ばされたのかを、この六十日まで知らずにいた。
「グレン様」
「なんだ」
「わたくしは、置いておくのが下手です」
「知っている」
「ですので、毎日書きます。書いておけば、あとで数えられますので」
その人はしばらく黙っていた。
「……あのとき、お前がいれば」
言葉が、そこで止まった。
◇
止まった先を、わたくしは待った。
あのとき、お前がいれば。
その続きは、何通りもある。四人は倒れなかったかもしれないし、二人は戻ったかもしれない。あるいは、最後の食料を一人で食べずに済んだかもしれない。
どれも、言ってしまえば嘘になる。誰にもわからないからだ。
わたくしは砥石を布に包んだ。包んで、荷の底へ入れた。この人の言葉を待つあいだ、手を動かしていたかった。
この人はそれを知っている。知っているから、止めた。
わたくしも同じことを考えていた。もしあの隊に炊事番がいたら。もし誰かが荷を毎日数えていたら。
考えたところで、証明する方法がない。証明できないものを口に出すと、それは慰めの形をした作り話になる。作り話は、その場では効く。効いたぶんだけ、あとで剥がれる。
母は、味の話でそういうことを言った。足りない日に「おいしいでしょう」と言ってはいけない。言われた側は、その日は頷く。次の日から、こちらの言うことを半分に割って聞くようになる。
「……いや」
やはり、そう言った。
「すまん。今のは無しだ」
「はい」
「無しだが」
その人は立ち上がった。立ち上がってから、こちらを見た。
「いま、いる」
◇
その夜、片づけを終えてから、わたくしは残り物の汁を温め直した。
二人ぶんある。集落の方が多めに作ってくださったので、当たり前に余っていた。
鍋を持って輪へ戻ると、その人はまだ竈のところにいた。
「残っております」
「ああ」
いつもと同じやり取りだ。五十日あまりで、たぶん四十回は繰り返した。
繰り返すたびに、少しずつ短くなっている。最初は説明が要った。いまは一言で足りる。
わたくしは綴じ本を開かなかった。
書かなくても覚えていられることが、少しずつ増えている。
明日から帰路だ。湿地を六日かけて戻り、それから王都へ。契約は残り十月ある。
十月のあいだに、この人は何度「残っております」と言われるのだろう。何度目かで、言われなくても手が動くようになるのだろうか。
そこまで考えて、わたくしは鍋の蓋を閉めた。
急いで確かめようとすると、煮えるのは遅くなる。
グレンが「あのとき、お前がいれば」を言いかけて止めるのは、その続きが全部嘘になるからです。四人は倒れなかったかもしれないし、倒れたかもしれない。誰にもわかりません。わからないものを言葉にすると、慰めではなく作り話になります。
止めたうえで「いま、いる」とだけ言えたので、この人はたぶん少し進みました。
次回、帰路の湿地で、銀の匙を拾います。
【今日の遠征飯】(集落の方の馳走)/制約:なし/ひとこと:作らない夜の過ごし方を、五十日あまりで忘れておりました。




