第19話 腹が減れば、値は上がる
湿地の奥に、鉱山の集落があった。
依頼の目的地だ。湿地から出る魔物が坑道を塞いでいて、それを退けるまでが仕事になる。人が住んでいるのは百人ほど。木の家が二十軒と、共同の井戸が一つ。
着いた日の夕方、わたくしは井戸の水を見に行った。澄んでいる。湿地の水とは違って、これは飲める。
「珍しいでしょう」
声がした。井戸の縁に、初老の男の方が腰かけていた。
◇
仕立てのよい上着を着ている。湿地を歩いてきた者の靴ではない。
「岩の下から出ますからな。湿地の水とは通り道が違う」
「お詳しいのですね」
「商いですから」
その方は立ち上がって、軽く頭を下げた。
「ヴァルガン・ロッシュと申します」
◇
名前は知っていた。顔は知らなかった。思っていたより小柄で、思っていたより静かな話し方をする。声を張らない。張らなくても、周りが聞くからだ。
「灰の牙の炊事担当の方ですな」
「セラ・ヴィンターと申します」
「存じております」
その方は井戸の桶を引き上げて、自分で水を汲んだ。汲んで、こちらへ差し出した。
「どうぞ」
「恐れ入ります」
受け取ったが、飲まなかった。持っていただけだ。ヴァルガンさんは、それを見て少し笑った。
「賢明ですな。もっとも、この水には何も入れておりません」
◇
「ロッシュ商会の方が、なぜこのような場所に」
「荷を入れておりますので。年に二度は参ります」
「この集落へ、でございますか」
「ここは自分で作れませんから」
その方は井戸の縁に腰を戻した。
わたくしは集落を見渡した。言われてみれば、畑がない。家の裏に小さな菜園がいくつかあるだけで、麦の穂は一本も見えなかった。地面は湿地の縁だから、根が張らないのだろう。
鉱山の集落は鉱石を出し、その代金で食べ物を買う。買う先が一つしかなければ、値は相手が決める。鉱石の値も、たぶん同じ相手が決めている。
「見ておわかりでしょう。畑がない。地面が悪いのです。ここの百人は、食べるものを全部わたくしどもから買っております」
「全部、ですか」
「全部です。麦も、豆も、塩も」
風が湿地の匂いを運んできた。
「不作の年は、値が上がりますな」
「値が上がれば、こちらの方々は」
「買います。買わねば飢えますから」
その方の言い方には、悪意も自慢もなかった。事実を読み上げているだけの調子だった。
「腹が減れば、値は上がる。それだけのことです」
◇
わたくしは桶を井戸の縁に置いた。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「ヴィンター子爵家をご存じでしょうか」
ヴァルガンさんは、少しのあいだ黙った。黙って、それから頷いた。
「香辛料と乾物の。よく存じております」
「昨年、うちが穀物を買っております」
「買っていただきました」
「うちは穀物を扱いません」
「存じております」
その方は上着の袖を直した。
「あなたのお父上も、そう仰っていましたよ」
指先が冷たくなった。
「では、なぜ」
「香辛料の荷を、街道の倉に置いておられましたな。うちの倉です」
「置き賃は、お支払いしていたはずです」
「いただいておりました。ただ、倉には限りがございます。その年は場所が足りませんでな」
「場所を空けるために、穀物を買えと」
「そうは申しておりません」
ヴァルガンさんは首を振った。
「わたくしどもは、お得意様から順に場所をお出しします。取引の多い順です。それだけの話です」
「取引を増やすには、扱わない品を買うしかない」
「他の選び方もございましたでしょう。船を使う、道を変える、倉を建てる」
その方は湿地のほうを見た。
「小さなお家には、どれも重うございましたな」
◇
わたくしは、そこで一度息を整えた。
怒りが来るかと思っていた。実際に来たのは、もっと平たいものだ。この方は嘘をついていないし、脅してもいない。三年前の父にも、たぶん同じ口調で同じことを言っただけなのだろう。
卓を挟んで「規定です」と言ったダリウス様と、井戸の縁で「それだけのことです」と言うこの方は、よく似ている。どちらも正しい形をしていて、どちらも反論すると反論した側が幼く見える。
違うのは、ダリウス様は自分の規定に躓いたことだ。この方の規定は、たぶん躓かない。自分で書いているからだ。選べるように見える選択肢を並べて、どれも選べないことを知っている。
父が答えなかったのは、恥じていたからではない。説明しても、娘には何もできないと思ったからだ。
「教えていただき、ありがとうございました」
「いえ」
「もう一つだけ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「金の穂の専属料理人の方に、銀の道具をお貸しになっておられますか」
◇
ヴァルガンさんは、初めてこちらをまっすぐ見た。目つきが変わったわけではない。ただ、見る時間が少し長くなった。
「ずいぶん、細かいことをご存じですな」
「噂を伺っただけです」
「噂は、値がつきませんな」
その方は立ち上がって、上着の裾を払った。
「セラ・ヴィンター殿。一つ、老爺の助言を申し上げましょうか」
「伺います」
「数える方は、貴重です。うちにも欲しいくらいだ」
「恐れ入ります」
「ただ、数えるだけでは足りません。数えたものを積む場所と、運ぶ道が要る。あなたにはそれがない」
その方は歩きだした。歩きながら、振り向かずに言った。
「お父上と同じですな」
◇
その夜、わたくしは井戸の水で粥を炊いた。澄んだ水だ。灰も要らないし、二度沸かす必要もない。こんなに楽な炊事は、この五十日で初めてだった。
楽なのに、手が重かった。
配り終えて、鍋に二人ぶん残して、いつものように岩の上へ運んだ。あの人は、もうそこで待っている。待つようになったのは、いつからだったろう。
「残っております」
「ああ」
二人で食べた。食べながら、わたくしは今日聞いたことを話した。倉の話と、穀物の話と、値の話を。話し終えるまで、あの人は一度も口を挟まなかった。
「……お前の家を、その男が」
「潰したとは申しません。押しただけです」
「同じだろう」
「同じです。ですが、規定には触れておりません」
その人は空になった器を膝に置いた。
「セラ」
「はい」
「契約は一年だったな」
「はい。残り十月ほどです」
「十月で、足りるか」
わたくしは匙を置いた。
何に足りるのかは、聞かなかった。聞かなくても、たぶん同じものを指していた。
十月あれば、あの商会の倉の中身は変えられない。値も変えられない。街道の宿も、鉱山の集落の井戸も、わたくしにはどうにもならない。
できるのは一つだけだ。あの倉がなくても人が食えるやり方を、一つずつ増やしていくこと。草の根に灰を混ぜて煮ること。白樺の皮で火を起こすこと。毛布で鍋を煮ること。どれも安いか、捨てるものでできている。買わなくていいものは、値をつけられない。
十月で足りるかと聞かれれば、足りない。それでも、始めるには足りる。
ヴァルガンは脅しません。声も張りません。選べるように見える選択肢を並べて、どれも選べないことを知っているだけです。この人が怖いのは、言っていることが全部本当だからだと思っています。
セラの父が答えなかった理由も、ここで形が変わりました。恥じていたのではなく、説明しても娘には何もできないと思ったからでした。
次回、帰路の湿地でグレンが三年前の続きを言いかけます。言いかけて、止めます。
【今日の遠征飯】井戸の水で炊いた粥/制約:なし(この五十日で初めて)/ひとこと:楽な炊事ほど、手が重くなることがあります。




