第18話 うしろの焚火
五日目の夜に、うしろで火が上がった。
湿地は平らだ。遮るものがないので、遠くの火がよく見える。距離はおよそ半日ぶん。位置からして、二つ目の台地だった。
わたくしは鍋を火から下ろして、しばらくその明かりを見ていた。
湿地で火を焚けるのは台地の上だけだ。台地は五つ。うち一つ目にわたくしたちがいて、二つ目にあの火がある。残りは三つ。依頼は十二日で、いまが五日目。帰路を考えると、あと三度は台地を使うことになる。三度のうち何度、あの火と同じ場所を選ぶことになるのか。
選ばずに済ませられるなら、そのほうがいい。
「誰かいるね」
ニコさんが弓を膝に置いたまま言った。
「金の穂よ」
リィズさんが答えた。
「なんでわかるの」
「火の数。あそこは十四人いるから、火を三つ焚くの」
わたくしは数えた。三つあった。
◇
翌朝、わたくしは進路を変えた。三つ目の台地へは行かず、四つ目へ回る。半日ぶん遠回りになるが、湿地の縁を通れば地面が固い。歩く速さで取り返せる。
「なぜ回る」
グレン様が聞いた。
「一日ぶん、間を空けたいのです」
「向こうは追ってきているのか」
「わかりません。同じ依頼を受けているのかもしれませんし、たまたまかもしれません」
「では、なぜ空ける」
「たまたまであれば、空けても何も起きません」
その人は少しだけ考えて、頷いた。
「回る」
◇
四つ目の台地に着いたのは、その日の夕方だった。石の積み方が、地図と少し違った。崩れている。誰かが座って崩したような崩れ方をしていた。
わたくしは石を積み直しながら、崩れた面の乾き具合を見た。
「三日ほど前です」
「何が」
「誰かがここを使ったのが」
ボルドさんが屈んで、灰を指でつまんだ。
「火の跡がある」
「はい。大きさからして、三、四人ほどかと」
「金の穂は十四人だ」
「では、別の方々です」
◇
その夜、灰の上澄みを取っているところへ、リィズさんが来た。
「ねえ。あの人に聞いたんだけど」
「どの方でしょう」
「王都で、ヴェラ・キーンに会ったんですって」
「はい」
「あの女ね、有名なのよ」
リィズさんは鍋の縁に腰かけた。
「腕はいいの。それは本当。金の穂が十四人まで増えたのは、あの女が入ってからだって言われてるくらい」
「では、優れた方なのですね」
「優れてるわ。ただ、道具が」
リィズさんは指で丸を作った。
「銀よ。全部銀。茶器も、匙も、鍋の柄まで」
「拝見しました」
「B級の隊の専属料理人が、あれを買えると思う?」
◇
わたくしは灰の袋を置いた。
「買えないのですね」
「買えないわ。うちの隊で三年働いて、やっと茶器の一つよ」
「では、どちらから」
「そこよ」
リィズさんは声を落とした。
「借りてるって噂があるの」
「借りる、とは」
「持ち主がいるってこと。持たせている人がね」
湿地の虫の音が、そのあいだも続いていた。
「持たせる方は、何を得るのでしょう」
「さあ。ただ、道具を借りてる人間は断れないわ。返せって言われたら終わりだもの」
◇
わたくしは母の塩壺を思い出した。掌に乗るほどの小さな壺だ。蓋は蝋で留めてあって、彫りも装飾も何もない。落としても割れるだけで、誰も惜しまない。
あの壺は、わたくしのものだ。誰にも返さなくていい。銀の茶器を毎日使う暮らしと、蝋で留めた壺を荷の底に入れる暮らしと、どちらが自由かは、たぶん考えるまでもない。
考えるまでもないことを、あの方は毎日どう思っているのだろう。
あの部屋で、ヴェラさんは自分で茶を注いだ。使用人を呼ばずに、自分で。あのとき、わたくしはそれを気さくな人だと受け取った。いまは別の読み方もできる気がする。人に触らせたくないのかもしれない。傷がついたら、返すときに困るから。
もっとも、これも確かめようがない。確かめようのないことを二つ並べても、答えは二倍にはならず、迷いが二倍になるだけだ。
わたくしは灰の袋を結び直した。わかっていることだけを書く。台地の番号と、火の数と、崩れた石の乾き具合。それ以外は、綴じ本の別の頁に書く。
◇
六日目の昼、湿地の縁で、金の穂の斥候とすれ違った。向こうは三人。こちらに気づいて、足を止めた。
「灰の牙か」
「はい」
「ヴェラさんが、よろしくと」
その方はそれだけ言って、行こうとした。
「あの」
わたくしは呼び止めた。
「二つ目の台地は、広うございましたか」
斥候の方が振り向いた。
「広かった。あんたらが来ると聞いてたから、場所を空けて待ってたんだがな」
「どなたから、お聞きになりましたか」
「ヴェラさんだ。灰の牙は二つ目に来るからって」
その方は肩の荷を掛け直した。掛け直しながら、思い出したように言った。
「そういや、あんたが五人目か」
「五人目、と申しますと」
「灰の牙の炊事番だよ。隊長さん、まだ食わねえのか」
湿地の風が、いちど強く抜けた。
「……ご存じなのですか」
「有名だよ。この界隈じゃ、知らねえ奴のほうが少ない」
その方は悪気なく言っている。噂を噂として口にしただけの顔だ。
「四人辞めたって聞いてな。三月保った子がいちばん長かったんだろ。あんた、いま何日目だ」
「五十日を少し超えました」
斥候の方が、初めてこちらをまじまじと見た。
「そりゃすげえな。……いや、悪い。すげえってのは違うか」
「いいえ」
「じゃ、達者でな」
◇
その方々が行ってしまってから、わたくしは立っていた。ニコさんが横に来た。
「セラさん」
「はい」
「いまの、まずいやつ?」
「わかりません」
わたくしは綴じ本を開いて、その日の欄に書いた。
――二つ目の台地。金の穂が場所を空けて待っていた。
場所を空けて待つのは、親切だ。悪意の証拠にはならない。けれど、こちらが二つ目に行くと言ったのは、あの部屋の中でだけだった。あの部屋には、わたくしとあの方しかいなかった。
わたくしは頁を閉じた。
「ニコさん」
「ん」
「わたくしは、これから少し感じの悪い人間になります」
「え」
「先に謝っておきます」
ニコさんは、しばらくわたくしの顔を見ていた。それから、なんでもないことのように言った。
「べつに、感じ悪くないよ」
「これからです」
「うん。でも、たぶん大丈夫」
「なぜでしょう」
「セラさん、疑ってても飯の量は変えないもん」
わたくしは足を止めた。
「変えませんか」
「変えない。おれ、毎日食ってるからわかる。腹立ってる日も、疲れてる日も、量おんなじ」
それは、褒め言葉として言われたのではないと思う。この人は見たままを言っただけだ。それでも、しばらく胸に残った。
人を疑うのは、たぶん、疑いを器に持ち込まないかぎりは害にならない。母は献立のことしか言わなかったけれど、あの人の言い方を借りるなら、そういうことになる気がした。
ヴェラの銀の道具は、この人の強さではなく弱さのしるしです。借りているものは返せと言われたら終わるので、持たされている側は断れません。そのことを、セラは母の塩壺と並べて考えます。装飾のない小さな壺は、誰にも返さなくていいものです。
「場所を空けて待っていた」は親切です。悪意の証拠にはなりません。ただ、二つ目に行くと言ったのは、あの部屋の中だけでした。
次回、湿地の奥で補給を受け取ります。受け取る相手が、王都から来ています。
【今日の遠征飯】灰の上澄みで炊いた粥/制約:四つ目の台地/ひとこと:場所を空けて待つのは、親切です。




