第17話 湿った薪と、飲めない水
南の湿地は、聞いていたとおりの場所だった。足元がやわらかい。踏むたびに水が滲む。空気そのものが濡れていて、頬に張りついてくる。
二日目には、持ってきた薪が重くなっていた。
「吸ってるな」
ボルドさんが一本持ち上げて、そう言った。
「吸っております。中まで入っておりますので、割っても乾いた面が出ません」
「では、火はどうする」
わたくしは荷から油紙の包みを出した。
「これを使います」
◇
包みの中には、乾いた薄い皮が入っている。
「白樺の皮です。王都で買ってまいりました」
「高かったでしょう」
リィズさんが横から言った。
「銅貨で八枚です」
「安いじゃない」
「はい。誰も買わないからです」
白樺の皮は油を含んでいて、濡れていても燃える。ただし燃える時間が短い。指一本ぶんの皮で、数えて二十ほど。これだけでは湯は沸かない。
「皮で火をつけて、その火で薪を乾かします。乾かしてから燃やします」
「二度手間ね」
「二度手間です。ですが、湿地では一度手間の方法がございません」
わたくしは石の風下に薪を立てかけた。立てかける角度が浅いと熱が回らず、深いと倒れる。倒れれば濡れた地面に触れて、そこからまた吸う。
薪を乾かすのは、料理ではない。けれど乾かなければ何も始まらないので、湿地ではこれが献立の一行目になる。
母は屋敷でこれを使わなかった。屋敷には乾いた薪があり、竈があり、屋根があった。使わなかったやり方を、母がなぜわたくしに教えたのかは、いまでもわからない。教わったときは、意味のない知識だと思っていた。
◇
水のほうが、厄介だった。
湿地には水がある。ありすぎる。ただし、そのどれも飲めない。わたくしは布で濾して、沸かして、それでも濁りが取れないのを見て、匂いを嗅いだ。
「これは、沸かしても駄目です」
「なんで」
ニコさんが覗き込む。
「濁りではなく、色が溶けております。草が腐って染み出したものです。沸かしても色は抜けません」
「飲むと腹こわす?」
「壊す方と、壊さない方がおられます。半分の方が壊れば、隊は動けません」
わたくしは荷を数えた。持ってきた水は四日ぶん。依頼は十二日ある。
湿地では水を運ばないのが常識らしい。あるところへ行くのに、なぜ運ぶのかと荷役の人に笑われた。笑われながら四日ぶん積んだのは、地図に「水は多い」とだけ書いてあって、「飲める」とは書いていなかったからだ。
書いていないことは、書いていない。それだけの理由で四日ぶんを運んだ。運んだ荷は重く、その重さのぶん一日の距離が落ちる。無駄になれば、わたくしの判断の誤りとして残る。無駄にはならなかった。ならなかったことを喜ぶ気には、あまりなれない。
◇
「灰を使います」
わたくしは焚火の跡から灰を集めた。
「灰を混ぜて一晩置くと、溶けたものが沈みます。上澄みを取って、また沸かします」
「そんなので取れるの」
「全部は取れません。半分ほどです」
「残りは」
「残りは、飲まずに済ませます」
わたくしは鍋を三つ並べた。
「汁を濃くします。濃い汁は、水そのものより少ない量で足ります。それから、練り物には湿地の水を使いません。乾かすときに残りますので」
リィズさんが灰の袋を持ち上げた。
「あなた、灰ばっかり使うわね」
「灰は毎晩出ます。出て、捨てるものです。捨てるものは、いくら使っても荷が増えません」
リィズさんは袋を戻して、灰のついた手を布で拭った。
「あなたの母上って、どういう人だったの」
「変わった人でした」
「どういうふうに」
わたくしは少し考えた。母のことを人に説明したことが、ほとんどない。
「屋敷の厨房で、使わない技をいくつも試す人でした。灰で洗う、毛布で煮る、白樺で火をつける。どれも屋敷では要らないものです」
「なぜ試したの」
「わかりません。聞く前に亡くなりましたので」
リィズさんは、それ以上聞かなかった。
いま思えば、母は屋敷の外の話をよくしていた。行商の人から聞いたとか、南の村ではこうするとか。そういう話をするときだけ、あの人は少し早口になった。
◇
三日目の夕方、最初の台地に着いた。石が積んであって、風が抜ける。ヴェラさんの地図のとおりだった。
「ここ、二つ目じゃないよね」
ニコさんが地図を覗き込んだ。
「一つ目です」
「二つ目のほうが広いって書いてあるけど」
「はい。ですが、一つ目で泊まります」
「なんで」
わたくしは石の上に鍋を据えた。
「広い場所は、後ろから来る隊も使えます。狭い場所は、七人でちょうどです」
ニコさんは納得したような、していないような顔をした。リィズさんだけが、こちらを見た。見て、何も言わなかった。
◇
その夜、火が落ちてから、グレン様が横に来た。
「二つ目を使わないのは、地図をくれた相手のせいか」
わたくしは灰をかき集める手を止めた。
「……はい」
「確証はあるのか」
「ございません」
「では、なぜ」
「確証が無いからです」
わたくしは灰の袋の口を縛った。
「あの方が善意でくださったのなら、わたくしは失礼をしております。ですが、確かめる方法がございません。確かめられないものは、外れた場合の備えを立てるしかないと思っております」
その人は少しのあいだ黙った。
「疑うのは、疲れるだろう」
「疲れます」
思ったより早く出た言葉だった。
「ですが、七人ぶんの荷を数えるほうが疲れます。どちらも同じことです」
◇
その人は焚火の脇に腰を下ろした。輪の外ではなく、火の届く場所に。
「俺は、疑わなかった」
「はい」
「補給点が空だったとき、事故だと思った。今度も、事故だと思っている」
「そうかもしれません」
「お前は思っていない」
「思っておりません」
その人は火を見ていた。白樺の皮が縮れて、青い炎を出している。
「三年前も、事故だと思った」
言葉が、そこで止まった。わたくしは待った。
「……いや。今日はいい」
その人は立ち上がった。立ち上がってから、思い出したように振り向いた。
「明日の水は」
「二日ぶんございます」
「足りるか」
「足ります。上澄みが取れれば、四日は延びます」
「そうか」
◇
毛布に入る前に、わたくしは綴じ本を開いた。この日の欄に、水の量と、灰の量と、台地の番号を書いた。書いてから、余白にもう一行足した。
――三年前も、事故だと思った。
あの人が自分から三年前に触れたのは、これが初めてだった。触れて、止めた。止めた場所を覚えておこうと思った。次に触れるとき、そこから続くはずだから。
湿地の夜は音が多い。虫と、水と、遠くで何かが跳ねる音。北の山の静けさとも、西の乾いた風とも違う。この音の中で、あの人は見張りに立っている。
わたくしは灯りを消した。
湿地の回は、セラの職能がいちばん地味に出る場所にしました。白樺の皮は銅貨八枚で、誰も買いません。灰は毎晩出て、捨てるものです。彼女が強いのは、安いものと捨てるものの使い道を知っていることだと思っています。
グレンが自分から三年前に触れたのは初めてです。触れて止めましたが、止めた場所は残ります。
次回、湿地の奥で、後ろから来る隊の焚火を見ます。火の数で、どの隊かがわかります。
【今日の遠征飯】濃くした汁と、白樺の火/制約:湿った薪と、飲めない水/ひとこと:捨てるものは、いくら使っても荷が増えません。




