第16話 同業の後進に、助言を
王都に戻って三日目に、その方から使いが来た。午後の刻に、ギルドの三階の小部屋へ。そう書かれた紙には、香が焚きしめてあった。
わたくしは荷を解いたばかりの部屋でその紙を読んで、それから鍋を磨いた。磨きながら考えていた。会うか、会わないか。
会わなければ、こちらの何も渡さずに済む。会えば、少なくとも顔と声を覚えられる。けれど、会わなければ相手の顔も声もわからない。
わたくしは砥石を布に包んで、上着を着た。
王都に戻ってからの三日で、隊はばらばらに休んでいた。ボルドさんは道具屋に籠もり、ミルカさんとハンスさんは実家へ帰り、リィズさんは薬種問屋を回っている。ニコさんだけが宿の裏で弓の弦を張り替えていた。
グレン様は、この三日で二度しか見ていない。一度は受け渡し所で、もう一度は廊下ですれ違ったときだ。街にいるあいだ、あの人が何を食べているのかを、わたくしはまだ知らない。
◇
ヴェラ・キーンという方は、思っていたより小柄だった。
三十を少し過ぎたくらい。髪をきっちり結い上げていて、袖の折り返しに汚れがない。料理をする人の袖ではないと思ったが、卓に置かれた手の指を見て考えを変えた。右の人差し指の付け根に、包丁だこがある。
「はじめまして。ヴェラです」
「セラ・ヴィンターと申します」
「知っているわ。中継所の話は、もう王都まで届いているもの」
その方は笑った。目尻に皺が寄る笑い方だった。
「大変だったでしょう。補給が来ないなんて」
「大変でございました」
「わたくしのところに届いてしまって、本当に申し訳なくて」
◇
卓の上には、茶の道具が出ていた。銀の茶器だ。取っ手に細い彫りが入っていて、湯を注ぐと縁が曇る。安いものではない。
ヴェラさんは自分で注いだ。
「受領の署名は、わたくしが出しました」
「はい。伺っております」
「言い訳になるのだけれど、あの日、うちの隊は本当に困っていたの。予定の荷が半分しか届かなくて」
「半分」
「ええ。それで補給点に寄ったら、六日ぶん積んであって。誰の荷か書いていなかったから、うちのだと思ってしまったのよ」
わたくしは茶碗を持ち上げた。持ち上げただけで、口はつけなかった。
書いていなかった、というのは変だ。補給点の荷には、必ず宛先の札がつく。麻紐で口に括りつけてあって、隊の名と日数が書いてある。わたくしは出発前に受け渡し所で、自分の目でそれを確かめた。札がなければ、そもそも荷車に積まれない。
けれど、それを言えばこの方は「札が落ちていた」と言うだろう。雨で滲んで読めなかった、とでも言うかもしれない。落ちていたかどうかは、もう確かめられない。
確かめられないことを問い詰めると、こちらが疑い深い人間になるだけで終わる。屋敷でそれを何度も見た。使用人同士の諍いは、たいてい確かめられないところで起きて、確かめようとした側が煙たがられる。
「ご迷惑をおかけしました」
だからわたくしは、そう言った。
◇
「それでね。今日お呼びしたのは、お詫びだけではないの」
ヴェラさんは茶器を置いた。
「あなた、次は南でしょう。湿地の依頼」
「はい」
「あそこは難しいわよ。火が起きないの」
「湿気でございますか」
「そう。薪が乾かない。持っていっても、二日で吸ってしまう」
その方は袖から小さな帳面を出した。
「わたくし、三度行ったことがあるの。火が起きる場所を書いてあるわ。写していきなさい」
◇
帳面には、地図が描かれていた。湿地の中に、乾いた台地が点々とある。そこには石が積んであって、風が抜ける。火を起こせるのはその上だけだと、細かい字で書き込んであった。
字を見た。角の払いが揃っている。線の太さが変わらない。補給点の帳面の、最後の行と同じ字だった。
「……ありがとうございます」
「いいのよ。同業ですもの」
「写させていただいてよろしいですか」
「どうぞ。書き写すのは得意でしょう」
手が止まりかけた。止めなかった。止めれば、こちらが気づいたことに気づかれる。
「はい。帳面をつけておりますので」
◇
写しながら、わたくしは考えていた。
この地図が嘘だとは思わない。三度行った人の書いたものだ。台地の位置も、石の積み方も、たぶん本当だろう。嘘でないから、危ない。
わたくしがこの地図どおりに歩けば、この方はわたくしたちがどこで火を起こすかを知る。火を起こす場所は野営地であり、野営地が決まれば一日の行程が決まる。行程が決まれば、何日目にどこにいるかがわかる。どこにいるかがわかれば、荷がどこで尽きるかもわかる。
尽きる場所がわかっている相手に、補給を止められたら終わりだ。
北の遠征では、一日ぶんが袋から消えた。西の遠征では、六日ぶんが別の隊へ渡った。どちらも荷そのものは合っていて、紙の上で辻褄が合っていた。次に何が起きるとしても、同じ形をしているだろう。荷は正しく、数字は合っていて、ただこちらの手元にだけ届かない。
「ヴェラさん」
「なあに」
「この台地は、いくつございますか」
「五つよ」
「わたくしどもは七人です。七人で使うには、どの台地がよろしいでしょうか」
ヴェラさんは少し首を傾げた。
「二つ目がいいわ。いちばん広いから」
「では、二つ目を使わせていただきます」
◇
部屋を出て、階段を降りながら、写した頁を閉じた。
二つ目は使わない。使うと言ったから、使わない。
この方が善意で言ったのなら、わたくしは失礼なことをすることになる。けれど、善意かどうかを確かめる方法が、今のわたくしにはない。確かめられないものは、確かめられない前提で組む。
母は献立のことでそう言った。乾物が本当に乾いているかは、開けるまでわからない。だから、乾いていない場合の献立も一緒に立てておく。二つ立てておけば、開けた瞬間に選べばいいだけになる。
台地は五つあると聞いた。ならば、五つのうちどれを使ってもよいように組む。三つ目でも四つ目でも同じ献立が成立するようにしておけば、どこで火を起こすかは当日決められる。当日決めれば、前もって知っている人はいなくなる。
階段の下で、ニコさんが待っていた。
「どうだった、先輩」
「親切な方でした」
「へえ」
「地図をくださいました。火の起こせる場所が書いてあります」
ニコさんが顔を輝かせた。
「やった。じゃあ楽になるね」
「はい」
わたくしは綴じ本を抱え直した。
「楽になります。あちらにとっても」
ニコさんが首を傾げた。
「あちらって、金の穂?」
「はい」
「なんで金の穂が楽になるの」
「わかりません。ただ、知っている人が増えると、知られる側は選べることが減ります」
ニコさんは、しばらく考える顔をしていた。この人は数字は速いが、人の話は遅い。遅いのは悪いことではない。
「じゃあ、地図は使わないの」
「使います。書いてあることは本当ですので」
「でも」
「本当のことを教えてくださった方に、こちらの明日を教えないだけです」
ヴェラは嘘をつきません。地図は本物ですし、包丁だこも本物です。この人が渡してくるものは全部本当で、だからこそ受け取ると位置が知られます。
セラが「二つ目を使う」と言って使わないのは、相手を疑ったからではなく、疑いを確かめられないからです。彼女は確かめられないものを確かめられない前提で組む人です。
次回、湿地へ。薪は二日で水を吸います。制約は「火と水」に変わります。
【今日の遠征飯】(王都のため作らず)/制約:他人の善意/ひとこと:嘘でないから、危ないのです。




