第13話 三年前の話は、あの人から
最後の水場に着いたのは、査定の前日だった。
石の間から湧く水は北のものより濁っていて、一度沸かさなければ使えない。わたくしは布で二度濾してから鍋にかけた。濾した布に、細かい砂が残る。この砂の量で、次に沸かす回数が決まる。
「あなた、ずいぶん手をかけるのね」
リィズさんが水筒を差し出してきた。
「濁りは煮ても消えません。濾さなければ、器の底に溜まります」
「底に溜まるくらい、いいじゃない」
「溜まったものを最後に飲むのは、いちばん遅く食べる人です」
リィズさんの手が止まった。
その人は、いつも最後に食べる。
◇
その夜、練り物の最後の一枚を七つに割った。明日の昼には中継所に着く。着けば街道の宿があって、そこからは買える。だから今夜で使い切ってよかった。
配り終えて座ると、リィズさんが隣に来た。この人が自分から隣に座るのは、初めてだった。
「ねえ」
「はい」
「あなた、あの人のこと、どこまで聞いた」
わたくしは指を折った。
「三年ほど前から、人前で食事をなさらないと伺いました。ボルドさんから」
「それだけ?」
「ご本人からは、昔、足りなかったことがある、と。それから、前は確かめなかった、と」
リィズさんが息を吐いた。長い息だった。
「そこまで言ったの」
「言葉としては、それだけです」
◇
「三年前のこと、少しだけ言うわ」
リィズさんは火を見ていた。
「わたし、あの隊にいたの」
「あの隊、と申しますと」
「今の灰の牙の前の隊よ。名前は同じ。人だけ違うの」
わたくしは何も言わずに、次を待った。
「十一人いたわ。北の峠を越える依頼で、日数は二十二日。補給点は二つ」
リィズさんは膝を抱えた。
「一つ目が空だったの」
火の音だけがしばらく続いた。
「二つ目まで十日。荷は六日ぶん。引き返しても、峠を戻るのに八日」
「進むしかなかったのですね」
「そうよ。それで、十一人で六日ぶんを十日に伸ばした」
伸ばした、という言葉が、この人の口から出た。わたくしがそれをやった日のことを、この人は覚えている。覚えていて、その言葉を選んでいる。
「どう伸ばしたのですか」
「均等に割ったの。全員が同じだけ減らす。いちばん公平でしょう」
「はい。公平です」
「公平だったわ。それで、四人倒れた」
リィズさんが膝の上で手を組み直した。
「大きい人は、同じ量では足りないの。荷を多く持つ人ほど先に落ちる。当たり前でしょう。当たり前なのに、そのとき誰も計算しなかった」
わたくしは、その光景を思い浮かべてしまった。十一人が輪になって座り、同じ大きさの器を受け取る。誰も文句を言わない。文句の出ようがない。同じだけ配られているのだから、これ以上に正しい配り方はない。
正しい配り方をしたのに、四人が倒れる。配り方が正しいかどうかは、配ったあとの数日でしか分からない。分かったときには、もう配り直せない。
「炊事の担当は」
「いなかったのよ」
息が止まりかけた。
「十一人の隊に、炊事番がいなかったのですか」
「置かないのが普通だったの。荷が増えるから。飯なんて誰でも作れるでしょう、って」
「いまは、置くのですね」
「あの人が置くと決めたのよ。帰ってきてすぐ。ギルドに掛け合って、条件も自分で書いたわ」
「四人、辞められたと伺いました」
「五人目が来るまで二年空いたの。今度の貼り紙は四十日も剥がれなかったしね」
◇
わたくしは、綴じ本を膝に置いたまま動けなかった。
誰でも作れる。たしかに、鍋に湯を沸かして干し肉を入れるだけなら誰でもできる。できないのは、そのあとだ。何日ぶんが残っていて、誰が何を運んでいて、どの人がどれだけ要るのか。それを毎日書いて、割り振り直すこと。
それは料理ではない。けれど、料理をする人間しかやらない。
「四人は、その」
「二人は戻ってきたわ。二人は戻らなかった」
リィズさんは、そこで初めてこちらを見た。
「最後の食料はね、あの人が食べたの」
◇
「隊長が」
「隊長が。みんなで決めたのよ。いちばん体力のある人間が、いちばん先の水場まで走って助けを呼ぶ。そのために全部食べさせた」
「では、正しい判断です」
「正しかったわ。実際、あの人が走ったから五人助かった」
リィズさんの声は平らだった。平らすぎた。
「でもね。あの人は今も、誰かが食べ終わったのを見るまで匙を持てないの」
わたくしは火を見た。
条件の一行目。あれは、要求ではなかった。毎食を共にすること。共にする相手がいなければ、あの人は食べられない。四人の炊事番が辞めたのも、たぶん誰のせいでもない。一緒に座った子も、一人にしてあげた子も、条件そのものは満たしていた。
けれど、それだけでは足りなかった。共にするだけでは、この十四日と十二日のあいだ、あの人は結局ほとんど食べていない。
足りなかったのは、余りだ。
三年前のあの峠で、最後の食料には余りがなかった。あの人が食べれば、その分は誰かの分ではなくなる。誰かの分ではなくなったから、二人が戻らなかった。だから、目の前の器に余りがないかぎり、あの人の手は動かない。
器の中身が多いか少ないかではない。鍋にまだ残っているかどうかだけを、この三年、毎晩見ている。
◇
「リィズさん」
「なに」
「なぜ、いま話してくださったのですか」
リィズさんは水筒の栓を閉めた。
「明日、あなたが落とされるかもしれないから」
「はい」
「落とされたら、あなたは次の遠征に来ない。来ないなら、あの人はまた食べなくなる」
この人は、いつも計算をする。情ではなく、荷と人数で。
「わたし、あなたを認めるとは言っていないわ」
「はい」
「でも、七人ぶんの数を毎日書く人間がいなくなると困るとは、言えるの」
リィズさんは立ち上がった。立ち上がってから、火の向こうを見た。あの人は今日も、輪の外側に座っている。
「残りは、あの人から聞きなさい。わたしが言えるのはここまでよ」
◇
その人は、こちらを見ていなかった。膝の上で手を組んで、火のいちばん外側の縁を見ている。わたくしたちが何を話していたか、たぶん察しはついているのだろう。それでも近づいてこないのが、この人のやり方だった。
毛布に入ってから、わたくしは天幕の布を見上げていた。
三年前、十一人の隊に炊事番はいなかった。いれば、四人は倒れなかったかもしれない。倒れなければ、二人は戻ったかもしれない。
その「かもしれない」を、あの人は三年抱えている。抱えたまま、貼り紙を出した。四十日ぶん誰も剥がさなかった、あの一行を。
わたくしは寝返りを打った。
明日、査定がある。落とされれば、この隊から離れる。
離れたくない、と初めて思った。
リィズが「均等に割ったの。いちばん公平でしょう」と言う場面を、この物語の裏側の中心に置きました。公平と最適は違います。荷を多く持つ人が先に落ちるという当たり前を、そのとき誰も計算しなかった——それが炊事番のいない隊で起きたことでした。
セラの職能が「料理」ではなく「数える」ことでもあるのは、ここに繋がります。
次回、査定の朝です。ニコが、ある紙の数字に気づきます。
【今日の遠征飯】練り物の最後の一枚を七つに/制約:明日には買える/ひとこと:底に溜まったものを飲むのは、いつもいちばん遅く食べる人です。




