雪原
白い息が、ふっと目の前に浮かんだ。
自分のものなのか、誰のものなのかもわからない。
気づけば私は、果てのない雪原に立っていた。
「ウパシ!」
遠くで誰かが呼ぶ声。
その声に応えるように、白い犬が雪を蹴って駆けていく。
精悍な体つき。
狼の血を継いでいるんだと、なぜか確信した。
見慣れているはずなのに、どこか懐かしい。
──あれは……ウパシ?
胸の奥がじんと熱くなる。
理由はわからない。
でも、知っている。
ずっと昔から知っていた気がする。
犬の後ろには、広い背中の男がいた。
雪を踏みしめ、振り返り、私の名を呼ぶ。
「アベナンカ!」
その名を聞いた瞬間、
世界が“カチリ”と音を立ててはまった。
そうだ。
私は──アベナンカ。
知っていたはずなのに、
いま呼ばれて初めて思い出したような、不思議な感覚。
男は部族でも指折りの狩人だ。
そうだ、名はエコリアチ。
弓も罠も巧みに扱い、鹿も鮭も、いつもたくさん持ち帰ってくれる。
──無事で帰ってきて。
私は笑顔で手を振った。
けれど胸の奥がざわついた。
理由はわからない。
でも、わかる。
「今日は行かないで、家でゆっくりしてて」
気が付いたらそう口走っていた。
私は咄嗟にタマサイを触った。不安だったからだ。
タマサイとは、首飾りだ。
エコリアチが川底で見つけた綺麗な石を磨いて作ってくれた。
私はこのタマサイを肌身離さず身に着けていた。
何故だろう?
どうして引き留めたのかは、自分でもわからなかった。
身体が震えたのだ。
このまま、ウパシもエコリアチも、どこか遠くへ行ってしまうような──
そんな不安に襲われたから。
エコリアチは笑って言った。
「何も心配いらない」と。
ウパシも、私に甘えたいだけ甘えて、そして走り去った。
気がつけば、一人と一匹の姿は、白い雪原に飲み込まれていた。
冬の山であろうと、獲物を追えば数日は帰ってこない。
私の不安はやがて薄れ、日常へと戻っていく。
雪が降る前に集めておいたアットゥシ(樹皮衣)の材料を広げ、エコリアチのためにアットゥシを作り始めた。
その手元に、白い雪が静かに舞い落ちてきていた。
白い吐息で手を温めながら──
「山が荒れなきゃいいけど」
そう呟いていた。
◇◇◇
それから三日が過ぎた。
酷いときは一週間も戻らないときもある。慣れていたはずなのに、アベナンカの心は乱れることが多かった。
気を紛らわすため、エコリアチの好物であるラタㇱケㇷ゚を作る。
かぼちゃや豆を煮込んだ料理で、いつも美味しいと笑って食べてくれた。
── カラカラン
料理をするアベナンカの背後で音がする。
振り返ると、イタと呼ばれるお盆が落ちており、二つに割れていた。
このイタはエコリアチが父から譲り受けたもので、気に入って使っていた。
二つに割れたイタを見たことで、アベナンカの胸中に不安が渦巻いた。
じっとしていられない。
走っていって、エコリアチに飛びつきたい。
そう思うと、居ても立っても居られなくなり、外に飛び出していた。
外に出ると、雪が音もなく降っていた。
黙って見上げていたが、なんだろう焦げ臭いことに気が付いた。
アベナンカのいる家は、どちらかというと集落の端のほうにある。
集落の中心のほうがなにやら騒がしい。
煙が方々で上がっていた。
そして、紛れもない悲鳴が聞こえる。
この辺りは川に近いこともあり、チプと呼ばれる小舟がたくさんあった。
川が凍る前に引き上げ、立てかけてあるのだ。
アベナンカは反射的にそのチプの陰に身を隠した。
やはり切れ切れに悲鳴や怒号が聞こえる。
焦げ臭い匂いがどんどん濃くなってくる。
── 怖い
アベナンカは恐怖を覚えた。
そして、強くエコリアチを想った。
── 早く帰ってきて
アベナンカは強く祈った。
もうすぐ、ウパシの吠える声が聞こえ、そしてエコリアチが帰ってくる。
そんな夢想をしていたのだが……
聞こえてくる足音に、アベナンカがハッとした。
誰かがきている!
慎重に物陰から顔を出し、辺りをうかがう。
いる!
複数の男がこちらへと向かっている。
どうするべきか?
アベナンカは迷った。
やってくる男たちの衣服には、血が付いていた。
その時、アベナンカの頭の中に声が響いた。
アベナンカは、とっさにタマサイを外してそっと置いた。
きっとウパシが気が付いてくれる。
その時、頭の中に声が響いた。
── 走れ!
その声に従うように、アベナンカは走った。
雪深い山を目指して。
エコリアチがいる方向へ。
「おい、女が逃げたぞ!」
迫りくる男達はアベナンカに気が付いた。
男達も走り出す。
◇◇◇
純平はソファーで横になっていた。
今日は色んな事があったな、そうやって先ほどまでの事を思い出す。
── 彼女の瞳は鳶色なんだ!
千代里の瞳が純平の心を掴んで離さなかった。
自然と手を伸ばしていた。
何に向かって?
「アベナンカ……」
寝言なのか、半分寝そうになりながら、純平がつぶやく。
── そして純平もまた、過去へと呼び戻されていた
すっかり遅くなった。
エコリアチは歩を早める。
少し先を走るウパシは、時折立ち止まっては振り返る。
早く来い、そう言わんばかりに。
予想以上に獲物が見つからず、どんどん山奥へ踏み込んでしまった。
やっと鹿を仕留めたのだが、帰りにだいぶかかりそうだった。
そして、あとすこしで集落というところまできているが、疲労のあまり歩が遅くなっていたのだった。
── ワゥ、ワンワンワン
ウパシが激しく吠えていた。
何があったかとエコリアチも歩く速度を上げた。
なんだろう?
集落のほうから、幾筋もの煙が立ち上っている。
火事でも起こったのだろうか?
炊事で上がるようなものではなく、炊事の煙にしては不自然だ。
いつしか疲れも忘れ、獲物の鹿も放り出して、エコリアチは走り出していた。
やがて山を出た。
アベナンカと別れた雪原まできていた。
ここまでくれば集落は目と鼻の先だ。
そのとき、ウパシが何かを咥えて戻ってくる。
── !!
ウパシが咥えているものは、アベナンカのタマサイだった。
「アベナンカ!」
エコリアチは叫んでいた。
同時にものすごい勢いで走り出す。
見えてきた家には、火が付けられている。
外から中を見たが、中には誰もいないようだ。
集落の中心側へ走り出す。
そこは目を覆う惨状が待っていた。
村の男達が、斬られ、あるいは矢がささった状態で倒れている。
見知った男達を揺すってみるが、ほとんどが息絶えている。
「エ、エコリアチ、お、おそ…」
そこまで言うと、男が血をゴボリと吐き出す。
「どうした、何があったんだ!?」
「襲われた…」
そこまで言うと、ガクっと首が垂れた。
「おい、おいって、起きろ」
エコリアチはいつまでも揺すっていたが、男が起きることは無かった。
アベナンカを想い、すぐにでも走り出したい。
だが、辺りに倒れる村の人々の虚ろな視線が、エコリアチに注がれる。
「アベナンカ!」
エコリアチは一声叫ぶと、倒れていた村人を抱え歩き出した。
◇◇◇
雪原に十六の土を盛った。
通常であれば、キナという蒲の野草で包み埋葬するのだが、この状況ではそのまま土に埋めるしかなかった。
雪に覆われた土は固く、全員を埋葬する穴を掘るのには、ひどく苦労した。
ヒグマや狼がいるのだ。
そのままにしておくことはできない。
静かに祈って、必ず戻ってきちんと埋葬しなおすと約束した。
エコリアチが村中の村人を確認したとき、いくつかの痕跡を見つけていた。
まず足跡だ。
足跡は、全て北へ続いている事。
そして、柱に刺さった矢。
ウパシも新たに布を咥えてきた。
矢の羽には特徴があった。
ここらでは使われていない羽だった。
北の部族が使っているものだ。
それから、ウパシが咥えてきた布だ。
この刺繍は、やはり北の集落で見た覚えがあった。
北の部族の仕業かわからないが、この痕跡がある以上行くしかなかった。
倒れていたのは全て男性のみで、どの家にも女性はいなかった。
つまり、女性は全て連れ去られたということだろう。
「ウパシ、来い。北へ行く!」
── ウォン
わかったと答えるように、ウパシはすでに走り出す。
アベナンカはきっと生きている。
エコリアチはそう言い聞かせて、北へと歩き出した。
必ず連れ戻すんだ。
今度こそ、アベナンカを救うんだ。




