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めぐりメグル  作者: Jiru-man


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2/2

予感


──鼻がくすぐったいな。

──じっとしていられないよ。

──なんだかわからないけど、わかるんだ。


──真っ暗だけど楽しいな。

──カチカチ音がするよ。楽しいな。

──もうすぐなんだよ。その先にいるんだよ。


闇夜に光る稲妻のように、物体が駆け抜けていく。

ハッ、ハッ、と息遣いも聞こえる。


街灯もまばらな道路を、純白の犬が疾走する。


挿絵(By みてみん)


彼の名はブランシュ。


わずかに闇が揺らぎ、一瞬のフラッシュのようだった。

素晴らしい速度で何かが駆け抜ける。

日の光があれば、その純白の体毛が風に靡く様が見て取れたはずだ。


緩やかなカーブでも速度を落とさず、最短距離を進む。

目に見えない“何か”が、まっすぐブランシュを引っ張っている。


カチカチとアスファルトを掴む爪の音は、規則正しく時を刻む秒針のようだ。

何を追っているのかはわからない。

だが、胸の奥が熱くなる。期待と喜びが混ざり合い、ただ走らずにはいられない。


理由なんていらない。ただ“そこにいる”とわかる。

それだけで十分だった。


やがてアスファルトの県道の脇から伸びる、名もない獣道に折れて入る。

少し走ったところで、焦れた様子で振り返る。


──早く。間に合わないよ。


──ウォーン、と一声あげる。


しばらくすると、獣道の入り口でライトが光った。

「おいブランシュ、どこなんだよ?」


獣道に自転車を乗り入れながら、男が叫ぶ。


──ウォン! 早く!


ブランシュは踵を返し、さらに速度を上げた。

ススキや名も知らぬ雑草が身体を打つが、気にも留めない。


目の前に砂浜が見えてきた。

ブランシュは一気に加速した。


波打ち際まで来ると、海の中を凝視する。

そして、迷いなく海へ飛び込んだ。


その視線の先で、何かが蠢いている。


「おい、ブランシュ、なんだっていうんだ。待てよ!」


砂浜を自転車で走れない男は、自転車を投げ捨てて駆け出す。

すでに五十メートルほど海に入っているブランシュが見えた。


何をしているのか全く理解できない男は、

雲の切れた月明かりに照らされた海に目を凝らした。


白い ──何かが見える。


ブランシュとは違う白。


その白い影に、ブランシュが追いついた。


──ウォッ、ウォン! 大丈夫、僕が引き上げる!


ブランシュが何かを咥え、必死に引っ張っている。

男は波打ち際からその様子を見つめるが、状況が掴めない。


「ひぃっ……」


ブランシュとは違う声。人の声だ。

男はためらわず海へ飛び込み、全力で水を掻いた。

衣服が重く、動きはぎこちない。

それでも、なんとかブランシュのそばへ辿り着く。


長い髪が揺れていた。

首の後ろに手を入れて引き寄せると、身体はぐったりとしていた。

沈む寸前だったのだろう。


急いで浜辺へ向かう。

先に戻ったブランシュが吠えている。


──クーン……大丈夫かな。


男もようやく浜へ上がり、救った人をそっと横たえた。

閉じられた切れ長の目。

透き通る白い肌。

深紅の唇。


──鳶色なんだ。君の瞳は鳶色なんだよ……!


理由はわからない。

だが、確信だけが胸に突き刺さる。

目が離せない。

逸らすことができない。

そっと肩に触れた瞬間──


──ドクン。


心臓が大きく跳ねた。


──ウォン! そうだよ、知ってるんだ!


ブランシュの尻尾がプロペラのように回る。

男は動揺しながらも、女を横向きにし背中を摩った。


ゴボリと海水を吐き、咳き込む。

ブランシュがその顔を舐める。

男は安堵し、砂浜に倒れ込んだ。


──今度は間に合った。


今度?

今度とは、なんだ?

考えるのは後だ。

まずは助けなければ。

自宅はすぐそばだ。

担いで帰れる。


◇◇◇


シュウシュウと蒸気を上げるヤカン。

男はぼんやりとそれを見つめていた。

あれから女を背負い、なんとか家まで辿り着いた。

自転車は置いてきた。明日取りに行けばいい。


ソファに女を寝かせ、タオルを取りに走る。

歩くうちに海水は滴り落ちていたが、

濡れた衣服と髪はまだ冷たかった。

まずは頭を拭き、次に身体の水気を丁寧に拭き取っていく。


「大丈夫ですか?」


漆黒の長い髪はまだ冷たく、乾く気配もない。

その髪を拭き取りながら、もう一度声をかける。


──クゥン 寝てないで、起きて!


ブランシュが鼻先でつつき、女はゆっくりと起き上がった。

純平が渡したタオルを受け取り、頭へと乗せた。

鳶色の瞳が、男を捉える。


挿絵(By みてみん)


その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

頭のてっぺんから何かが流れ込み、足先へ抜けていくような──

言葉にできない感情の奔流。


「…あの」


声を出そうとするのに、言葉が出てこない。

声にならないが、それでも話したい。


何を話すのか自分でもわからない。

喉の奥まで何かが出かかっているのに形にならない。


「ここは?」


意外にもその声は落ち着いていた。

初めて聞く声なのに、ひどく懐かしい。


「僕の自宅です。病院のほうがよかったですか?」


女はゆっくりと首を振る。


「ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」

「こんな季節、それも真夜中に海水浴って訳じゃないですよね」

「……」


女は口を閉ざした。

笑わせたいわけじゃない。

ただ、深刻な空気にしたくなかった。


本当は今すぐにでも、何があったのか全部聞きたい。

だが、初対面だと気づき、苦笑する。


「僕は神崎純平といいます。色々聞きたいこともありますが。今はそんな気分じゃないですよね。まずは暖かいシャワーでもどうですか?」


──クゥン そうしなよ!


ブランシュが同意するように尻尾を振る。

女も小さく頷いた。


浴室の場所や乾燥機の説明を終え、ヤカンに火をかけた。

彼女の瞳を見てから胸の奥がざわついている。

自分はどうしてしまったのか。


ヤカンが噴き出す音に我に返る。

インスタントコーヒーにお湯を注ぎ、ソファに座る。

嵐のような出来事を思い返す。


ブランシュが突然吠え、外へ飛び出したのが二時間ほど前。

あの尋常じゃない速さ。何かに呼ばれたように。


いや、わかってるはずだ。

ブランシュを追いかける前から、胸の奥はざわついていた。

閉じられた瞳の奥が、わかっていただろう?

知っているんだよ──!


──いや、何を知っているというんだ?


──ウフゥ わかってるでしょ?


ブランシュがそう言っているように見える。


そんな馬鹿な、とも思う。

でも、彼女を“身近”に感じるのは確かだった。


身近なんて言葉じゃ足りない。

もっと深いところで、何かが繋がっている。


ただ、ブランシュを自転車で追いかけ、人を背負って歩いて帰り、気づけば疲労で意識が遠のいていた。


◇◇◇


熱いシャワーが冷え切った身体をゆっくりと解きほぐす。

心地よさに思わず安堵している自分に気づく。


──私は命を絶とうとしていたはずよ。


その瞬間、現実が一気に押し寄せた。

どうすることもできない事情。逃げ場のない日々。

考えるだけで胸が締めつけられる。


──どうして助けたのよ。


素直に感謝できない自分がいる。

でも、矛盾するようだけど純平を見たとき、確かに感じた。


“やっぱり” ──そう思ったの。


──助けてくれるって、信じていたの?


わからない。ただ、自然だった。

あの白い犬もそう。もちろん犬は好きだけど、

あの犬に向けたあの感情はなんだろう?


──とにかく、お礼を言わなくちゃ。


シャワーを止め、曇った鏡を手で拭う。

目は赤く腫れているのに、頬は桜色に上気していた。


身体を拭き、乾燥機にかけてあった下着を身につけ、

用意された男物の服を借りる。


リビングに戻ると、純平がソファに崩れ落ちていた。


──ワフゥ 気持ちよかったかい?


ブランシュがそう言っているように見えて、思わず笑みがこぼれる。

純平をそっと揺り起こす。


「あの、起きてください」


純平はビクッと身体を震わせて目を覚ました。


「ごめんなさい」

「すみません、いつの間にか寝てしまって」


慌てて起き上がる純平。


「私…」


言い淀む千代里の目に、薄く涙が浮かぶ。


「大丈夫ですよ。何も言わなくていいんです。無理しなくていい」

「…ありがとう」


その声は震えていた。

純平は何か言いたいのに、言えないもどかしさを感じる。


──きっと、つらいことがあったんだろう。


「今日はゆっくり休んでください。あ、ひとつだけお願いしてもいいですか?」

「はい…なんでしょう?」


純平は少し迷ってから、いたずらっぽく笑った。


「あの、お名前だけでも教えてもらえますか?」

「そうですよね。私ったらごめんなさい。原千代里といいます」


その瞬間千代里が初めて笑った。


──なぜだろう。やっぱり懐かしい。


ブランシュが穏やかな目で二人を見守っていた。


◇◇◇


千代里は見知らぬ部屋にいた。

そこは純平の寝室──独り身の男性らしい、飾り気のない無機質な空間。

唯一の彩りは出窓に置かれた白い犬の置物だった。


──よっぽど犬が好きなのね。


思わずクスリと笑う。

その笑いは今日一日で初めての“人間らしい反応”だった。


「僕はリビングで寝るから、気にしないで」


純平は軽く手を振って部屋を出ていく。

残された布団は少し押し入れの匂いがしたが、きちんと洗濯されていて清潔だった。


──眠れるかしら?


千代里は無意識に首元へ手をやる。

そこには紅いダイヤを引き延ばしたような形のアザ。

不安になるといつも触れてしまう癖。


布団に横たわると、胸の奥に重たい記憶が浮かび上がる。


──お父さん…


父の工場。

借金。

取り立て屋。

玄関先で土下座する父の姿。


千代里は働き詰めだった。

文具メーカーの事務を終え、コンビニの深夜バイトへ向かい帰宅して内職。

稼いだ金はすべて借金の返済に消えた。


それでも父を見捨てられなかった。

たった一人の家族だったから。


胸が締めつけられる。

その痛みが眠気と混ざり、意識がゆっくり沈んでいく。


布団の温もりが遠のき、世界が白く静かに、雪のように溶けていく。


そして ──

過去へと意識が引き戻されていった。



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