予感
──鼻がくすぐったいな。
──じっとしていられないよ。
──なんだかわからないけど、わかるんだ。
──真っ暗だけど楽しいな。
──カチカチ音がするよ。楽しいな。
──もうすぐなんだよ。その先にいるんだよ。
闇夜に光る稲妻のように、物体が駆け抜けていく。
ハッ、ハッ、と息遣いも聞こえる。
街灯もまばらな道路を、純白の犬が疾走する。
彼の名はブランシュ。
わずかに闇が揺らぎ、一瞬のフラッシュのようだった。
素晴らしい速度で何かが駆け抜ける。
日の光があれば、その純白の体毛が風に靡く様が見て取れたはずだ。
緩やかなカーブでも速度を落とさず、最短距離を進む。
目に見えない“何か”が、まっすぐブランシュを引っ張っている。
カチカチとアスファルトを掴む爪の音は、規則正しく時を刻む秒針のようだ。
何を追っているのかはわからない。
だが、胸の奥が熱くなる。期待と喜びが混ざり合い、ただ走らずにはいられない。
理由なんていらない。ただ“そこにいる”とわかる。
それだけで十分だった。
やがてアスファルトの県道の脇から伸びる、名もない獣道に折れて入る。
少し走ったところで、焦れた様子で振り返る。
──早く。間に合わないよ。
──ウォーン、と一声あげる。
しばらくすると、獣道の入り口でライトが光った。
「おいブランシュ、どこなんだよ?」
獣道に自転車を乗り入れながら、男が叫ぶ。
──ウォン! 早く!
ブランシュは踵を返し、さらに速度を上げた。
ススキや名も知らぬ雑草が身体を打つが、気にも留めない。
目の前に砂浜が見えてきた。
ブランシュは一気に加速した。
波打ち際まで来ると、海の中を凝視する。
そして、迷いなく海へ飛び込んだ。
その視線の先で、何かが蠢いている。
「おい、ブランシュ、なんだっていうんだ。待てよ!」
砂浜を自転車で走れない男は、自転車を投げ捨てて駆け出す。
すでに五十メートルほど海に入っているブランシュが見えた。
何をしているのか全く理解できない男は、
雲の切れた月明かりに照らされた海に目を凝らした。
白い ──何かが見える。
ブランシュとは違う白。
その白い影に、ブランシュが追いついた。
──ウォッ、ウォン! 大丈夫、僕が引き上げる!
ブランシュが何かを咥え、必死に引っ張っている。
男は波打ち際からその様子を見つめるが、状況が掴めない。
「ひぃっ……」
ブランシュとは違う声。人の声だ。
男はためらわず海へ飛び込み、全力で水を掻いた。
衣服が重く、動きはぎこちない。
それでも、なんとかブランシュのそばへ辿り着く。
長い髪が揺れていた。
首の後ろに手を入れて引き寄せると、身体はぐったりとしていた。
沈む寸前だったのだろう。
急いで浜辺へ向かう。
先に戻ったブランシュが吠えている。
──クーン……大丈夫かな。
男もようやく浜へ上がり、救った人をそっと横たえた。
閉じられた切れ長の目。
透き通る白い肌。
深紅の唇。
──鳶色なんだ。君の瞳は鳶色なんだよ……!
理由はわからない。
だが、確信だけが胸に突き刺さる。
目が離せない。
逸らすことができない。
そっと肩に触れた瞬間──
──ドクン。
心臓が大きく跳ねた。
──ウォン! そうだよ、知ってるんだ!
ブランシュの尻尾がプロペラのように回る。
男は動揺しながらも、女を横向きにし背中を摩った。
ゴボリと海水を吐き、咳き込む。
ブランシュがその顔を舐める。
男は安堵し、砂浜に倒れ込んだ。
──今度は間に合った。
今度?
今度とは、なんだ?
考えるのは後だ。
まずは助けなければ。
自宅はすぐそばだ。
担いで帰れる。
◇◇◇
シュウシュウと蒸気を上げるヤカン。
男はぼんやりとそれを見つめていた。
あれから女を背負い、なんとか家まで辿り着いた。
自転車は置いてきた。明日取りに行けばいい。
ソファに女を寝かせ、タオルを取りに走る。
歩くうちに海水は滴り落ちていたが、
濡れた衣服と髪はまだ冷たかった。
まずは頭を拭き、次に身体の水気を丁寧に拭き取っていく。
「大丈夫ですか?」
漆黒の長い髪はまだ冷たく、乾く気配もない。
その髪を拭き取りながら、もう一度声をかける。
──クゥン 寝てないで、起きて!
ブランシュが鼻先でつつき、女はゆっくりと起き上がった。
純平が渡したタオルを受け取り、頭へと乗せた。
鳶色の瞳が、男を捉える。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
頭のてっぺんから何かが流れ込み、足先へ抜けていくような──
言葉にできない感情の奔流。
「…あの」
声を出そうとするのに、言葉が出てこない。
声にならないが、それでも話したい。
何を話すのか自分でもわからない。
喉の奥まで何かが出かかっているのに形にならない。
「ここは?」
意外にもその声は落ち着いていた。
初めて聞く声なのに、ひどく懐かしい。
「僕の自宅です。病院のほうがよかったですか?」
女はゆっくりと首を振る。
「ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」
「こんな季節、それも真夜中に海水浴って訳じゃないですよね」
「……」
女は口を閉ざした。
笑わせたいわけじゃない。
ただ、深刻な空気にしたくなかった。
本当は今すぐにでも、何があったのか全部聞きたい。
だが、初対面だと気づき、苦笑する。
「僕は神崎純平といいます。色々聞きたいこともありますが。今はそんな気分じゃないですよね。まずは暖かいシャワーでもどうですか?」
──クゥン そうしなよ!
ブランシュが同意するように尻尾を振る。
女も小さく頷いた。
浴室の場所や乾燥機の説明を終え、ヤカンに火をかけた。
彼女の瞳を見てから胸の奥がざわついている。
自分はどうしてしまったのか。
ヤカンが噴き出す音に我に返る。
インスタントコーヒーにお湯を注ぎ、ソファに座る。
嵐のような出来事を思い返す。
ブランシュが突然吠え、外へ飛び出したのが二時間ほど前。
あの尋常じゃない速さ。何かに呼ばれたように。
いや、わかってるはずだ。
ブランシュを追いかける前から、胸の奥はざわついていた。
閉じられた瞳の奥が、わかっていただろう?
知っているんだよ──!
──いや、何を知っているというんだ?
──ウフゥ わかってるでしょ?
ブランシュがそう言っているように見える。
そんな馬鹿な、とも思う。
でも、彼女を“身近”に感じるのは確かだった。
身近なんて言葉じゃ足りない。
もっと深いところで、何かが繋がっている。
ただ、ブランシュを自転車で追いかけ、人を背負って歩いて帰り、気づけば疲労で意識が遠のいていた。
◇◇◇
熱いシャワーが冷え切った身体をゆっくりと解きほぐす。
心地よさに思わず安堵している自分に気づく。
──私は命を絶とうとしていたはずよ。
その瞬間、現実が一気に押し寄せた。
どうすることもできない事情。逃げ場のない日々。
考えるだけで胸が締めつけられる。
──どうして助けたのよ。
素直に感謝できない自分がいる。
でも、矛盾するようだけど純平を見たとき、確かに感じた。
“やっぱり” ──そう思ったの。
──助けてくれるって、信じていたの?
わからない。ただ、自然だった。
あの白い犬もそう。もちろん犬は好きだけど、
あの犬に向けたあの感情はなんだろう?
──とにかく、お礼を言わなくちゃ。
シャワーを止め、曇った鏡を手で拭う。
目は赤く腫れているのに、頬は桜色に上気していた。
身体を拭き、乾燥機にかけてあった下着を身につけ、
用意された男物の服を借りる。
リビングに戻ると、純平がソファに崩れ落ちていた。
──ワフゥ 気持ちよかったかい?
ブランシュがそう言っているように見えて、思わず笑みがこぼれる。
純平をそっと揺り起こす。
「あの、起きてください」
純平はビクッと身体を震わせて目を覚ました。
「ごめんなさい」
「すみません、いつの間にか寝てしまって」
慌てて起き上がる純平。
「私…」
言い淀む千代里の目に、薄く涙が浮かぶ。
「大丈夫ですよ。何も言わなくていいんです。無理しなくていい」
「…ありがとう」
その声は震えていた。
純平は何か言いたいのに、言えないもどかしさを感じる。
──きっと、つらいことがあったんだろう。
「今日はゆっくり休んでください。あ、ひとつだけお願いしてもいいですか?」
「はい…なんでしょう?」
純平は少し迷ってから、いたずらっぽく笑った。
「あの、お名前だけでも教えてもらえますか?」
「そうですよね。私ったらごめんなさい。原千代里といいます」
その瞬間千代里が初めて笑った。
──なぜだろう。やっぱり懐かしい。
ブランシュが穏やかな目で二人を見守っていた。
◇◇◇
千代里は見知らぬ部屋にいた。
そこは純平の寝室──独り身の男性らしい、飾り気のない無機質な空間。
唯一の彩りは出窓に置かれた白い犬の置物だった。
──よっぽど犬が好きなのね。
思わずクスリと笑う。
その笑いは今日一日で初めての“人間らしい反応”だった。
「僕はリビングで寝るから、気にしないで」
純平は軽く手を振って部屋を出ていく。
残された布団は少し押し入れの匂いがしたが、きちんと洗濯されていて清潔だった。
──眠れるかしら?
千代里は無意識に首元へ手をやる。
そこには紅いダイヤを引き延ばしたような形のアザ。
不安になるといつも触れてしまう癖。
布団に横たわると、胸の奥に重たい記憶が浮かび上がる。
──お父さん…
父の工場。
借金。
取り立て屋。
玄関先で土下座する父の姿。
千代里は働き詰めだった。
文具メーカーの事務を終え、コンビニの深夜バイトへ向かい帰宅して内職。
稼いだ金はすべて借金の返済に消えた。
それでも父を見捨てられなかった。
たった一人の家族だったから。
胸が締めつけられる。
その痛みが眠気と混ざり、意識がゆっくり沈んでいく。
布団の温もりが遠のき、世界が白く静かに、雪のように溶けていく。
そして ──
過去へと意識が引き戻されていった。




