予兆
■ お父さん
「エコリアチ!」
自分の叫び声で目が覚めた。
なんだろう、何の言葉なのかわからなかった。
── あっ……
千代里の頬を涙が伝っていた。
どうして泣いているんだろう?
どうしていいかわからない恐怖、絶望、そんな漠然した気持ちを思い出したような気がした。
だが、それ以上何も思い出せなかった。
よくわからないが、涙を拭うと半身を起こした。
部屋の中は明るく、柔らかな光が差し込んでいる。
日の光を浴びた犬の置物が、優しく微笑んでいるように見えた。
千代里はゆっくりとベッドから起き上がると、階下へ降りて行った。
階段を降り、リビングへと入る。
リビングに接続したキッチンでは、純平が背を向けて何かしている。
コーヒーの良い香りと、卵の焼ける匂いが千代里の食欲を刺激した。
── カタリ
その時、千代里の足が椅子に当たって音を立ててしまった。
その音に純平が振り返る。
── エコリアチ
── アベナンカ
二人の心に同時に呼び声が響いた。
凄く懐かしいのだが、だが、詳しく思い出すこともできなかったし、意味がわからなかった。
しばらく見つめ合う二人。
── バゥ
ブランシュが焦げてるよ、そう言わんばかりに吠える。
「いけね、ああっ、焦げてる……」
我に返った純平は、慌ててフライパンの火を止めると、フライパンから皿へ焦げた目玉焼きを移した。
「私も手伝います」
千代里も、すぐに駆け寄って置いてあった食パンを手に取る。
「食パン、トーストしますよね?」
「あ、座っててください。疲れているでしょう? あ、この焦げたやつは僕が食べるんで安心してください」
純平は焦がしたこともあり、苦笑いを浮かべている。
「助けてもらって、ベッドも提供してもらいましたし、これくらい手伝わせてください」
千代里は改めて頭を下げていた。
「いえ、そんな。じゃあ、お言葉に甘えて手伝ってもらおうかな。トーストお願いしますね」
純平はそう言うと、また卵を割るとフライパンで焼き始めた。
── 朝食の用意ができ、二人がテーブルに着いた
「あんまり大したものはないですけど、しっかり食べてくださいね」
純平が自分の焦げた目玉焼きを見て、苦笑している。
「いえ、ありがとうございます。ごちそうになります」
そう言って千代里も笑顔を浮かべる。
千代里の笑顔が自然になってきたことに、純平も素直に喜んだ。
目の前で湯気を上げるコーヒーが、千代里の鼻腔をくすぐった。
「父もよく、目玉焼き崩したり、焦がしたり……」
千代里は焦げた目玉焼きを見つめた。
「上手く焼けなくて、本当にごめんなって、いつも謝ってました。作ってくれるだけでも嬉しいのに」
純平は黙って千代里を見守った。
「ある日、父がいなくなってしまったんです」
千代里がぽつぽつと語りだした。
ある日、千代里が学校から帰ってくると、玄関先で土下座している父がいたのだ。
黒塗りの車が止まっており、スーツ姿であるが、見るからに嫌らしい感じがする男が二人、父に何かを話している。
「原さん、困るんですよね。もう、待てないですよ?」
「あと一週間だけ待ってもらえませんか」
父は頭を玄関に並べられた靴の真横に、額を擦り付けて謝っていた。
「仕方ないなぁ。これでダメなら、工場売ってもらいますよ? それか、この家売ります? どっちでもいいけど、そうしてもらいますよ?」
そう言って、父の頭をぐしゃぐしゃと撫でつけると、振り返って車に向かう。
その途中、男が千代里を見つける。
「あらあら、高校生の娘さんね。いいねぇ、女子高生。可愛いね」
男は髪をコームで整えると、ニヤニヤと笑い、再度父に向き直る。
「原さん、娘さんにもいい働き口紹介しようか? 稼げるよ?」
「お金は用意します。娘は関係ありません。帰ってください!」
父は起き上がると、そこは凄い剣幕で追い返すように言い放った。
「おお、元気だね。その調子でお金稼いでね。バイバイ」
借金の原因は母だった。母は怪しげで高額な商品を、セミナーで購入していた。
父も使い道が分かった以上、母へお金を渡すこともなくなったのだ。
そのため、母はセミナー側から斡旋された業者から借りていた。
父が知った頃には、返しきれない額になっていたのだ。
母が消えると、男たちは工場にまで来るようになった。父は仕事と家族を守ろうと、返済を続けていたのだ。
それから父と二人、頑張って返済してきたのだが、ある日父が倒れたと工場から連絡があった。
過労が祟ったことと、もとから心臓が弱かったこともあり、軽い心筋梗塞を発症したようだった。
「ごめんな、本当にごめんな」
病院に行くと、父は涙を流して千代里にずっと謝っていた。
退院した父は、働ける状況ではなく、一日中家でぼーっとしていた。
そんな中でも返済は続いた。
■ 失踪
空が少しだけ明るくなりかけていた。
暗い空が、薄っすら紫色になってきていた。
朝の4時過ぎに、疲れ切った千代里がコンビニのバイトを終え、家へ向かっていた。
鍵を取り出して、扉の鍵穴へ入れて回そうとしたが、鍵が開いていた。
不安が胸をよぎる。
扉を開けると、二階へ駆けあがり、父の部屋へ向かう。
さっきまで寝ていた、そんな感じに捲れ上がった布団だけがあった。
それ以外はいつも通りだった。
置手紙も何もなく、荷物もそのままだ。
唯一、父の靴だけが無かった。
どこに行ったのだろうか?
寝ることもできず、朝になっても、昼になっても父は戻らなかった。
工場へも行ってみた。
専務の片山さんに聞いてみたが、来ていないという。
「千代里ちゃん大丈夫かい? お父さんも、本当に頑張ってたよ……」
片山の顔には同情が漂っている。
「夜中まで仕事もしてたしね。身体壊すよって、何度も言ったんだけどね。こっちにきたら、必ず連絡するから。千代里ちゃんも、ちゃんと休むんだよ」
優しく労わってくれる片山の言葉に、千代里は泣き出していた。
そして、父は帰って来なかった。
父の部屋に入ると、本棚から不自然に飛び出ている封筒を見つけた。
以前は父がいなくなったドタバタで、まったく気が付かなかった。
封筒の中からは、写真が一枚出てきた。
どうやって入手したのかは不明だが、そこには母の姿があった。
海外だろうか、日本では見かけない建物が見える。
そして、テレビでしか見たことのないような、透き通るような海が母の後ろの窓から広がっているのが見えた。
その母は、何か銀色の不思議な帽子のようなものを被り、満面の笑みを見せていた。
写真と一緒に、小さなメモ書きも見つかった。
── 千代里、本当にすまん。もう我慢できない
そうメモには殴り書きされていた。
千代里にもよくわからないが、借金の対応や、捜索対応など、父は本当に寝る間も惜しんで動いてきた。
そんな時に、こんな写真を見たらどうなるだろうか。
クシャクシャと写真を握りつぶすと、ゴミ箱に放り込んだ。
必然的に、千代里に全てがのしかかる。
最初はまだ対応はできたが、睡眠時間は削られて疲労が蓄積する。
千代里が頑張ったとしても、独りの限界を超えてしまっている。
今まで何とか工面してきたのだが、次の返済はとても払えそうになかった。
眠れていないので、まともに考えることもできない。
── 最後に海が見たいな…
そして、千代里は海に向かったのだった。
「辛かったですよね。話してくれてありがとうございます。少し食べられそうですか?」
話し終えても、ずっと俯いている千代里に純平が声を掛ける。
「ごめんなさい、こんな話されて困っちゃいますよね……」
千代里は右耳に髪をかき上げると、純平を見つめた。
「そんなことないです。僕でよければ全然聞きますよ」
優しく微笑みかける純平を見ると、不思議と千代里の心が落ち着いていくのが分かる。
「ありがとうございます。いただきます」
千代里はゆっくりとコーヒーを一口飲みこんで、モカの香りを胸いっぱい吸い込んだ。
■ 尾行
朝食を終えて、皿やカップを洗って片づける。
純平も千代里も、黙々と作業した。
「あの、これだけご迷惑をおかけして、お願いできることではないと思うんですが……」
千代里が皿を拭いて食器棚に戻した後、おずおずと尋ねる。
「迷惑だなんて、あの場面で助けるのは普通ですから、気にしないでください。それで、お願いって?」
純平はリビングの椅子に腰かけ、千代里にも身振りで座るように促す。
「はい、先ほど話した通り、自宅には借金の催促に業者が来るんです。荷物を取りに戻りたいんですけど、あいにく何も持ってなくて……」
そうか、純平は今更ながら気が付いた。
あのようなことをするんだから、何も持たずに家を出たということなんだろう、そう理解した。
「わかりました。ではご自宅までお送りしますよ」
にこやかに答える純平に、深々と千代里が頭を下げた。
── 千代里の自宅の近くに止まる黒塗りの車
「おい、あれ、娘じゃねぇか?」
黒塗りの車の後部座席で、取り立てにきていた男が呟く。
「娘出てきたら、跡つけろ」
そう言うと、黒いフィルムの貼られた窓が、自動で閉まっていく。
── 自宅から出てくる千代里
「ごめんなさい、荷物取ってきました」
千代里が白の四駆の助手席に乗り込む。
「あの、自分考えていたんですけど、良かったら家にしばらくいますか?」
純平が意を決して千代里に告げた。
「え?」
千代里は少し驚いたが、嬉しいという気持ちもあったことに気が付く。
「あ、ごめんなさい、変な意味じゃないんですよ。えっと、いや、まあ、その、そうですよね。わけのわからない他人の家ですもんね、すみません。どこまで送ればいいですか?」
千代里が困っている、そう思った純平がしどろもどろになる。
「あ、そうじゃなくて。じゃあ、純平さんのお家まで…」
千代里も言って顔が赤くなり、俯いてしまった。
「ですよね、って、え、本当ですか?」
純平は驚いたが、自然と笑顔になっている。
黙って頷く千代里に再度笑いかけると、ゆっくりと白い四駆を走らせた。
千代里の顔には安堵が浮かんでいた。
安心して帰る場所ができたことに。
そして、何より純平といることで安心できる自分に、少し驚きもしていた。
舞い上がった純平と、ほっとした千代里を載せて、四駆が走り去る。
その四駆が角を曲がると、黒塗りの車もゆっくりと走り出した。




