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一ノ瀬英一のおバカ譚  作者: 八野はち
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89話「白銀ゆきの優しさ」

次の日の夜。辺りはもう暗くなり、人通りも少なくなってきた夜20時過ぎ。お腹を下し公園のトイレで気を失っていた俺は、目を覚ますとこんな時間になっていた。家になにか食べるものはあったかと考えながらふらふらと歩いていると、河原の方からじゃぶじゃぶと音が聞こえてきた。




それとはなしに見ると、暗くてはっきりは見えないが、見慣れたシルエットが何かを洗っていた。まさかとは思ったが、なんとなく近づいてみることにした。




「ジャリッ。ジャリッ」




 俺の歩く音が夜の静かな河原に響く。




「こらー君何してるの!こんな夜遅くに怪しいねー。まさか怪しい粉とか持ってないよねー?最近は空き巣被害も多いし、物騒なんだよねー。ちょっと一緒に来てもらっていいかなー?」




 俺は怪しい人物に声を掛けることにした。




「ええええええええっ⁉な、なにも怪しいことなんて、してないですよ⁉ど、泥棒っ⁉そっ、そんなの知りませんっ!あっ!僕怪しい人知ってます!一ノ瀬英一っていう人なんですけど、まだ高校生だからってあまく見ない方がいいですよ⁉今のうちに


逮捕しといたほうがいいです!」




「ふーん、でも最近ここらのお家を柵の外からじっと見てる怪しい人がいるってよく通報くるんだよね。君の写真と一緒に」




「ひいいいいいいいいいっ⁉」




 慌てて川に飛び込んで逃げようとした白銀を、俺も慌てて止める。




「おいばっか!冗談だろうが!俺だよ俺!真に受けんな!」




「刑務所は嫌です!僕はまだ捕まるには早すぎってん?」




 ようやく落ち着いたらしく、俺のことを認識する。




「よっ。昨日ぶりだな」




「こらー!君ってやつはー!ほんっとにもうっ!なんてことするのさ!ほんとに焦ったんだからね⁉」




「いやあ悪い悪い。見知った顔を見かけたもんでからかってやろうかと思ってな。ドキドキしたろ?」




「危うく真冬の川に飛び込むところだったよ!心臓ドキドキどころか止まっちゃうところだったよ!」




 プンプン怒って詰め寄って来る。




「ごめんって。こんな時間にこんなところで何してたんだ?ほんとに通報されるぞ?」




「君に言われたくないし!いつも犯罪まがいの発言に、ハラスメントまがいのことし


かしないくせに!」




「おいおいさっき一瞬で人のこと売ろうとしてた自分のことは棚に上げるのかい?」




「あ、あははー。そっ、それはもちろん冗談だよー。君だって分かってたからああ言


ったんだよ。あははっ」




「そーかそーか。分かってたのか。ならもう怒る理由はどこにもないなー?」




「くっ。僕悪くないはずなのになんかだよね。ほんとにこの人は」




 不満そうに頬を膨らませている。




「で?こんな所でなにしてたんだ?」




「え?あー、いや、それは、ね?ほら、うーんとそのー」




 歯切れが悪そうに言いよどむ。




「なんだよ」




 覗き込んでみると、洋服がいっぱいあって、どれも濡れているように見える。




「ま、まさか、か、川で洗濯とか言わないよな?今令和だぞ?お前、日本昔話の人間か?」




「うっ、うるさいなー。洗濯機が壊れたんだよ。洗濯物もたまってるししょうがないでしょー?」





 恥ずかしそうに頬をそめているのが容易に想像できる。




「だからこんな夜に人にバレないようにこっそり洗ってたのか。恥ずかしいもんな」




「まあ最近はもう普通に子供たちが遊んでる横で公園の雑草抜いてるし、慣れてきた


けどね。この時間に洗ってるのはさっきまでバイトの面接受けてたからだよ」




「メンタルがバケモンすぎる」




「うるさないなあ。ほっといてよ」




「じゃあ俺は山に芝刈りに行ってくるから桃が流れて来ても食べるなよ?」




「そのいじりムカつくんですけど!やめてくれる⁉」




 と、ムッとして言い返すが。




「ぷっ、くすくす」




 耐え切れずに笑いがこぼれる。




「あー、やっぱり君といるのは楽しいな」




 そう言い終わるや否や、急に寂しげで切なげな顔を浮かべる。




「でも、諦めないとね」




 何かをぼそっと呟くが、それは川の流れと夜風にさらわれ届かない。




「どうかしたのか?」




「なんでもないよ。さっ。さっさと帰った帰った。僕は選択で忙しいんだよ」




「寒いだろこんな冷たい川で。手伝ってやるよ。石鹸二つに切ろう」




「い、いいよそんな。一人でできるから。僕はもう、これ以上は逆に……」




 苦しそうに胸を押さえる白銀。さっきから何か辛そうに見える。やはり置いて帰る


のは違う気がする。




「一人より二人の方が早いだろ。いいから半分よこせ」




「だ、だからいいって!気持ちは嬉しいんだけど、すぐ終わるから!それにほらっ、


僕は家事とか結構好きだし、大丈夫だよ」




 かたくなにさせたくないらしい。変な意地張りやがって。




「じゃあ横でうんこついた靴でも洗っとくか」




「そしたら汚い水がこっちに流れてくるでしょ!」




「じゃあ好きな方を選べ。俺に洗うのを手伝わせるか、靴をあらわせるか。どっちが


いい?」




「だーかーらー!下着もあるの!変態!言わせないでよ!」




 頬を赤く染めてこちらを軽く睨んでくる。




「なんだうんこ漏らしたのか。そりゃ隠したがるわな。大丈夫恥ずかしがんなって。


俺がうんこ落とす方法レクチャーしてやるよ」




「違うから!なんですぐそうなるのさ!そんな理由で恥ずかしがってたんじゃない


よ!しかも普通はおしっこだよね⁉」




「じゃあ洋服だけ洗うの手伝ってやるよ。一人より二人の方が早いだろ?」




「あっ、ちょっと待ってよ!」




 焦って阻止しようとする白銀をかわし、無理矢理置いてあったTシャツを手に取って見ると、よく見るとあちこちに小さなつぎはぎや縫い跡があった。




「これ……」




「貧乏くさいよね。普通の子はこんな服着ないもんね。あはは。見られちゃったか恥ずかしいな」




 作り笑いをして誤魔化しているのが俺には分かった。だから必死に隠したがったんだ。下着なんかよりも多分これを見られたくなかったんだろうな。でもいつも着ているがまったく気づかなかった。それくらい上手に目立たないように縫われている。不器用なこいつがそんなことたんたんとこなせるわけがない。多分バイトの合間を縫って、何時間もかけて徹夜でやっているんじゃないだろうか。




「僕だって一応女の子だから、せめて目立たないように頑張って縫ったりしてるんだ


よね。あはは。みっともないよね」




 恥ずかしそうに自分の着ている上着を両手で抱きしめて隠そうとする。




 今なら少し分かる。ほんとは絶対に見せたくなかったし、心の中では恥ずかしくて、情けなくて、みっともないって気持ちを必死に隠して笑って誤魔化してるんだって。




「みっともないかって?みっともないもんかよ。可愛いよ。似合ってる。俺はどんな可愛く着飾った綺麗で高価な服を着た女の子よりも、古くなっても大切に丁寧に扱われて、思いの詰まった服を着たお前の方が綺麗だと思うぜ。お前の着る服はお前に着られるの喜んでると思う。だからお前の着る洋服はこんなにも似合ってて可愛いんだな」




「……」




 暗くてよく見えないが、泣いているのが分かった。




「ぽろぽろっ」




「だっ、ダメだな最近の僕はっ。簡単には泣かないって決めてるのにっ、泣いてばっかりだ。このままじゃ弱くなっちゃうな」




 溢れ出る涙を拭おうとするが、次々と溢れ出てくる。




「なんでっ、なんで君はこんなに嬉しいことばっかり言ってくれるのかな。こんなんじゃ、ぼく、君のことっ。無理だよっ。せっかく、諦めようって、決めたのにっ。なんでまたっ、そんなことっ、言うのさっ。ひっく。ずるいよっ」




 両手で顔を覆っていた白銀が、ゆっくり手をどける。




「ありがとうっ。僕は、君の言葉に、君に、こんなにも、救われてる」




「俺はただ、俺の言いたい事言って、やりたいようにやってるだけだよ」




「ずるい人だな。無自覚でこんなこと言わないで欲しいよ」




 また小さく何かを呟いた。




「なんだって?」




「このろくでなしって言ったんだよ」




「なんで今ディスられるんだよ」




「あはは。なんでだろうね」




 二人で洗濯物を洗いながら雑談する。




「俺が対岸まで石はねさせるから見とけよ」




 俺は河原にたくさん散らばっている石を一つ掴むと川に向かって投げる。数回跳ねて途中で沈んでしまう。




「僕だって負けないよ」




 白銀も負けじとそこら辺の石を掴もうとする。




「ああその辺の石はやめとけ」




「え?そんなの分かるの?すごい!」




「まあな。そこら辺は角がとがってるからダメだ」




「じゃあこの辺は?」




「そこもダメだな。その辺の石は一昨日俺が靴の裏についたうんこを削り落とすのに使ったからな」




「汚いよ!何してるの君はほんとに!一昨日もここで靴洗ってたの⁉懲りずに今日も踏んで来て、何回踏むのさ君は!ほんとは目利きができるんじゃなくて全部君がうんこつけたんじゃないの!てかよく見たらほとんどの石が茶色いんだけど⁉一体どんだけ踏んでるの⁉」




 触りかけた石を凝視して急いで手を引っ込める白銀。




「バレちゃあしょうがねえ。そうさ。ここらは俺の縄張りなのさ」




「さっきの感心返してもらっていいかな⁉」




 しばらく二人で洗い続け、ようやく洗い終わった。




「ぎゅるるるるるる~っ!」




 強烈な音が夜の河原に響き渡る。




「あ、あははー、す、すごい音だね―⁉な、なにか工事してるのかなー⁉ねっ⁉ねっ⁉」




 頬を赤く染めて目を血眼にさせ、必死に訴えかけてくる。




「そーだなー。多分虫の鳴き声じゃねえか」




「そっ、そうだよね⁉ここら辺は虫多いもんねっ!夜だしなんかいっぱい鳴いてるん


だろうねっ!」




 まあ虫は虫でもお腹の虫なんですけどね。




「はあ。お腹空いた」




「よし!じゃあ今夜の夕食捕まえるかあ!」




 俺は立ち上がり夜の河原を見渡す。




「僕鯛が食べたい!」




「バッタの天丼にするぞ!」




「せめて川の方にしない⁉流石の僕でもまだ食べたことないよ!」




 河原の水は冷たく、そこには魚や虫なんかよりも、夢や希望がつまっていた。十一月の夜だった。




 







 翌日。放課後。提出物が終わらず、こんな時間まで一人残ってしまった。


 この時期は、この時間になるとすっかり日は落ち、窓の外は真っ暗になる。廊下はちかちかと点滅するライトに照らされ、はっきりとしない。まるで誰かの心の中を表しているように見えた。




 職員室に教室の鍵を返そうと、ドアを開けると、目の前のデスクには河瀬先生が座って伸びをしていた。机の上には湯気の立っているコーヒーが置かれている。他の先生は少なくみんな帰り支度を始めていた。




「おっ、白銀じゃないか。久しぶりだな。元気にしてたか?」




 僕に気づいた先生が、椅子ごとこちらを向くと、口角をあげて笑いかける。




「は、はい。まあ。あ、あはは」




 僕が一瞬浮かない顔をしてしまったからか、先生は眉をひそめて、なにやら思案顔をする。




「どうだね生活の方は。何か困っていないか?」




「いえ特に困ってはいますが、それは変わらずいつも通りというか、その、大丈夫で


すはい」




「煮え切らない返事だな。まーた草ばっかり食べているのか?昨日は何食べたんだ?」




「昨日は雑草のマヨネーズ和えと、河原の小魚焼きです」




「そんな縄文人みたいな日常を送っているのかお前は……」




 少し引いている先生。




「今度先生と焼肉行こうな」




「や、焼肉っ⁉」




 よだれが床に落ちる。




「もちろん奢りだ。それと、今度缶詰とかレトルトのスープとか箱詰めしてアパートに送っておくから。私もそんなにできることはないのだが、あんまり無理はするなよ?私のことは親戚のお姉ちゃんだと思ってくれていいから」




 微笑んでそう言うと、椅子を持ってきて座るよう促す。




「ううっ。優しいです先生っ。ありがとうございますう」




「うんうん。いつもの調子に戻ってきたな。何かあったのか?よければ聞かせてくれないか?」




「えっ、なっ、なんにもないですよ別に。すいません心配おかけしてっ」




「君の優しいところは長所だが、そんなに気を遣ってばかりいると疲れてしまうぞ」




 優しいまなざしで心配そうに見つめてくる。




「バイトのことか?生活のこと?」




「さっきも言いましたけど、それはいつものことですし、今更ですから」




「そうか。じゃあ、不藤のこと、それとも、一ノ瀬のことか?」




 ドキッとした。一気に胸が苦しくて、悲しい気持ちになる。




「君は分かりやすいな。そうか。あいつか。顔を見れば分かるよ。好きに、なってしまったんだな」




 そう口に出して言われて、改めて実感し、顔が熱くなり、胸が苦しくなる。先生の眼差しが優しくて余計につらい。




「話してみないか?聞かせてくれ」




 話すのはためらわれたが、でも、先生の優しさに負け、気づけば話し出してしまっていた。




「最初は、すごく変な人だと思った。品が無くて意地悪で、非常識。でも話してみると違った。マイペースでぶっきらぼうで、でも本当は優しくて、そしてやっぱり変な人。関わるにつれてどんどん惹かれていった。どこまでも自由で楽しそうで、面白くて予測不可能。どこからともなく現れては、僕を散々振り回してふらりと消えていく。




一緒に夜のお家に忍び込んだり、焼肉屋さんで事件起こして警察署に連れていかれたり、野菜畑でおかまさんに捕まったり、自然公園で遭難したり。


彼と過ごす時間は本当に楽しくて、波乱万丈で、ドキドキワクワクして、心が躍るようだった。一緒に色んな事するたびに彼のことが好きになってた。自覚したのは、一緒にバイトした時、彼が私に言った言葉。




『お前はお前のままでいい。自分を誇れよ。いつか必ず居場所が見つかるし、役割が分かるから』




それを言ってもらえた時、僕は本当に救われた。この人に会うために生まれてきたんだって思った。この人のことが大好きだなって気づいた。


でも、彼には、一ノ瀬くんには、相応しい相手がいたんだ」




 顔を上げると、泣きそうな顔をした先生がいた。いつも凛とした先生のこんな表情は初めてで驚く。




「その相手は、二夕見のことか?」




「二夕見しおさん。真っすぐで強そうな瞳に、自立して凛とした声音。それでいて矢指追うで愛嬌もあって、可愛い女の子でした。一ノ瀬くんとも楽しそうで、僕は入れない二人だけの空気があった。すごくお似合いな二人だなって思った」




「君は、そう思ってしまったんだね」




 儚げで、悲しそうな顔は、ここではないどこかを見ているように見えた。そして、次の瞬間にはいつもの凛とした先生の表情に戻っていた。




「一ノ瀬と二夕見かくっついてもいいのか?」




 先生のその言葉に、また心がえぐられる。ズキズキ痛む。




「二人が話してるのを見て、気づきました。二人は同じ部活で、一年近くもずっとあ


あやって自分をぶつけ合って、本音で言い合いながら、絆を紡いできたんだろうなって。僕なんかとは比べ物にならないくらい、お互いに惹かれ合っているんだろうなって。




一ノ瀬君は分からないけど、二夕見さんが一ノ瀬くんに惹かれているのはすぐに気づきました。あんなに仲が良くて、あんなに素敵な女の子に思われて、好きにならないわけないですよ」




「君はそれでいいのか?諦めるのか?」




「僕もよりも先に出会ってたんですよ。そしてお似合いな二人。こっちの方が綺麗じゃないですか。幸せな二人の間に、僕が我儘に入り込んで、苦しめたくないし、かき乱したくないです」




「でも私には、お前は悩んでいたように見えたが。そのうえで諦めきれないから苦しんでいるんじゃないのか?それに、ほんとにそれでいいのか?気持ちも伝えずに一人だけで抑え込んで終わるなんて、それでいいのか」




「僕は小さい頃から貧乏で好き嫌いなんてしてる余裕はありませんでした。両親が蒸発してからも一人で、もちろんたくさんの人に支えてもらいましたけど、でも一人で生きてきました。我慢するのも、一人で抱えて生きるのも慣れています。最初は辛いかもしれないけど、時間が経てばなんとかなると思います。大丈夫です。あはは」




 先生はまた、ひどく悲しそうな顔を浮かべていた。




「君は優しいね。二夕見に自分みたいに悲しんでほしくないから、一ノ瀬を困らせたくないから。こんな時も自分のことは二の次で、人のことばかり。自分のことはいつも後回しで他人ばかり気にかけて。自分が嫌でも他人が幸せなら自分を押し殺してでも優しくする。自分よりも相手優先。優しすぎるがゆえに自分を蔑ろにする。優しすぎて、そして、危うい」




「そんなことは――――」




「でもね。それは優しさなんかじゃない。それは本当の優しさじゃないよ。それは弱さだ。自分のことを大切にできてないだけなんだ」




 僕の目を、その奥の心を見通すように優しく、でも鋭くのぞき込んでくる。僕の両肩に置かれた手にぐっと力が入る。




「一ノ瀬と出会って変わり始めているように見えた。言いたいことをしっかり言えて、言い返して、いい関係性だと思った。しかしあいつにだけなんだな。君はまだ、その癖を直せていないんだな。




私の高校生の頃の友達に、君と似たような子がいた。誰よりも優しくて、他人のことばかり考えているような子だった。自分のことが疎かになるほどに。みんなが彼女を好きだった。彼女のことを嫌いな人を見たことがなかった。クラスのグループ関係なしにみんなが彼女となら気軽に話せていた。それは彼女が誰でも楽しく話せるように相手に合わせて、相手に気を遣っていたから。みんな優しい彼女が好きだった。




でもね、中にはその子の優しさに甘えすぎる人もいた。この子ならこれくら許してくれる。この子なら少しくらいいじってもいいよね。そんな人たちでも、その子はときどき困ったような顔を浮かべながらも受け入れていた。あまりに思いやりのない言葉にも笑って流していた。そして、彼女に対する遠慮のない言動はエスカレートしていっているように見えた。それでも彼女は怒らなかった。いつも笑って流していた。




私はときどき言った。『怒りたい時は怒ればいいのに』と。でも


『怒るの苦手なんだよね』と彼女はいつも答えた。


 ある時彼女はいなくなった。誰にも何も告げず消えた。すべての人間関係をリセットして転校していった。私の連絡先からも彼女は消えていた。同じ学校の人すべてと縁を切ったんだ。ある日たまたま町で見かけたことがあった。こんなに痩せこけていたんだと驚いた。




彼女はずっと苦しかったのだろう。一度自分を蔑ろにしてまで優しくすると、このくらい平気なんだ。ここまでは言っていいんだ。周囲はそう思って、次からもそうしなければいけなくなる。それが続くうちに、気づけば自分のことを大切にできなくなっていたのだろう。そうまでして優しくすることが自分の中で当たり前になってしまっていた。それが積み重なって積み重なって、ある日パンクしたのだろう。




でも、彼女が苦しんでいたことに誰も気づいてあげられなかった。私はもっとあの子のために怒ればよかったと後悔した。今もしている。いつか限界がくるんだよ。


彼女は結果としてたくさんの人を傷つけた。そしてそのことに誰よりも傷ついただろう。でもそうしないと壊れそうだったのだと私は思う。




この世界は優しい人間だけじゃないんだ。優しい人には何しても怒らないんだととらえる人もいる。私はその子には優しくする人を選んで欲しかった。優しいことは素晴らしいことだと思う。でも自分も同じくらい大切にできる強さを持ちなさい。そうじゃないと結果として自分も他人も傷つける。本当に優しいということは自分にも相手にも優しくできるということだよ」




「ほんとうの、優しさ……」




「そうだ。君の気持ちだって二夕見に負けないくらい大きいものだろ?自分の気持ちも大切にしなさい。私も、二夕見と一ノ瀬はお似合いだと思うが、君も負けないくらいお似合いだと思っている。これは嘘や慰めじゃないよ」




 優しく微笑みながらそう告げて、僕の頬にそっと手を添える。




「でも、僕は……」




「簡単には変えられないかもしれない。変わるのは怖いことだ。悩むのも分かる。でも、一ノ瀬英一はこの世界に一人しかいないんだよ?もしかしたら、この恋は一生に一回かもしれない。一生に一回くらい、自分を優先してもいいんじゃないか?」




「っ!」




 そっと手を離す先生。




「ぼ、僕はっ……」




 彼が好きだ。大好きだ。愛おしい。そばにいたい。ずっとつまらないことを言い合


っていたい。いいのかな?自分を優先しても。いいのかな?僕なんかが幸せになろうとしても。




「一ノ瀬になんて言われた?お前の好きな一ノ瀬ならなんて言うと思う!」




 先生の真っ直ぐな瞳に心が揺らぐ。




『誇れよ。自分のこと卑下すんな』




 あの言葉が脳裡に響く。




「僕はっ……。僕の気持ちを大切にしたい」




「そうか。それが聞けてよかった。なら、ここからが本番だな?恋する乙女の本気をあのバカに思い知らせてやれ。というかその前にあのニブチン野郎は一発ぶん殴ったほうがいいな。私も次見かけたらラリアットかましてやろう」




「ふふっ!僕もやりたいです!」




 こうして、僕の、僕たちの戦いが始まる。

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