天真爛漫男と不老不死女・序
追いつけない。こんなに走っているのに。
いつまでたっても、追いつけない。
みんな私の先を行く。
私を振り返る人もいたけれど、一緒には走ってくれない。
待って。待って。行かないで。
私を置いて行かないで。
安らかな顔をして、ばたばたと倒れていく人々。
何て羨ましいのだろう。
最初から最後まで走りきるというのは、どんな気持ちなんだろう。
私も、そんな死が欲しい。
待って。待って。逝かないで。
私を置いて逝かないで。
私は歌が好きだ。聴くのも好きだけれど、歌うほうが好き。歌っている間は何もかも忘れることができる。嫌なことを全て忘れられる。
――生きていることさえも。
いつから歌うようになったのか、そんな大昔のことは覚えていないけれど、とにかく好きなのだ。
私は今、大勢の人間の前で歌っている。最初の頃は、人前で歌うことに抵抗があったけれど、慣れればなんてことはない。
ただやはり、一人で歌うほうが好きだ。人前では自分の世界に浸れない。要するに、私にとって歌は現実逃避以外の何物でもないのだ。
「いいぞー、姉ちゃん!」
「ヒューヒュー!」
私が歌い終わると、中年の男どもの歓声が沸き起こる。悪い気はしない。ガラの悪い連中も多くいるが、酒場なのだから仕方がない。
私は三ヶ月ばかり前から、この酒場の〈歌姫〉として働いている。自分で言うのも何だけれど、中々評判はいい。まあこんなむさ苦しい場所に、私のような見た目二十代半ばの若い女がいれば、注目されて当然かもしれない。
私は一礼して店の奥へと引っ込んだ。それを見計らったかのように、目の前にコップが突き出される。
「お疲れ様です! 青蓮さん!」
私の名前を呼んで、ニッコリ微笑む一人の少女。この酒場のマスターの娘、芽衣である。
まだ十歳だと言っていたか。何かと私に気を遣ってくれる愛らしい少女だ。
「ありがとう、芽衣」
そう言ってコップを受け取り、水を口に含む。
「今日も素敵でした、青蓮さん! 歌声も容姿も綺麗だなんて、あたし憧れちゃいますぅ」
何だか本当にとろけそうな表情で見つめてくる芽衣。
まあ歌には自信があるから、その言葉は嬉しいけれど、容姿についてはあまり嬉しくない。私は自分の姿にコンプレックスを持っているのだ。幾ら美人と周りから言われようと、自分では当の昔に見飽きているし、むしろ醜いとすら感じている。芽衣のほうが断然生き生きとした表情をしていて、とても〈綺麗〉だと思う。いや、私と比べれば女に限らず男も含めてみんな〈綺麗〉で素敵な顔をしている。さっきの中年の男達だって例外ではない。
もちろん、〈綺麗〉という定義が他とずれていることはわかっている。でも定義なんてものは所詮、世の中が勝手に定めた基準であって、結局は人それぞれである。……とはいえ、芽衣と中年男を同じ〈綺麗〉で表すのは、やはり少し気が引けるけれども。
私は芽衣の言葉に苦笑で返す。芽衣は何故か首を傾げた。
「さっき歌ってらっしゃる時も思ったんですけど。青蓮さん、今日いつもより元気がないんじゃありませんか?」
言われて少し驚いた。確かに今日は少し思うところがあったのだ。ただ、表情や仕草にそれを出した覚えはない。さすが私に憧れていると言うだけあってよく見ている。
「あ、あの! 頼りないとは思いますけど、困っていることがあれば相談に乗りますよ!」
こういう一生懸命な子を見ると、何だか目を背けたくなってしまう。
「別に困ってはいないわ。ただ……ちょっと嫌な夢を見ただけ」
「え……夢、ですか?」
芽衣は拍子抜けした顔をする。一体どんなことを想像していたのだろうか。
私はクスリと笑った。
「子供みたいだと思った?」
「そ、そんなことないです! あたしもしょっちゅうお父さんに怒られる夢とか、幽霊が出る夢とか見ますもん!」
芽衣は思い切り首を横に振る。羨ましいぐらいに可愛い子である。
「私が見たのはそういう怖い夢じゃないんだけどね。自分の中に押し込めていた気持ちをさらけ出しているというか……」
平々凡々と暮らしていても、夢の中では嘘はつけないようだ。
どこか上の空で夢を語っていたら、芽衣はどこか躊躇うようにおずおずと私を上目遣いで見てきた。
「青蓮さん……。ここじゃ、安らげませんか?」
どうやら心配をかけてしまったらしい。
芽衣の頭に、ポンと手を置いてやる。
「そんなことないわ。ここはとっても居心地がいい」
嘘ではない。本心である。
「何だかあなたに話したら、スッキリしたみたい。ありがとう、芽衣」
これはちょっぴり嘘。このわだかまりは一生――いや、永遠に消えはしないのだ。
「ほ、本当ですか!?」
芽衣はとても嬉しそうな表情で聞き返してくる。
私は精一杯の笑顔を作って、もちろん――と頷いた。
「それより、芽衣。あなた明日学校でしょ? 早く寝なさい」
「はーい。じゃあ青蓮さん、おやすみなさい!」
ニッコリ笑って芽衣は元気良く走って行った。芽衣の家はこの酒場の上の階である。
私は、この酒場から少し離れた場所でアパートを借りている。
「さて、私もマスターに挨拶して帰ろうかな」
両腕を上げて思い切り伸びをした。
何だかんだでこの仕事も結構疲れる。
そして今日も、何の変哲もなく一日が終わったのだった。




