元暗殺者と凄腕暗殺者・序
血が。血が。
血が落ちない。
もうずっと水で洗い流し続けているのに。手にべっとりと、真っ赤な血が。
誰の血だろう。ふと、そんなことを思う。
ああ、知らない人間の血だ。いや、正確には違う。
顔と名前は知っていた。ただそれだけ。
でも何故、そんな人間の血が手に付いているのか。
べっとりと。嫌だ。何故落ちない。
当然か。
この手で殺したのだから。幾人も幾人も、この手で。
恨まれているのだろうか。いや、死んだらそれまでだ。
でも、僕は生きている。やはり、恨まれているのだろうか。
だって、血が。血が。
血が落ちない。
「何ぼけーっとしてやがる」
突然発せられたその声に、ふと我に返る。危うく、手に持った弁当を地面に落とすところだった。声が発せられた方に目を遣ると、作業服を着た小柄で白髪の見慣れた男が立っていた。こちらを不機嫌そうに見ている。
どうやら僕に声を掛けたらしい。
「し、紳さん」
彼の愛称を呼ぶ。何だかどもってしまったが。
彼は呆れたような顔をして、こちらへと歩いてくる。堂々とベンチの真ん中を占領していたので、僕が少し横にずれると「よっこらしょ」と言って隣に腰掛けた。
「今日は朝からぼけーっとしてるな」
全く以てその通りだった。
僕はこの紳さんが経営する小さな工場で三年ほど働かせてもらっているのだが、どうも今日は調子が出ない。今は昼休み中で、工場裏のベンチに座って弁当を食べていたのだが、食欲も出ないといった始末である。
僕は食べかけの弁当を見つめて「はあ、まあ」などと曖昧な返事をした。
「まあ、仕事に支障が出てねえからいいけどよ」
紳さんは途端、真顔になって「何かあったか――」といつもより声のトーンを低くして聞いてきた。
そんな紳さんの態度に少し動揺する。そんなにも深刻そうに見えたのだろうかと。
「い、いえ。ただちょっと……嫌な夢を見ただけですよ」
そう、それだけ。そんなに心配されることではない。
案の定、紳さんは「夢ぇ」とひっくり返った声を出して豪快に笑い出す。
「ははははっ! てめえはガキか!」
三十路のおっさんである。
「ったくよお、たかが夢で何そんなに落ち込んでんだ。周りの連中も気にしてたぞ」
一通り笑い終えて、紳さんは言った。自分では気付かなかったが、職場の皆からも心配されていたようである。
まあ、夢は夢でもただの夢ではない。過去に関連する夢なのだ。
そう言うと、紳さんはケッと馬鹿にしたように僕を見る。
「どんな過去だが知らねえが、過去は過去。今は今。そんな嫌なもんさっさと忘れちまえ!」
それができたら苦労はしない。だが心配をかけた手前、そんなことは言えない。といっても、最近はあまり夢に出てくることもなかったのだが。
「はあ、まあ」とまた曖昧に頷いてしまう。
「ったく、もうちょっとハキハキできねえのかっ」
僕もそう思う。気が弱いのだ、僕は。そこを勘違いされて、周りからはよく人が好いと言われる。顔もあっさりしているので優男だと思われているのだ。
まあ別にそう思われるのは嫌じゃないし、否定はしない。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、紳さんは顔を覗き込んできて、
「女か」
そう一言呟いた。
何だ、それは。
いや、言っている意味はわかる。その夢の原因が、女性問題じゃないかということだろう。
「違いますよ」
「違うのかよ」
いやに残念そうである。
「おい、お前。三十にもなって女っ気の欠片もねえってのはどうよ」
どうと言われても、余計なお世話だった。
「俺が紹介した女にも一月経たずに振られやがるし」
それは申し訳ないと思っている。彼にではなく、その彼女に。紳さんの勢いに負けて、流れで付き合ってしまったのだ。
結果、振られるという体たらくである。まあ自業自得なので仕方ない。
「紳さんこそ、新しい奥さんでも見つけたらどうですか」
僕も負けじとそう言うと、紳さんは見る見る不機嫌な表情になっていく。彼はもう随分と前に離婚しているらしいのだ。
「馬っ鹿野郎! 六十過ぎの爺が今さら結婚なんざできるか!」
大きな濁声に一喝された。
「この話はやめだやめ!」
自分から振ったのだろうに。紳さんは勢い良く立ち上がって、工場の方へと歩き出す。
そこで僕は慌ててお礼を言った。
「紳さん、ありがとうございました!」
何だか余計なことも言われたが、心配して様子を窺いに来てくれたことは明白で。
紳さんはそんな僕を見て、さっさと飯食って仕事に戻りやがれ――と言って去って行った。ぶっきらぼうで素直でないところが彼らしい。
そして僕――小田島辰夫は食べかけの弁当に箸を伸ばした。




