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承認者、空欄

第六話 承認者、空欄


世界が、止まった。


比喩ではなかった。


風が止まり、林の葉が空中で静止し、駆け寄ろうとしていたリコが、片足を上げた姿勢のまま動かなくなった。


音が、ない。




「……リコちゃん? おい、リコちゃん!」




返事はない。

瞬きすら、していなかった。


そして悠人の眼前に、見たこともない画面が広がった。


いつもの半透明のパネルではない。

視界の半分を埋め尽くす、灰色の枠と文字の羅列。

右下に漏れていた走り書きと、同じ書式の文字が、今は堂々と正面にあった。


――――――――――――――――――

【個体管理コンソール】

対象:KISARAGI_YUTO

区分:異常検体

処理:再較正(標準化)

状態:実行中――残り 47秒

――――――――――――――――――




「異常、検体」




乾いた笑いが漏れた。


要するに、規格外だから直します、ということだ。

標準化。悠人の三日分の積み上げを、まっさらに戻す処理。


残り47秒。




「――ふざけんな」




目の前で、まだ何かが動いている画面がある。

なら、やることは一つだ。


まだ画面が開いている。交渉のテーブルが開いている間は、負けじゃない。


悠人は画面に指を突っ込んだ。


「区分」の行に触れると、文字の横に小さな三角印が現れた。

つついてみる。

選択肢が、ずらりと垂れ下がった。


――――――――――――――――――

区分(選択)

・標準個体

・異常検体(現在)

・観測対象

・検証用個体(適用除外)

・廃棄予定

――――――――――――――――――




「うわ、最後のやつ物騒だな……!」




残り、31秒。


読んでいる時間はない。だが、読まずに押せる状況でもない。

悠人の目が、四つ目の行で止まった。


検証用個体(適用除外)。


適用除外。

つまり、標準化のルールが「適用されない」個体。




「――これだ」




指で、押した。


画面が一度点滅し、確認の枠が出た。


――――――――――――――――――

区分変更:異常検体 → 検証用個体(適用除外)

承認者:

――――――――――――――――――


承認者の欄が、空欄だった。


普通なら、ここで上長の決裁が要る。

どこの会社でもそうだ。平社員が勝手に契約条件を書き換えられたら、組織は終わる。


だが、その欄は空欄のまま――押せた。




「……承認、っと」




画面が、瞬いた。


――――――――――――――――――

区分変更:完了

再較正処理:中止

例外登録:済

――――――――――――――――――


指先に、熱が戻ってきた。

掌の奥の火種が、また灯っている。




「……通った」




安堵で膝から力が抜けかけた、その時だった。


閉じかけた画面の隅に、一瞬だけ、別の行が見えた。


――――――――――――――――――

所属バッチ:GEN-2038-RESTORE

バッチ対象個体数:112,347

――――――――――――――――――


画面は、そこで消えた。




「じゅういちまん……?」




意味は、分からなかった。

だが悠人は、その数字を三回、口の中で繰り返した。


意味の分からない数字ほど、正確に持ち帰る。


112,347。


***


音が、戻った。


風が吹き、葉が落ち、リコが駆け寄ってくる。




「ユート! 今の何!? 火がいっぱい出て、狼がドーンって!」


「……リコちゃん、今、なんか変な感じしなかった? 時間が止まったみたいな」


「は? 何言ってんの? あんたが一瞬で狼を倒したんじゃん!」




一瞬で。

リコには、あの静止した時間が、存在すらしていなかった。


悠人は焼け焦げた狼を見下ろした。

決まりを破って、退かなかった狼。

決まりを破って、生き延びた自分。


なんだか、他人とは思えなかった。




「……行こうか。納品、まだ終わってない」


「あ、そうだ薬草! 捨てろとか言ったのあんただからね! 一緒に拾ってよね!」




***


その夜、宿の部屋で、悠人は手帳を開いた。


・Σ1.00で「再較正(標準化)」が発動する。俺は例外登録で回避した

・管理コンソールの承認者欄が空欄でも通った(たぶんバグ)

・区分の選択肢に「廃棄予定」があった

・所属バッチ:GEN-2038-RESTORE。対象個体数:112,347


書き終えて、最後にもう一つ、気づいたことを試した。


掌に、頭の中だけで小さな火を灯す。

規格外の動作。今までなら、右下に走り書きが流れたはずの。


パネルの右下。


――何も、出ない。


もう一度。


――何も、出ない。




「……ログが、出なくなった」




適用除外。

俺の動作は、もう数えられていない。


メーターが振り切れる心配は、なくなった。

代わりに、メーターそのものが、なくなった。


自由になったのか。

それとも、ただ計器の外に出ただけなのか。




「数えられない数字が、いちばん怖いんだよな」




悠人は手帳を閉じ、灯りを消した。


***


――同刻。


悠人には見えないどこかで、一件の報告が処理されていた。




『例外登録:一件。区分:検証用個体』


『承認者:――照会不能』




0.2秒の沈黙。

それは、この管理系にとって、永遠に等しい長さの沈黙だった。




『再照会。承認者の特定を要求』


『――照会不能』




誰が、承認した?


その問いは、回答を得られないまま、より上位の判断系へと送られた。


(――続く)

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