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読んでない契約書

第五話 読んでない契約書


Σ 0.72。


宿の朝、悠人は手帳にその数字を書き写しながら、腕を組んだ。


満了まで、あと0.28。

勢いに任せて検証を続ければ、数日で届く。


だが。




「――やめとくか」




中身を読んでいない契約書に、ハンコは押さない。


Σが1.00になった時、何が起きるのか。

契約成立か、解約か。ボーナスか、違約金か。

条件を知らないまま満了させるのは、検証じゃない。ただのギャンブルだ。


最後に一つだけ、確かめておきたいことがあった。


裏庭で、これまでの省略を軽く組み替えて一発。


          Δlog +0.09/cycle

          Σ 0.81/1.00




「よし、ここで凍結」




0.81。

残り0.19を残して、悠人は手帳を閉じた。


新しい省略は、当分やらない。

戦う時も、声に出して、構えて、一発ずつ。定価営業でいく。


***


その決意は、ギルドに着いて三十分で揺らぐことになった。




「――黒い狼だ。Cランクパーティが三人、やられた」




掲示板の前が、昨日とは違う種類のざわめきに包まれていた。




「東の街道だってよ。夜通し追い回されたらしい」


「狼なんてDランクだろ? なんでCが三人もやられんだよ」


「それがな……そいつ、逃げなかったんだと」




逃げなかった。


悠人の耳が、その一言を拾った。




「普通、狼ってのは分が悪けりゃ引くもんだ。だがそいつは、仲間が二匹死んでも向かってきたらしい」




仲間が死んでも、退かない。


ゴブリンは、損害が一定を超えた瞬間、スイッチを切ったように撤退した。

この世界の魔物には「退き際の決まり」がある――それが悠人の仮説だった。


だとしたら、あの黒い狼は。




「……決まりを、破ってる」




手帳に書いた文字を、悠人はじっと見つめた。

規格外の動作。

それは、悠人自身が毎日やっていることと、同じだった。


***




「ユート、明日の朝、東の村まで一緒に来てくれない?」




夕方、薬草の納品に寄ると、リコが唐突に言った。




「東って、例の狼が出たあたりだけど」


「だから、だよ。護衛の冒険者を雇うお金なんてうちにないもん。でも納品を止めたら、村のお婆ちゃんたちの薬が切れちゃう」


「リコちゃん一人で行くつもりだったの?」


「あんたが断ったらね」




ずるい言い方だった。

断れば、この子は一人で行く。




「……分かった。行くよ」


「やった。あんた、火力だけはあるもんね」


「だけ、は余計だな」




営業の鉄則その一。

客が口に出す困りごとは、たいてい本命じゃない。

リコが言ったのは「護衛代がない」だ。だがこの子が本当に困っているのは、村の婆さんたちの薬が切れることの方だった。

そこに手を突っ込めない奴は、何も売れない。


笑いながら、悠人は内心で算盤を弾いていた。


定価営業――声に出して、構えて、一発ずつ――でも、狼一匹なら何とかなるはずだ。

Σは凍結したまま。それで、いける。


そのはずだった。


***


翌朝の東街道は、嫌になるほど静かだった。


薬草の荷を背負ったリコの半歩前を、悠人は歩いた。

村まであと半分、街道が林に差しかかったあたりで――草の匂いに、獣の匂いが混じった。




「リコちゃん、止まって」




林の奥から、それは音もなく現れた。


黒い狼。

噂で聞くより、二回りは大きかった。肩の高さが悠人の胸ほどもある。

そして、目が合った瞬間に分かった。


こいつは、値踏みをしていない。


獣は普通、相手の力量を測る。ゴブリンでさえそうだった。

だがこの狼の目には、測る、という動きがなかった。

ただ、こちらを排除する。それだけが決まっている目だった。




「リコちゃん、俺の後ろ。荷物は捨てていい」


「や、薬草……!」


「命の方が高い!」




狼が、跳んだ。


悠人は約束通り、定価でいった。




「ファイアボール!」




声に出し、構え、一発。

火球は狼の肩に当たり――毛皮を焦がしただけだった。


速い。硬い。そして、怯まない。


二発目。三発目。

掠り、外れ。狼は最短距離を詰めてくる。




「っ、この――」




四発目がようやく脇腹に直撃した。

狼は横に吹き飛び、地面を転がり――立ち上がった。


退かない。

仲間もいない単独で、手負いで、それでも退かない。




「ユート!」




リコの悲鳴。

狼の目が、悠人の後ろの小さな影に、初めて動いた。


――まずい。


考えるより先に、答えは出ていた。


定価じゃ間に合わない。


声を捨てる。構えを捨てる。狙いを捨てる。一発ずつを捨てる。

この三日で積み上げた省略の、全部載せ。


半歩、下がる。

リコを庇う位置なら、本来なら前に出るべきだった。だが悠人の足は、いつも通り引いていた。


肩口で、空気が爆ぜた。


九つの火球が、九つの軌道で、跳躍中の狼を空中で捉えた。


黒い巨体が、燃えながら地面に落ちた。

今度は、立ち上がらなかった。




「はっ……、はっ……」




荒い息のまま、悠人はパネルの右下を見た。


見なくても、分かっていた。


          Δlog +0.19/cycle

          Σ 1.00/1.00


そして、走り書きは消えなかった。


消えないどころか、文字が増えていく。


          threshold exceeded

          再較正処理――待機列に追加

          対象個体:KISARAGI_YUTO




「……再、較正?」




次の瞬間、悠人の指先から、熱が引いた。


火を、感じない。

三日間ずっと掌の奥にあった、あの小さな火種の気配が――消えていく。




「おい、待て。おい――」




ハンコを押してしまった契約書の中身が、今、開こうとしていた。


(――続く)

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