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現場に行かない奴に、現場の話はできない

第二十話 現場に行かない奴に、現場の話はできない


刈り入れの朝、街は空になった。


門番も、ギルドの職員も、酒場の主人も、みんな畑に出ている。

悠人は、麻袋を背負って門に立った。




「おう悠人さん、あんたも畑か」


「いえ、北の谷まで薬草を。人手が畑に取られてる分、他が回らないので」


「感心だな。気ぃつけろよ」




門番は書付も見ずに通した。


嘘はついていない。北の谷は本当に薬草地帯だ。

その先に山がある、というだけの話だった。



***



谷の入口で、セレンが待っていた。


外套の裾を絞り、いつもの帳面ではなく、水筒と縄を持っている。




「調査官が無断外出は、まずいんじゃ」


「命令書なら今朝書きました」


「誰が」


「私が。署名は監査院長です」


「それ偽造って言うんですよ」


「写し、と言います。書式は私の専門なので」




言い切る顔が、あまりに平然としていた。


悠人は笑いかけて、やめた。




「……一人で行くつもりだったんですけどね」


「ヨシムラは一人で行って、沈黙しました」




セレンは、まっすぐこちらを見た。




「二人なら、片方が沈黙しても、記録は残ります」




返す言葉を探して、結局見つからなかった。



***



この地方でいちばん高い山を、地元の人間は「見張りの山」と呼ぶ。

理由は誰も知らない。三百年、そう呼ばれてきたから。


登り始めて二時間で、道が消えた。


三時間目、ふくらはぎが震え始めた。


四時間目、会話が死んだ。


聞こえるのは二人分の荒い息と、砂利を踏む音だけ。

汗が目に入って染みる。喉の奥で、鉄の味がした。




「……セレンさん。休憩。もう無理」


「……賛成、です」




倒れ込むように岩に腰を下ろす。


悠人は麻袋から、布の包みを引っ張り出した。

干した果物。堅パン。




「食います?」


「……いただきます。……これ、もしかして、あの薬草店の子の」


「よく分かりますね」


「五日分、きっちり数えて包む十五歳は、あの子くらいです」




干し杏は、汗をかいた体に染みるほど甘かった。


セレンが、ぽつりと言った。




「……甘い」


「甘いですね」


「生き返ります」


「あの子に言ったら怒りますよ。『あんたたちどこ登ってんの』って」


「怒られましょう。帰れたら」




帰れたら、のところで二人とも少し黙った。


それから、どちらからともなく立ち上がった。



***



中腹の岩壁で、足が止まった。


垂直に近い岩肌が、二十メートル。

迂回すれば半日。日が暮れる。




「上の出っ張り、見えます? あそこに縄が掛かれば」


「投げて届く高さですか、あれ」


「届かせるんですよ」




一投目。


縄は岩肌を虚しく滑って、足元に落ちてきた。




「……届かせるんですよ」


「二回言いましたね」




二投目。届かない。


三投目、振りかぶった瞬間に二の腕が攣った。




「いっ……たた、た」


「ちょっと、貸してください。見てられない」




セレンが投げた。届かない。


もう一度。届かない。


二人して、壁の下にへたり込んだ。

荒い息が、二つ並んで岩に反響する。




「……はー。……きっつ」


「……机の仕事に、戻りたい……」


「奇遇ですね。俺も平地に戻りたい」




しばらく、どちらも動けなかった。


悠人は、縄を見た。それから、自分の掌を見た。


――やるか。


腹は決まったが、問題が一つあった。

隣に、王都で一番目のいい観察者が座っている。




「……セレンさん。悪いんですけど、後ろ向いててもらえますか」


「向きません」


「即答」


「その代わり、下がります。それと――」




セレンは立ち上がり、五歩下がって、こう言った。




「今から何が起きても、風向きが良かった。そういうことにします」




先に、言われた。


悠人は、呆れて、それから笑った。




「……敵いませんね、あなたに」


「早くしてください。日が暮れます」




半歩、後ろに引く。いつもの癖だ。


頭の中だけで、縄の先端にごく小さな熱を灯す。

肩の上に生まれた熱の粒が、結び目にまとわりつく。押し上げる。


風もないのに、縄の先がするすると持ち上がり――


かちり。


出っ張りに掛かった。


全身から力が抜けて、悠人はその場に膝をついた。




「……掛かりました」


「ええ。いい風でしたね」




セレンは縄を二度引いて強度を確かめ、先に登り始めた。


それだけだった。

質問は、一つも来なかった。



***



岩壁を越えて、さらに二時間。


日が傾き始めた頃、ふいに木が消えた。


森林限界。


風が変わった。冷たい。腕の産毛が立つ。




「うわ、寒……上着は」


「置いてきました。荷を軽くしたくて」


「俺もです」


「……山を、舐めていましたね。二人とも」




震えながら笑っていると、風が一段強くなった。


セレンが、身を縮めた。


悠人は、暖を取ろうとして掌に火を灯した。


――消えた。


もう一度。灯った瞬間に、風がさらっていく。




「駄目だ、風が強すぎる」


「……街の街灯は、こんな風でも消えませんね」




セレンが、何気なく言った。


悠人の手が、止まった。



***



街灯。


転生した日、いちばん最初に引っかかったものだ。


門をくぐってすぐ、等間隔に並んでいた炎。


――風が吹いても、揺れない。


二十六日間、答えが出ないまま手帳の一行目に居座り続けていた。




「……セレンさん」


「はい」


「あの街灯、燃料は何ですか」


「油です。街の予算に計上されています」


「補充してるとこ、見たことあります?」


「……いえ」




無いのだ。


三百二十七年、誰も油を注いでいない。


なのに消えない。揺れない。



***



悠人は、しゃがみ込んで考えた。


――なぜ揺れない?


風は吹いている。炎はそこにある。

なのに、影響を受けない。


天秤と同じだ。


あの秤は、重さを量っていなかった。

「近い値」を「同じ値」に丸めて、固定していた。


だとすれば、あの炎は。




「……値を、固定してるのか」




炎の大きさも、向きも、明るさも。

最初に決めた値のまま、外からの入力を受け付けない。


風が吹こうが、雨が降ろうが、値は変わらない。


三百二十七年、ずっと。


つまりこの世界は、「変化しないもの」を作れる。



***



「……試します」




悠人は立ち上がり、風に向かって掌を開いた。


十六話で覚えたことを思い出す。


「小さく」ではなく「この値」と念じれば、世界はそこに丸めてくれた。


なら、今度は。


――この大きさで。この位置で。動かすな。


指先ではなく、肩の上の空間に。


火が、生まれた。


風が吹き抜けた。


炎は――揺れなかった。




「…………」




セレンが、口を開けたまま固まっていた。


悠人は、手を下ろした。


火は、そのまま空中に留まっていた。


一歩下がる。ついてこない。

もう一歩。動かない。


その場に、置かれていた。



***



「悠人さん、それ」


「街灯と、同じことをしました」


「……できるものなんですか」


「できました」




悠人は、自分でも信じられない気持ちで、その火を見ていた。


風の中で、まったく揺れない炎。


街で毎晩見ていたものが、今、自分の手から出ている。




「これ、消せます?」


「たぶん。……消えろ」




火は、素直に消えた。


セレンが、大きく息を吐いた。




「……あなた、また一つ、変なことを覚えましたね」


「変じゃないですよ。街灯がやってることです」


「街灯はやっても、人はやりません」


「今日から人もやります」




悠人は、もう一度火を灯した。


今度は、二人の間の空中に。


暖かかった。


風は吹き続けていたが、炎は微動だにしなかった。




「……あったかい」


「でしょう」


「上着より、いいですね」


「持ってこなくて正解でした」


「それは違います」



***



固定した火を先頭に浮かべたまま、二人は登り始めた。


歩くと、火はついてこない。


だから数歩ごとに消して、前方に灯し直す。


面倒だったが、風で消えない明かりは、日が落ちかけた斜面では何よりありがたかった。


そして――




「悠人さん。あれ」




セレンが急に真顔になった。




「悠人さん。あれ」




岩の間に、金属の杭。


膝の高さ。錆びている。明らかに人工物。

そして等間隔に、斜面をまっすぐ上へ続いていた。




「……測量杭だ。街道を敷く前に打つやつ」


「こんな山のてっぺんに、誰が」


「三百年前の、誰かが」




疲れが、どこかへ飛んだ。


二人は杭を辿って、最後の斜面を登った。



***



山頂は、平らだった。


自然の地形じゃない。削ってある。円形に、綺麗に。


悠人は膝をつき、土を払った。

灰色の、平らな面。叩くと、鈍い音。中は空洞。




「基礎だ……。ここに、何か建ってた」




立ち上がって、円の縁を歩く。


一歩、二歩――三十歩。


教会の祭壇下の円盤より、はるかに大きい。


円の中央に、黒い板が半分埋もれていた。

廃墟の保守端末と同じ質感。ただし、悠人の背丈ほどある。




「……またお前か」


「知り合いですか」


「同型の、でかいやつです。給電してみます。下がっててください。今度は十歩」


「十歩? 前は五歩でしたが」


「でかい分、何が起きるか分からないので」




セレンは黙って十歩下がった。


まず、覚えたての手を試した。


板の上の空中に、火を固定する。


――何も起きない。


固定した火は、そこに在るだけだった。値が動かないのだから、当然だ。

流れないものは、電気にならない。




「……駄目か」




固定は、置くための技だ。

渡すための技じゃない。


だとすれば、結局は。


悠人は、覚悟を決めた。


半歩引いて、人差し指の腹を板に押し当てる。

そこから糸のような出力を、少しずつ流し込む。


一秒。三秒。


反応がない。


五秒。指の腹が、じわりと熱を持ち始めた。


七秒。熱が痛みに変わる。焼けた鍋の縁を触った時の、あの感覚。


指を離せば楽になる。だが離せば、この十秒が無駄になる。




「……っ、づ……」




八秒。指先から、髪を焦がしたような匂いが立った。


十秒目。


板の隅が、緑に灯った。


――――――――――――――――――

電力不足――起動不可

最終記録日:現地暦309年

――――――――――――――――――


それだけ表示して、消えた。




「――ッ、あっつ!」




反射的に指を引き、握りしめる。


開いて見ると、人差し指の腹が、白く濁っていた。

その周りが赤く腫れている。触ると、遅れて痛みが来た。




「見せてください」


「平気です」


「平気な色じゃありません。……水ぶくれになりますよ、それ」




セレンは悠人の手首を掴んで引き寄せ、水筒の水を細く垂らした。


冷たさが染みて、思わず息が漏れる。




「潰さないでください。潰すと膿みます」


「詳しいですね」


「弟が、よく怪我をする子だったので」




彼女は自分の首に巻いていた布を裂き、指に巻きつけた。

きつすぎず、緩すぎない。手際がやたら良かった。




「……手当ても専門ですか」


「妹もいたので。二人分です」


「へえ。ご家族、今は」


「……さあ。三百年前の地球に、たぶん」




手が、一瞬止まった。


セレンは何でもない顔で、布の端を結んだ。




「……すみません。変なこと聞きました」


「いえ。……それより、あれだけやって一行ですよ、悠人さん」


「一行です」


「割に合いませんね」


「割に合わない仕事ほど、当たりが混ざってるんです」




現地暦309年。

前回の一回分が終わり、二百十四人が「回収」された年。


この山の設備も、同じ年に止まっている。



***



日が、落ちかけていた。


悠人は円の中央に立って、空を見上げた。


夕暮れの空。天頂の脇。

動かない光が、そこにある。


六時間かけて登った。


――少しも、大きくなっていなかった。




「…………」




悠人は、その場に座り込んだ。


笑いが漏れた。乾いた、息だけの笑い。




「何がおかしいんです」


「いや……六時間登って、確かめられたことが『届かない』って」


「…………」




セレンが、隣に座った。


二人でしばらく、その光を見ていた。


風の音しかしなかった。




「……あれ、この星の上にないですね」


「ないです」


「ヨシムラも、ここまで来たんでしょうか」


「来たと思います。で、同じことに気づいた」




登っても、届かない。


だから彼は、何をした?


その答えは、まだ誰も知らない。



***



下山の支度をしていた時だった。


セレンが、縄を巻く手を止めた。




「……悠人さん」


「はい」


「鳥は」




手が、止まった。


顔を上げる。空を見る。


雲。夕焼け。動かない光。


――それだけだった。


灰色の影が、一つもない。




「……いない」


「いませんね」


「いや、待って。待ってください」




悠人は立ち上がって、ぐるりと空を見回した。


北。東。南。西。


木の枝も、岩の上も、頭上も。


いない。


朝からずっと、四羽。畑でも、谷でも、森でも、どこにいても必ず視界の端にいた灰色。


それが、一羽も、いない。




「セレンさん、あれから何時間です」


「木が消えてから……三時間、いえ、四時間近く」


「四時間」




声が、掠れた。


四時間。


転生してから十九日、初めてだ。

一度も、一秒も、あの目に見られていない時間が、四時間もあった。


悠人は、自分の腕を見た。


鳥肌が立っていた。寒さのせいではなかった。




「……はは」


「悠人さん?」


「いや、あの……すみません、ちょっと」




悠人は、その場にしゃがみ込んだ。


呼吸が浅い。指が震えている。火傷とは関係のない震えだった。


十九日間、ずっと演技をしていた。

教本通りに撃って、愛想よく笑って、何も気づいていない顔をして。


寝ている時も、飯を食っている時も、頭のどこかが常に見張られていた。


その重さを、下ろした瞬間に初めて自覚した。




「……重かったんだな、俺」




セレンは何も言わなかった。


代わりに、彼女も座り込んだ。

そして、外套の襟元をゆるめて、大きく息を吐いた。




「……私は、三日です」


「三日?」


「あなたに鳥のことを聞かされてから、三日。それだけで、寝るのが怖くなりました」




彼女は、少し笑った。

いつもの事務的な笑い方ではなかった。




「あなた、十九日ですね」


「数えてました?」


「調査官ですから」




風が吹き抜けた。


冷たかったが、さっきまでとは意味が違った。

ただの風だ。誰の目でもない、ただの風。




「セレンさん。三百二十七年ですよ」


「……ええ」


「この星ができてから三百二十七年。誰も、一度も見られなかった場所です。ここ以外に、たぶん、ない」




言っていて、自分の声が上ずっているのが分かった。




「あの、俺、変なこと言っていいですか」


「どうぞ」


「――叫んでいいですか、ここで」




セレンが、目を丸くした。


それから、真面目な顔で頷いた。




「どうぞ。記録には残しません」




悠人は立ち上がって、大きく息を吸って――




「異世界転生じゃ、なかったのかよぉぉぉーー!!」




声が、山の上に響いた。


反響が谷底へ落ちていって、消えた。


誰も、何も、返してこない。


咎める声も、記録する目も、明滅する合図も、何もない。


十九日前、森の中で同じように叫んだ。

あの時は「キターーー!」だった。


同じ肺で、同じ大きさで、正反対のことを叫んでいる。


悠人はゆっくりと息を吐き、それから小さく呟いた。




「……何なんだよ、ここ……」




返事は、なかった。




「……気が済みましたか」


「済みました。すみません」


「いえ」




セレンは立ち上がり、外套の裾を払った。


そして、こちらを見ずに、ぽつりと言った。




「……私も、少しだけ、いいですか」


「どうぞ」




彼女は空を見上げ、動かない光をまっすぐ睨んで、はっきりと言った。




「――ばか」




悠人は思わず吹き出した。




「それだけ?」


「それだけです。上品なもので」


「三百年で唯一の場所で、それ」


「うるさいですよ」




二人で笑った。


笑いながら、悠人は思った。


この四時間が、どれだけ貴重なものか。

そして、下山した瞬間に、また監視が始まるということも。




「……セレンさん。ここ、使いましょう」


「ええ。絶対に、誰にも言わずに」


「言いません。街で唯一、俺たちだけの場所です」


「……次は、上着を持って」


「それは本当に賛成です」



***



宿に戻ったのは深夜だった。


指が痛くて、手帳の字が震えた。


・街灯の謎が解けた。あれは値を固定して、外からの入力を受け付けていない

・同じことができた。火を空中に置いて、風でも消えない。動かない

・見張りの山、登頂。中腹に三百年前の測量杭。山頂に円形の人工基礎(直径三十歩)

・大型端末あり。電力不足で起動不可。最終記録=現地暦309年。前回の終了と同年

・山頂から見ても、光は大きくならない。この星の上にはない

・森林限界より上に、鳥は来ない。監視の外

・ヨシムラも、たぶんここまで来た


最後に一行。


・見られない場所を、手に入れた


窓の外、塀の上に鳥が四羽。

何事もなかったような顔で並んでいる。


悠人は包帯の巻かれた指を眺めて、それから灯りを消した。


登っても、届かない。

なら、届く方法を考える。


そのための場所は、もうある。


(――続く)

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