前例がないなら、こちらで作る
第十八話 前例がないなら、こちらで作る
「申請、ですか」
司祭は、柔和な顔のまま首を傾げた。
教会の受付室。三百二十七年前から変わらないという石の建物の中で、悠人は書類を差し出した。
「はい。冒険者ギルドの基準報酬表の、改定申請です」
「前例がありません」
「知ってます。だから作りに来ました」
司祭の目が、一度だけ左右に動いた。
記録室で見た、決められた答えしか返せない時の動き。
だが今日は、その先を狙う。
前世で覚えたことがある。
規定にない申請は、窓口では絶対に通らない。
だが「様式が正しい申請」は、窓口が受け取らざるを得ない。
だから悠人は、書式から作ってきた。
「様式は、そちらの通達文に合わせてあります。三日前に穀物商へ出された配分通達、あれと同じ書式です」
「……あれを、見たのですか」
「街の商人に見せてもらいました。写しではなく、文面の構成だけ真似ています」
司祭の指が、書類の縁をなぞった。
――受け取った。
窓口の第一関門は、これで越えた。
***
書類の中身は、単純だった。
Fランクの日当、銅貨十二枚。
これを二十四枚に改める。物価が二倍になったから、報酬も二倍にする。
それだけの、当たり前の申請だった。
「理由の欄が空白ですが」
「口頭で説明します。そちらで書き取ってください」
「なぜ書かないのです」
「書けば、俺が考えたことになる。書き取れば、教会が受け取った事実になります」
司祭は数秒、沈黙した。
そして――羽根ペンを取った。
三百二十七年、この窓口が誰かの言葉を書き取ったことが、何度あっただろうか。
「……理由を、どうぞ」
「物価が二倍になりました。報酬は据え置きです。このままだと転生者は働いても食えません」
「それは、承知しています」
悠人の指先が、冷えた。
承知している。
つまり、知った上で放置している。
「では、なぜ改定しないんですか」
「改定の権限が、ありません」
「教会にないなら、どこにあるんです」
「……上位の判断が要ります」
上位。
初めて司祭の口から出た言葉だった。
***
「その上位というのは、どなたですか」
「お答えできません」
「では、この申請はその上位に届きますか」
「……届きます」
悠人は、内心で拳を握った。
届く。
つまり、この石の建物の向こうに、判断する誰かがいる。
そして今、こちらから声を送る経路が確認できた。
営業の鉄則その八。
決裁権のない相手を責めるな。その人に、決裁者へ話を上げてもらえ。
窓口で怒鳴る営業は、二度と通してもらえない。
窓口に味方になってもらう営業だけが、奥の部屋に届く。
「司祭様。一つだけ、正直に伺いたいことが」
「どうぞ」
「あなたは、この街の人たちが飢えるのを、見たいですか」
司祭の動きが、止まった。
柔和な表情のまま、瞬きもせず、五秒。
やがて、口が開いた。
「……私は、見たくは、ありません」
記録室で聞いた、機械のような一定の抑揚。
その中に、初めてわずかな揺れがあった。
悠人は、それを聞き逃さなかった。
***
教会を出ると、リコが石段の下で待っていた。
「どうだった?」
「受理された。中身が通るかは別だけど」
「ふうん。あんた、ほんとにやったんだ」
リコは呆れたような顔で、それから少しだけ笑った。
「うちのお母さん、あんたのこと『役所の犬』って言ってたけどさ」
「否定できない」
「今日から『使える犬』に格上げしといてあげる」
「それ、褒めてる?」
言い合いながら歩いていると、リコが不意に足を止めた。
「ねえ、あれ」
指差した先。
教会の屋根の上に、灰色の鳥が三羽、並んで止まっていた。
昨日までは、二羽だった。
***
その夜、ギルドの小部屋にフェルドとセレンが揃った。
悠人が申請の報告を終えると、フェルドは腕を組んだ。
「司祭が『上位の判断が要る』と言ったのか」
「はい。初めて聞いた言葉です」
「監査院の記録にも、そんな階層は存在しない。教会の上に何があるというんだ」
セレンが、手帳を開いて静かに言った。
「王宮の奉じの間に降りる託宣と、同じ出どころではないでしょうか」
「根拠は」
「教会の通達文と、託宣の文面。書式が同じだと、私は見ています」
フェルドの眉が動いた。
「……調査官。それは王家への疑いになるぞ」
「疑っているのは王家ではありません。王家に指示を出している何かです」
部屋が、静かになった。
悠人は、慎重に切り出した。
「フェルドさん。監査院は、王都に報告を上げますよね」
「当然だ」
「その報告書、誰が最初に読みます?」
「監査院長だ。その後、王に」
「王は、それを読んだ後どうします」
フェルドが答えかけて――口を閉じた。
三人とも、同じ結論に辿り着いていた。
王は、奉じの間に入る。
そして、託宣を待つ。
つまり、監査院の報告書は、遠回りして「上位」に届く。
「……我々の調査結果は、全部あちらに筒抜けということか」
「たぶん。だから逆に使えます」
「使う?」
「こちらから、読ませたいものを書けばいい」
悠人は、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、こう書いてあった。
『報酬表の改定を認めなければ、街は五十二日以内に暴動で崩壊する』
「事実ですね」
セレンが確認する。
「事実です。ただ、あちらが一番嫌がる形で書いてある」
「なぜ嫌がると?」
「三百二十七年、この星では戦争も飢饉も起きていません。ずっと計画通りだった」
悠人は、指で紙を叩いた。
「計画を立てる人間が一番嫌がるのは、計画が崩れることじゃない。崩れた記録が残ることです」
***
フェルドはしばらく紙を睨んでいたが、やがて低く言った。
「……監査院の名で、これを出す」
「いいんですか」
「食糧が尽きれば、どのみち私の首が飛ぶ。飛ぶ前に賭ける方がましだ」
セレンが小さく頷き、書式を整え始めた。
悠人は窓の外を見た。
夜空の、天頂の脇。
動かない光が、今夜もそこにある。
「……見てるんだろ」
これから届く二通の紙。
教会への申請書と、監査院の報告書。
どちらも、あの光に読ませるために書いた。
三百二十七年、一度も返事をしなかった相手に、初めてこちらから二通同時に投げる。
***
手帳を開く。
・報酬表の改定申請、教会が受理。司祭が「上位の判断が要る」と初めて口にした
・「見たくはありません」——司祭の抑揚に初めて揺れがあった
・監査院の報告書は王→奉じの間経由で上位に届く。つまり読ませたいものを書ける
・フェルドが監査院の名で「崩壊予告」を出すことに同意
・鳥が三羽に増えた
最後の一行を、悠人は少し迷ってから書いた。
・こちらから二通、送った。返事が来るかどうか
灯りを消す。
三百二十七年、返事をしたことのない相手だ。
無視されるかもしれない。
だが、無視も返事のうちだ。
反応がないという事実だけで、相手の性格が一つ分かる。
「さて、どう出る」
眠りに落ちる直前、悠人はふと、嫌なことに気づいた。
――返事が来るとしたら、どんな形で来るんだろう。
紙で来るとは、限らない。
(――続く)




