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閲覧時間、残り三分

第十四話 閲覧時間、残り三分


廃墟の手前で、セレンが足を止めた。




「悠人さん」


「はい」


「……匂いませんか」




言われて、悠人も鼻を鳴らした。


獣の匂いだった。それも、かなり濃い。


三日前に来た時は、なかった。




「入りましょう。急ぎます」


「待ってください。足跡が」




セレンが指した地面に、蔦を踏み潰した跡があった。


大きい。悠人の靴の三倍近くある。


爪の跡が、四本。



***



それは、崩れた入口の内側にいた。


牛ほどの大きさの、灰色の獣。


背中の毛が硬く尖っていて、四本足で瓦礫の上に伏せている。


目が四つあった。


上下に二つずつ。




「……なんです、あれ」


「王都の図鑑にありません」


「セレンさんの図鑑にないってことは」


「この星の分類に、存在しない個体です」




悠人の背筋が、冷えた。


――ここは、終わった実験場だ。


三百年前に使い終わって、放置された場所。


だとしたら、あの獣も。




「……前の回の、残り物かもしれない」



***



獣が、頭を上げた。


四つの目が、順番に二人を捉える。


そして、悠人は気づいた。


――値踏みしていない。


黒狼と同じ目だった。

規則の外にいる個体の目。




「セレンさん、動かないで」


「……逃げないのですか」


「逃げたら追われます。あれ、退き際の決まりを持ってない」




悠人は、じっと獣を見た。


――待て。


ゴブリンは、損害が一定を超えた瞬間に一斉撤退した。

黒狼は、それを持っていなかった。


規則を持つ個体と、持たない個体。


その差は、どこにある?



***



獣が、一歩踏み出した。


悠人は、半歩引いた。


――教会の床。


体重の七割までなら、あの石は「誰も乗っていない」と判定した。


線に届かないものは、無かったことになる。


だとすれば、この獣は。




「セレンさん。……あれ、たぶん俺たちを見てません」


「見ていますが」


「目には映ってる。でも、判定されてない」




悠人は、ゆっくりと言った。




「三百年、ここには誰も来なかった。あの獣は、人間を襲った経験がない」


「……だから?」


「襲うべき対象かどうか、判定する線を持ってないんです」




獣が、もう一歩。


悠人は動かなかった。




「今、あれは迷ってます。俺たちが何なのか、決まってない」



***



「……賭けですね」


「賭けです」


「外れたら」


「食われます」




セレンは、それでも下がらなかった。


獣が、鼻を鳴らした。


四つの目が、悠人を見て、セレンを見て、また悠人を見た。


そして。


――ゆっくりと、伏せた。


牙は見せたままだったが、跳ばなかった。




「……止まった」


「はい」


「なぜです」


「たぶん、俺たちが小さすぎるんです」




悠人は、汗が背中を伝うのを感じながら答えた。




「あれの中の線が、どこにあるかは分かりません。でも、二人ぶんの重さと音は、その線に届いてない」



***



「……このまま、通れますか」


「無理です。動いたら判定が変わる」




悠人は、視線を獣から外さずに言った。




「セレンさん。逆に、線を越えさせます」


「……越える? 襲われますが」


「俺じゃない方向に、越えさせます」




悠人は、掌の中に意識を集めた。


ろうそく一本ぶんの火――ではない。


もっと大きく。


廃墟の反対側の壁、崩れた瓦礫の山に向けて。




「――そこだ」




火球が、肩の上から飛んだ。


瓦礫に当たり、爆ぜた。


轟音。石が崩れ、砂埃が舞い上がる。


獣が、跳ねるように立ち上がった。


四つの目が、一斉にそちらを向いた。


そして――走り出した。


音のした方へ。二人には目もくれず。




「今です!」




二人は、廃墟の奥へ駆け込んだ。



***



円盤のある部屋に飛び込んで、悠人は崩れた石扉を押した。


半分ほど閉まったところで、閊えた。


隙間から、獣の唸り声が聞こえる。


だが、追ってこなかった。




「……はっ、はっ」


「悠人さん」


「はい」


「今のは、何だったんです」




セレンの声は、まだ震えていた。


悠人は、扉に背を預けて座り込んだ。




「線です」


「線」


「あの獣の中にも、判定する線がある。二人ぶんの音では届かなかった。でも、瓦礫が崩れる音は届いた」




悠人は、自分の掌を見た。




「教会の床と、同じでした」


「……あの床が、ここで役に立ったのですか」


「立ちました」




悠人は、少しだけ笑った。




「線がどこにあるかは分からない。でも、線がある、と知ってるだけで、選べることがある」



***



扉の向こうの唸り声が、少しずつ遠ざかっていった。


悠人は、ようやく立ち上がった。




「セレンさん。図鑑にない獣が、ここにいた」


「ええ」


「ということは」


「……この場所には、管理が届いていない」




悠人は、円盤を見た。


三日前と同じ、曇った金属。


――終わった実験場。誰も見ていない場所。


だから、規則から外れた獣が住み着いた。



***



「――死んでますね、これは」




廃墟の奥。曇った円盤の前で、セレンが率直な感想を述べた。


昼過ぎ。鳥の観測が途切れる時間。

悠人は円盤の左下の蓋を開け、黒い板を露出させた。




「三日前はこれに触れたら灯ったんですが」




触れる。

何も起きない。


二度、三度。

板は沈黙したままだった。




「……電源が尽きたか」




三日前の起動が、最後の残り火だったらしい。

保守契約切れの機械は、いつ止まっても文句を言えない。




「打つ手なし、ですか」


「いえ。給電すればいい」


「給電?」


「餌をやるんですよ、この板に」




悠人は板の縁に指を当てた。


塀を焦がして銀貨二枚を吹き飛ばしたあの日から、ずっと練習してきたことがある。

出力を絞る訓練。ろうそく一本ぶんの火を、狙った通りに出す制御。


あれの応用だ。

火にする直前の、熱にもならない最小の出力を、板に直接流し込む。




「下がっててください。しくじったら板ごと焼けます」




半歩、後ろに引く。いつもの癖の分だけ。

そして、糸のように細い出力を、指先から板へ。


一秒。二秒。


板が、瞬いた。




「――点いた!」




緑の文字が浮かび上がる。

だが、三日前とは表示が違った。


――――――――――――――――――

【保守端末】

外部給電を検出――非常モードで起動

電力残量に基づく稼働可能時間:約三分

――――――――――――――――――




「三分!?」


「あなたの"餌"が少ないんでしょう。増やせますか」


「これ以上流したら焼き切れる。……三分で読み切るしかない」




三分。


端末の中には、七年分の記録がある。

全部は読めない。


何を取り、何を捨てるか。




「セレンさん、手分けします。俺が画面を送るんで、あなたは音読して暗記を」


「役割は」


「あなたは数字と固有名詞。俺は文脈。いきます」




***


最初の画面。


――――――――――――――――――

【ノード稼働記録】

開始:現地暦302年 終了:現地暦309年

搬入個体数:214

帰還個体数:0

残存個体数:0

――――――――――――――――――




「三〇二年から三〇九年、搬入二百十四、帰還ゼロ――」




セレンの声が、そこで止まった。




「……残存も、ゼロ?」


「読んで! 二分半!」




七年で二百十四人が消えた。

その意味を噛み締める時間は、今はない。


画面を送る。記号の羅列。飛ばす。飛ばす。


現地の文字が混ざる頁で、悠人の指が止まった。




『十七日 ヨシムラ 脱走ヲ試ミル 失敗』


『二十日 ヨシムラ 再度 失敗』


『三十四日 ヨシムラ 端末ノ操作ヲ発見』


「ヨシムラ――人名ですか」


「日本人です。俺の故郷の名前だ」




四十四年前ではない。三百年前。

同じ壁の前に立った、先人がいた。


残り九十秒。


画面を送る。ヨシムラの記録の続き。




『五十日 ヨシムラ 空ヲ調ベ始メル』


『九十日 ヨシムラ 沈黙』


「沈黙って何です」


「分からない。次!」




最後の頁に、書式の違う一行があった。

手書きではない。機械の文字。


――――――――――――――――――

現地暦309年 ノード終了処理

残存個体:一斉回収

――――――――――――――――――




「……回収」




セレンの声が、かすれた。




「二百十四人を、回収した。物のように」


「暗記を! 残り三十秒!」




最後に画面の隅、小さな添付記録が見えた。

開く時間はない。表題だけ、目に焼き付ける。




『回収個体ノ再利用先:GEN-2038』




再利用先。

GEN-2038。


――俺たちの、バッチだ。


そこで、板の光が落ちた。


――――――――――――――――――

電力残量なし――記録を保持できません

さようなら

――――――――――――――――――


最後の一行を残して、端末は完全に沈黙した。




「さようなら、って」


「……最後まで事務的なやつだ」




二度と起動しないことは、触れた指の冷たさで分かった。

七年分の記録は、今、二人の頭の中にしかない。


***




「整理しましょう」




廃墟の外、崩れた石段に腰を下ろして、セレンが手帳を広げた。




「前回は二百十四人。七年で終了し、全員が『回収』された」


「そして回収された個体の再利用先が、GEN-2038。俺たちの回です」


「再利用……前回の二百十四人が、今回の十一万に含まれている?」


「魂を使い回してるのか、素材の話なのか、そこまでは分からない。ただ」




悠人は、指を三本立てた。




「分かったことは三つ。これは繰り返されてる。終わると全員回収される。そして前回から今回へ、何かが引き継がれてる」


「四つ目もあります」




セレンが手帳に書きつけた文字を、こちらに向けた。




『ヨシムラ 空ヲ調ベ始メル→沈黙』


「空を調べた者が、消えている」




その時だった。




「――悠人さん。石段の裏」




セレンの声が低くなった。


振り向くと、崩れた石材の裏面に、引っ掻いたような彫り跡があった。

土を払う。カタカナが現れた。




『ミテイルナラ ソラヲミロ』


「……ヨシムラ、か」




沈黙する前に、彼はここに遺したのだ。

端末の記録は消えても、石に彫った文字は残ると知っていて。


悠人とセレンは、同時に空を見上げた。


雲。太陽。青。


そして――天頂の脇に、動かない小さな光。




「セレンさん、あれ」


「……見えます。星、ですか? 昼間に?」


「動いてない。ずっと同じ場所だ」




セレンが、ゆっくりと言った。




「王都の言い伝えに、あります。『空の御使いは、決して瞬かず、決して動かず、すべてを見ている』――託宣の降りる夜、王はあの光に祈るそうです」




託宣の出どころと、動かない光が、一本の線で繋がった。


悠人の背中を、汗が伝った。


ヨシムラは、あれを調べて、沈黙した。


***


帰り道。街道の途中で、悠人は足を止めた。


前方の木の枝に、灰色の鳥が止まっていた。


昼過ぎ。観測が途切れる時間のはずだった。




「……シフト、変わったのか」




鳥は二人をまっすぐに見て――目を、二度明滅させた。


見た、という合図のように。




「セレンさん。歩調そのまま。何も見なかった顔で」


「ええ。……ですが悠人さん、一つだけ」


「何です」


「あの鳥、私たちが廃墟に入る前には、いませんでした。出てきてから、います」




つまり、どこかで検知された。

端末の起動か。給電か。


三分の閲覧の、請求書がこれから届く。


***


夜。手帳を開く。


・廃墟に図鑑にない四つ目の獣。値踏みしない=規則の外の個体。前の回の残り物か

・終わった実験場には管理が届いていない。だから外れた獣が住み着く

・あの獣にも判定の線があった。二人ぶんの音では届かず、瓦礫の音では届いた

・線がどこにあるかは分からない。でも「線がある」と知ってるだけで選べる

・前回の一回分:214人搬入、7年で終了、全員「一斉回収」。再利用先はGEN-2038=俺たちの回

・ヨシムラは空を調べ始めて「沈黙」。石に『ミテイルナラ ソラヲミロ』を遺した

・天頂脇に動かない光。王都の言い伝え「空の御使い」=託宣の夜に王が祈る対象

・端末は完全に死んだ。記録は俺とセレンの頭の中だけ

・帰り道、空白の時間のはずが鳥がいた。廃墟の後から。検知された可能性が高い


ペンを止めて、悠人は窓の外を見た。


塀の上に、鳥がいる。

夜に見るのは、初めてだった。




「……残業までさせて、悪いな」




鳥は、答えない。


ただ、請求書の届く日が近いことだけは、確かだった。


(――続く)

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