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第8話 魔王と魔王国

「マスター」

「……なんだ?」

「この世界について、まだお伝えしていない重要な情報がございます」


タマモが和服の袖を軽く振ると、診察室の空気の中に青白い光の粒が舞い、鮮明な世界地図のホログラムが空間に浮かび上がった。


地図には複雑に入り組んだ国境線線と、無数の都市が描かれている。人族の王国、広大な領域を誇る帝国、深い森に抱かれたエルフの自治区、不落の山脈を根城とするドワーフの鉱山都市。


そして――タマモの華奢な指先が、大陸の北西部に位置する黒く塗られた領域を指し示した。


「この大陸の北西部に存在するのが、『魔王国』にございます」

「魔王国……?」

アキラは腕を組み、眉をひそめた。「……やっぱり、魔王がいるのか?」

「正確には、魔族の長が国王を務めております」

「魔王って言ったら……やっぱり、人間を滅ぼそうとする悪の帝王みたいなやつなのか?」


素直な疑問を投げかけるアキラに対し、タマモは首を小さく傾げ、九本の白い尾を優雅に揺らした。


「そのご質問には、客観的な事実をもって回答するのが適切かと存じます」

「どういう意味だ?」

「魔王とは、単に魔族王国の最高統治者を指す役職名に過ぎません」

「……それだけか?」

「はい」

「人間を絶滅させようと進軍してくるとか、世界を闇に包むとかは?」

「現在、そのような侵略行為や意図を示す記録および兆候は一切確認されておりません」


「……随分とあっさりしてるんだな」

思わず拍子抜けしたアキラが苦笑すると、タマモは真面目な面持ちで解説を続けた。


「『魔王』という言葉には、立場によって異なる多義的な意味が含まれております」

タマモが地図の東側、人族の王国の中心部を指し示す。そこには重厚な大聖堂のアイコンが輝いていた。


「人族の圏内には、魔族を排斥対象として敵視する宗教勢力――『聖堂教会』が存在いたします」

「教会、か」

「左様です。彼らは民衆の戦意と団結を高めるため、『魔王討伐』を絶対の教理として掲げております」

「なるほどな……」アキラは顎に手を当てた。「じゃあ、実際の魔王国はどうなんだ? 教会とバチバチに戦争してるのか?」

「全面戦争の状態にはありません。魔王国側は自国の統治と経済活動に専念しており、教会の挑発を最小限の防衛で受け流しているのが現状です」


「……なんだそれ」

アキラは呆れたように息を吐いた。


昨日までの自分なら、「異世界召喚」「勇者と聖女」「魔王討伐」と聞けば、テンプレ通りの「勧善懲悪の冒険譚」を想像していただろう。だが、現実は政治や宗教の思惑が複雑に絡み合った、極めて現実的な世界だったのだ。


「じゃあ、勇者として連れていかれたあの高校生たちは……教会の都合で魔王と戦わされそうになってるってことか」

「その可能性は極めて高いかと推測されます」

「……胸糞悪い話だな」


アキラは深く息を吐き出し、ホログラムの地図を見つめ直した。


「で、俺たちはどうする? その紛争に巻き込まれるのか?」

「いいえ。関与せず、静観を保つことも十分に可能です」

「……だよな」アキラは少し考え込み、言葉を継いだ。「だけど、交易はどうなんだ? このダンジョンの広大な農地や設備を使えば、物資の流通はできるだろ」

「可能です」

「魔族とも?」

「もちろんです」

「人族とも?」

「問題ございません」

「エルフやドワーフともか?」

「はい。当ダンジョンの生産力をもってすれば、農産物、鉱物、精密金属製品、魔導具、衣料、高品質な薬品に至るまで、あらゆる品目を各国へ輸出できます」


タマモは何でもないことのように言い切った。


「つまり……」アキラは地図上の国々を指でなぞった。「俺たちは、誰の味方でもないし、誰の敵でもないってことか」

「正確には『中立の巨大交易拠点』でございます」

「……なるほど。悪くないな」


アキラの口元に、自然と笑みがこぼれた。


自分は戦争をしにこの世界に来たわけではない。血を流し、誰かを倒すためにダンジョンを作ったわけでもない。ましてや、見知らぬ異世界の宗教戦争に担ぎ出されるつもりなど毛頭なかった。


「だったら――」アキラはしっかりと力強い目で地図を見据えた。「まずは、いろんな国と対等に話をしよう」

「承知いたしました」

「人族も魔族も関係ない。困っているものや、欲しいものがある場所と取引をする」

「はい」

「武器や兵器以外の、生活に必要なものを売る。こっちも必要な素材や知識を買う」

「畏まりました」

「お互いに争う理由がないなら、最初から争わない。それが一番だ」


タマモの目が細められ、愛おしそうに狐耳がぴくりと動いた。

「……マスターらしい、誠実で温かなご方針です」

「そうか? 普通のこと言っただけだと思うんだが……」

「いいえ。その『普通』を貫くことこそが、この混沌とした世界では何よりの強さとなります」


その時、ホログラム上の魔王国の主要都市周辺に、いくつかの詳細なデータウィンドウがポップアップした。


「……これは?」

「魔王国側から提示されている、現在の潜在的需要リストにございます」

「向こうは、何を欲しがってるんだ?」


タマモがリストを読み上げる。

「主だった需要は、穀物類、生鮮野菜、高品質な鉄製品、そして――『最新型の農具』にございます」


「……農具?」

思わず聞き返したアキラに、タマモがにっこりと微笑んだ。

「はい。魔族の領地は土壌が痩せており、効率的な農耕技術および耐久性の高い農具が深刻に不足しております」


「魔族も、普通に畑を耕して飯食ってるんだな……」

「当然にございます。彼らも生きて生活をしておりますので」

「……そりゃそうか」


アキラは思わず声を上げて笑った。


魔族だからといって、四六時中人間を襲って生肉を貪っているわけではない。土を耕し、種をまき、収穫を祈り、家族を養う。そこには自分と同じ「生活者」の営みがあるのだ。


「タマモ」

「はい、マスター」

「交易の準備を進めてくれ。まずは魔王国との小規模な試行取引からだ」

「小規模、でございますか?」

「ああ。相手の性質も社会のルールもまだ分からない。いきなり大量の物資を流し込んで市場を荒らしちゃいけないからな。お互いに信頼を積み重ねながら、少しずつ広げよう」

「……流石は長年、土と向き合ってこられた専業農家の熟練の知恵ですね。感服いたしました」

「褒めすぎだ」アキラは苦笑しながら頭を掻いた。


「それと、連れ去られた勇者たちのことも、影から見守ってやってくれ。直接介入はできなくても、情報だけは追っておきたい」

「承知いたしました。密偵スフィアを配備し、動向を監視いたします」


アキラは静かに立ち上がり、眼下に広がる第1階層の街並みを眺めた。


異世界に召喚され、圧倒的な技術と膨大な階層を得た。だが、自分のやるべきことは変わらない。

地に足をつけ、人々が安心して暮らせる場所を守り、必要なものを分かち合うこと。


「まずは、交易からだな」

「はい、マスター」


タマモの九本の尾が、嬉しそうにゆったりと揺れていた。

血生臭い闘争ではなく、豊かな実りと対話によって――『ダンジョンワールド』の新しい歴史が、静かに動き始めたのだった。


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