第7話 脳梗塞治療
医療都市――第18階層の個室診察室には、どこか緊張した静けさが漂っていた。
第1階層の広場では、軽度の疾患や不調から解放された人々が、痛みのない身体に歓声を上げている。
しかし、この診察室に残された高齢女性とその家族の顔には、まだ深い躊躇と不安の影が落ちていた。
女性は車椅子に深く腰掛け、力なく膝の上に重ねられた右手に視線を落としている。
脳梗塞を発症して以来、右半身には重い麻痺が残り、言葉もうまく発せられなくなっていた。
「……本当に、母の麻痺が治るのでしょうか……?」
傍らに立つ娘が、祈るように両手を握りしめながら尋ねた。
「リハビリも何年も続けましたが、これ以上の回復は難しいと言われていて……。言葉も、昔のように話せるようになるなんて、どうしても信じられなくて……」
担当の医療AIが、穏やかなトーンで答える。引用 2
「お気持ちは理解いたします。当施設で行う治療は、ナノマシンと魔法医療を組み合わせた神経再生技術および細胞再構築です。脳内の壊死した神経回路を完璧に再接続し、損傷した運動野および言語野の機能を修復いたします」
ホログラムモニターに、女性の脳の立体映像が映し出された。
一部の領域が暗く影を落としている。
「治療に要する時間は約10分。お身体への負担や痛みは一切ございません」
「10分……? 嘘でしょう……?」
娘は言葉を失い、息を呑んだ。
様子を見に訪れていたマスター――遠藤アキラが、静かに歩み寄った。
「俺も最初は半信半疑でした。だけど、ここの設備とAIの実力は本物です。……何年も諦めざるを得なかった苦しみを、ここで一度、手放してみませんか?」
アキラの飾らない言葉に、車椅子の女性がゆっくりと顔を上げた。
意思を宿した瞳でアキラを見つめ、不自由な左手で娘の手をギュッと握り返す。
「……あ、あ……」
声にならない声を漏らしながら、女性は小さく、しかし確実に頷いた。
治療室のベッドに女性が横たわると、柔らかい淡い光の層が優しく全身を包み込んだ。
『脳神経領域の特定完了。神経再生および回路再接続プロセスを開始します』
モニター上で、暗く影を落としていた脳の領域に、黄金色の光の網目が急速に広がり、切断されていた神経回路が次々と繋ぎ直されていく。
『神経回路の復元完了。言語野および運動野の活性化を確認。治療を終了します』
「……え?」
娘が息を呑む中、ベッドの上の女性が、ゆっくりと右手の指を動かした。
一本、また一本。自分の意思で完璧に曲げ伸ばしができる。
女性は起き上がり、自分の右手を開いたり閉じたりしながら、信じられないといった表情で見つめた。
「手が……動くわ……」
途切れることも、つっかえることもない、ハッキリとした通る声だった。
「お母さん……? お母さん……!」
娘が駆け寄る。女性はベッドから静かに足を下ろし、しっかりと両足で床を踏みしめた。
「足にも……力が入るの。体が、こんなに思い通りに動くなんて……」
一歩、二歩。支えもなしに、力強く歩みを進める。
「お母さんっ……! お母さんぁっ……!」
娘は女性に抱きつき、声を上げて泣き崩れた。
女性もまた、涙を零しながら娘の背中をしっかりと両手で抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう……。また、ちゃんとあなたと話ができるのね……」
診察室を後にする親子の後ろ姿を、アキラとタマモは静かに見送っていた。
「脳梗塞の後遺症を抱えられていた患者様の治療も、無事に完了いたしましたね、マスター」
タマモが九本の尻尾をゆらりと揺らし、晴れやかな笑顔を向ける。
「ああ。……手足が動かないことや、言葉が伝わらないもどかしさは、本当に辛かったはずだ」
アキラは深く息を吐きながら、遠くを見つめた。
「病気が治っても、失われた年月が戻るわけじゃない。だけど……これからの時間を、自分の言葉と自分の足で歩んでいけるなら、それだけで意味があるはずだ」
「はい。命と健康、そして尊厳を取り戻した皆様は、これから新しい未来を紡いでいかれるでしょう」
タマモは誇らしげに胸を張った。
「マスターが作られたこの世界は、間違いなく人々を救い、希望を与えていますよ」
「だから、俺は何もしてねぇって……」
頭を掻きながら苦笑するアキラの横で、タマモの尻尾が嬉しそうに揺れていた。
長年囚われていた病の影から解き放たれ、踏み出す一歩。
その歩みは、新しい世界を照らす確かな光となっていた。




