第75話 ノルト~中継港構想
海洋都市国家、そして交易都市へと無事に逃れ、身分を隠して潜伏生活を始めたノルトリンデ。
その一方で、彼女を「全権使者」として送り出した故郷・ヴァルデンブルク子爵領の執務室では、領主オットーが頭を抱え、絶望とは異なる種類の深いうめき声を上げていた。
「……なぁ、アマーリエ。これは私の見間違いだろうか?」
オットーは疲れ切った顔で、机の上にうずたかく積まれた書類の山を指さした。
そこにあったのは、弱小子爵領のキャパシティを遥かに超えた、恐ろしい内容の公文書群であった。
海洋都市のマリーン商会から届いた莫大な食料支援の完了報告書。
子爵領の小さな入り江を大陸有数の大規模国際港へと作り変える港湾整備計画書。
海洋都市、東方国、魔王国、そして交易都市を結ぶ新たな定期航路の開設許可書。
右肩上がりに跳ね上がり、もはや担当役人すら計算を諦めかけた領内経済の見通しグラフ——。
「あなた、しっかりしてください。夢ではありませんよ」
妻のアマーリエが苦笑しながら温かいお茶を差し出すが、オットーの胃の痛みは増すばかりだった。
「ノルトは今、安全な場所にいるはずだよな? 潜伏して、静かに暮らしているはずだよな!?」
「ええ。父の手配で、交易都市で大人しく過ごしていると聞いておりますけれど……」
「ではなぜだ!! なぜ遠国で静かに暮らしているはずの娘の足跡から、こんな巨大な船団や整備計画が生えてくるのだ!?」
オットーは頭を抱え、机に突っ伏した。
ドナウ伯爵の圧力を回避するため、使者に対して「交渉の全権は娘に一任した」と口から出まかせを言ったのは自分だ。だが、まさかその「全権」を行使した結果、故郷の経済規模が何十倍にも爆発するなど誰が予測できただろうか。
そこへ、アマーリエがもう一通、本日届いたばかりの手紙を取り出した。
「そういえばあなた、ノルトから近況報告の手紙が届いていましたよ。一番最後の追伸をご覧になって?」
オットーは縋るような思いで手紙を受け取った。娘の無事を確認し、少しでも心を落ち着かせようとしたのだ。
しかし、手紙の末尾——他愛のない日常の雑感の端っこに、まるで「明日の天気」でも書くような軽さで添えられた小さな丸みがかった文字を目にした瞬間、オットーの動きが完全に停止した。
『追伸:こちらで東方国のお茶をいただいたのですが、とても良い香りでした。お父様にも飲ませてあげたいとお友達のサクラさんに話したら、子爵領に東方国の領事館ができることになりました。楽しみですね!』
「……」
執務室に、死のような静寂が訪れた。
オットーは手紙の文字を二度、三度と見返し、次の瞬間みるみるうちに顔面から血の気が引いていった。
「り……領事館……!? 東方国の……領事館だと……!?」
「お茶を飲ませてあげたい」という娘の他愛もない一言から、一国の外交拠点が生み出されたという事実。オットーは猛烈な胃の痛みに襲われ、両手で強く腹部を押さえながら絶叫した。
「ノルトーーーッ!! お前は遠く離れた場所から我が領地をどうしようというのだ!! 頼むから帰ってきて説明してくれ……いや、帰ってこなくていいからこれ以上何もするなぁぁぁっ!!」
「あなた!? しっかりしてください、あなた!」
血の吐くような叫び声を上げて倒れ込むオットー。
その傍らで控えていた家臣たちは、そっと視線をそらし、心の中で深くうなずいていた。
(御主人様……お言葉ですが、お嬢様が逃げ出した瞬間から、この流れはもう誰にも止められません)
娘を豚伯爵の手から逃がすための方便だった「交渉全権の委任」。それが海洋都市の商会長や交易都市の商人たちの思惑と噛み合い、大陸全体の物流構造を塗り替える大事業へと発展していることを、遠方のノルト本人はまだ何も知らなかった。
一方その頃、ドナウ伯爵領。
「な……なんだとっ!?」
豪華な執務室に、ドナウ伯爵の怒声が響き渡っていた。
手元に届いたのは、あの貧乏子爵領で始まった大規模な港湾整備と、東方国を結ぶ新ルート開通の報せであった。
自領を通る水運の交通量自体は落ちていない。しかし、新ルートを飛び交う規格外の物流規模に比べれば、自領の川船物流など全体のほんの僅かな割合に過ぎなくなっていたのである。かつて大陸の物流を握っていたという誇りは打ち砕かれ、領地の相対的な価値は暴落した。
伯爵は、かつて使者から受けた報告を思い出す。
『子爵は、交渉全権をノルトリンデ様に一任したと……』
「あの小娘~~~~っ!! 姿を眩ましたまま、影で何をしたぁぁぁぁっ!!」
重厚な執務室の壁を震わせるほどの激怒の叫びが上がる。
当のノルトリンデは、交易都市のサロンで東方国のお茶を呑気にすすりながら「帝国の才女」という自分とは無縁の噂話に首をかしげているだけなのだが——自尊心を粉砕されたドナウ伯爵に、それを知る術はなかった。




