第73話 ノルト~救い
子爵邸を発ってからノルトの目に映り続けていたのは、先日の大嵐によって残酷に荒らされた農地や倒壊した建物、そして光の消えた瞳で茫然と立ち尽くす領民たちの姿だった。
(もし、私があのドナウ伯爵のもとへ嫁ぐことを我慢していれば、この人たちを救うための援助が得られたのではないかしら……)
胸を締め付けられるような罪悪感が押し寄せ、ノルトは押し潰されそうになる。だが、そのたびに彼女の脳裏には、命がけで自分を送り出してくれた父オットーや母アマーリエ、そして優しく背中を押してくれた姉たちの姿が鮮明に浮かび上がった。
(いいえ、諦めてはダメ……! 皆様が命がけで繋いでくださったこの道を、私が途切れさせるわけにはいかないわ)
ギュッと拳を握りしめ、ノルトは前を見据えた。嵐の被害が特に深刻な地域は、追っ手や役人すら混乱している状態であり、幸いにも何事もなく通過することができた。
やがて馬車が急停車した。
護衛が振り返り、街道の分岐点を指し示しながらノルトに問いかける。
「ノルトリンデ様、ここから道が二つに分かれております。宿場町が続き走りやすい『新道』と、丘陵を迂回して農村を進む『旧道』です。新道を行けば半日ほど早く到着できますが、いかがいたしましょう? 距離を稼ぐなら新道ですが……」
護衛は一刻も早く安全圏へ向かうため、新道を望んでいる様子だった。しかし、ノルトは目を閉じ、父オットーならどう判断するかを深く思案した。
(新道は走りやすくとも、宿場町や関所で人目につきやすい。伯爵の追っ手が放たれているとすれば、真っ先に警戒されるのは新道のはず……)
「旧道を進みましょう」
ノルトは毅然とした声で告げた。
「門番や旅人の目が少ない道を選びます。時間を稼ぐことよりも、追っ手に足取りを掴ませないことを最優先にしてください」
このノルトの賢明な決断が功を奏した。帝都街道へと向かう囮の馬車に惑わされていた追っ手たちは、旧道を進むノルトたちの足取りを完全に見失うこととなったのである。
その後、帝国の国境検問所に到着した。さすがにここを無断で通り抜けることはできない。ノルトは胸を張り、深呼吸をしてから検問の兵士へ堂々と名乗りを上げた。
「ヴァルデンブルク子爵家三女、ノルトリンデにございます。海洋都市国家群へ、我が家の全権使者として向かう途上にあります」
幸いにも、伯爵の手配書や指示はまだこの辺境の検問所まで届いていなかった。使者としての身分を証明する書類を提示し、一行は無事に帝国国境を突破した。
ついに、海洋都市国家の巨大な街門を潜る時がやってきた。
門番からの誰何に対し、ノルトは落ち着いた声を意識しながら答える。
「ヴァルデンブルク子爵家ノルトリンデと申します。マリーン商会への商談のために参りました」
門をくぐり抜け、活気に満ちあふれる街並みを抜け進むと、やがて目的の場所――海洋都市国家でも屈指の規模を誇る『マリーン商会』の本店が姿を現した。
しかし、長旅と旧道の悪路を乗り越えてきたノルトたちの身なりは、砂埃と泥にまみれ、すっかりボロボロになっていた。とても貴族や富裕な商人の一行には見えない。
ノルトがおそるおそる店先にいた若い使用人に声をかける。
「あの……商会長様にお目にかかりたいのですが」
若い使用人はノルトのボロボロな服装を一瞥すると、鼻で笑うように口元を歪めた。
「失礼ですが、ご予約は? 当店の商会長は多忙を極めておりましてね。身なりも整っておられない方のお相手をしている暇はございませんよ」
露骨な見下しとあしらうような態度に、ノルトに同行していた護衛の血が昇った。
「貴様、どなたに向かって口をきいている! 無礼者め!」
護衛は激昂し、若い使用人の胸ぐらを力任せに掴み上げた。店先は一瞬にして騒然となり、通行人たちが足を止める。
「きゃっ……! お願い、やめてください!」
収集がつかなくなった事態にノルトが縮こまっていると、店の奥から身なりのきちんとした落ち着いた雰囲気の中年男性が慌てて姿を現した。
「そこまでだ! 本店前で何の騒ぎだ!」
中年男性が制すると、ノルトは必死に姿勢を正し、泥のついた着衣のまま深く一礼した。
「不躾な訪問をお許しください。私はヴァルデンブルク子爵家三女、ノルトリンデと申します。ロレン商会長に……我が祖父に、緊急の用向きがあり参りました」
その名を聞いた瞬間、中年男性の顔色が劇的に変わった。
「ノ、ノルトリンデ様……!? 大変失礼いたしました!」
男性はすぐさま使用人を押し退けると、恭しく頭を下げ、ノルトたちを店の奥にある重厚で落ち着いた応接室へと案内した。
応接室の豪華なソファで待つことしばし、扉が勢いよく開かれた。
入ってきたのは、豪華な仕立ての衣装に身を包み、鋭くも温かみのある眼光を湛えた老紳士――ノルトの母アマーリエの父であり、マリーン商会を束ねる祖父、ロレン・マリーンであった。
「ノルト! ノルトじゃないか! 無事だったか!」
「おじい様……!」
ボロボロになりながらも無事に辿り着いた孫娘の姿を目にし、ロレンは目元を熱くしながらノルトの肩を抱き寄せた。
ノルトは積もりに積もった緊張と疲れが一気に溢れ出し、ポロポロと涙をこぼしながら、これまでの経緯をすべて打ち明けた。
領地が大嵐によって壊滅的な被害を受けたこと。
ドナウ伯爵が食糧支援を盾に、自分を「第八夫人」として差し出すよう迫ってきたこと。
そして、父や母、姉たちが命がけで自分を「全権使者」として送り出してくれたこと――。
「……なるほど。すべて理解したよ、ノルト」
ノルトの話を静かに聞き終えたロレンの顔から破顔の笑みが消え、商会長としての冷徹で怒りに満ちた表情へと変わった。
「愛くるしい私の孫娘を脅かし、我が娘と婿の領地を苦しめる『豚』がいるとはな……。ドナウ伯爵ごときが、このロレン・マリーンをコケにしてタダで済むと思うなよ」
ロレンは立ち上がると、すぐさま側に控えていた男に鋭い口調で矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。
「すぐに動くぞ! まず、我が商会が誇る大型交易船団を緊急手配しろ! 子爵領の全領民が数年にわたって飢えることのないだけの穀物を確保し、復興資材や支援物資も手配しろ。準備が整った物資から順次船に積み込み、ヴァルデンブルクの入り江へ即時派遣するのだ! ドナウの『豚』が仕掛けた物流封鎖など、叩き潰してやる!」
「はっ! ただちに手配いたします!」
「それから、もう一つだ」
ロレンは顎に手を当て、鋭い眼光で窓の外を見据えた。
「かねてより検討していた『交易都市』へ我がマリーン商会の支店を出店させるぞ。帝国や周辺国との情勢を見据えても、あそこは今後急速に発展する要衝となる。商会としての拠点を築く絶好の機会だ」
そして、ロレンは優しくノルトの頭を撫でた。
「そしてノルト、お前の安全確保だ。ドナウ伯爵の手配書や追っ手は、やがて国外にも回るだろう。お前を帝国の手の届かない安全な場所へ隠さねばならん。その潜伏先として『交易都市』を選ぶ」
「交易都市……ですか?」
「そうだ。お前には身分を完全に隠してもらい、知り合いの商人に預ける形で『商人子女ノルト』として交易都市へ行ってもらう。あそこならば帝国の権力も及ばず、留学という名目で身を隠すには最適だ」
祖父の素早く完璧な対応と温かい言葉に、ノルトの瞳から再びボロボロと涙が溢れ出した。
「おじい様……ありがとうございます……!」
こうして、決死の逃亡劇を終えたノルトリンデの足取りは、子爵領を救う大船団の派遣と、彼女自身の新たな運命の舞台――『交易都市』へと繋がっていくのだった。




