第72話 ノルト~子爵領
ノルトが海洋都市国家へと旅立ってから、早くも一ヶ月の時が流れていた。
ヴァルデンブルク子爵領の秋の風はどこか冷たく、荒れ果てた畑や崩落したままの橋が、先日の大嵐の痕跡を痛々しく残している。
「……今月の食糧配給の状況はどうか」
執務室で重い溜息を吐きながら、オットーは疲れ切った顔で家臣に問いかけた。
先の風水害とドナウ伯爵による流通の完全な封鎖。子爵家の蔵の蓄えを限界まで切り崩し、なりふり構わず切り詰めることで、なんとか領民を飢えさせずに繋ぎ止めているのが現状であった。
ドナウ伯爵からの圧力と「第八夫人」という理不尽な要求を受け流し、娘のノルトリンデを命がけで国外へ逃がしたあの日から、オットーの胃が休まる日は一日たりとも存在しなかった。
(ノルト……無事にお前の祖父の元へ辿り着けたのか……?)
逃亡を察知した伯爵の使者どもは怒り狂って帝都街道へと駆け去っていったが、国外へ渡る手配書が回る前に無事に逃げ切れたか、途中で倒れてはいないか。父親としての尽きぬ不安と、日に日に底をついていく領地の糧食。押し潰されそうな重圧に耐えながら、オットーは固く拳を握りしめていた。
その時——。
「ご、御領主様っ! 大変ですっ!!」
ドタバタと不躾な靴音を響かせ、一人の領民が息を荒らげて執務室へと駆け込んできた。
「どうした、落ち着きなさい! ドナウ伯爵の襲撃か!?」
「ち、違います! 海です! 入り江の沖に、見たこともないほど巨大な船が現れましたっ!!」
「何だと……!?」
オットーは弾かれたように立ち上がった。ヴァルデンブルク領の港は、元より小さな漁船が数隻入れる程度の小さな入り江に過ぎない。そこへ大型船が現れるなど、通常では考えられない事態であった。
最悪の事態 -ドナウ伯爵が水上から兵を送り込んできた可能性を頭に浮かべ、オットーは兵たちを率いて大急ぎで港へと向かった。
しかし、砂浜へと続く坂道を駆け下りている最中、次々と飛び込んでくる知らせはオットーの予想を遥かに超えるものであった。
「報せです! 船が増えています! 一隻や二隻ではありません、船団です!」
「な……船団だと!?」
息を切らせて港に辿り着いたオットーの目に飛び込んできたのは、言葉を失うような光景だった。
普段は静かなはずの沖合に、見上げるような大帆を掲げた巨大な商船が、海を埋め尽くさんばかりにズラリと停泊している。その堂々たる佇まいは、軍艦すら圧倒するほどの存在感を放っていた。
「な、なんだあの船の大きさは……!? 一体どこの国の……」
騒然となる領民や兵士たちが見守る中、沖合の巨大船から一隻の小舟が下ろされ、まっすぐに砂浜を目指して進んでくる。
ざざん、と波を押し分けて小舟が砂浜へと乗り上げた。
真っ先に降り立ってきた人物の姿を目にした瞬間、オットーは思わず目を見開いた。
豪華な仕立ての衣装に身を包み、鋭くも温かみのある眼光を湛えた老紳士——。
「……義父上……!?」
そこに立っていたのは、妻アマーリアの父であり、海洋都市国家群でマリーン商会を束ねるノルトの祖父であった。
「やあ、オットー。相変わらず苦労性の顔をしているな」
豪快に笑いながら歩み寄ってくる義父の姿に、オットーは開いた口が塞がらなかった。
「な、なぜ義父上がここに……!? その、沖に見える大船団は一体……!?」
「ハハハ、決まっているだろう! ノルトから全て聞いたのだよ」
義父はポンとオットーの肩を叩くと、深い怒りと頼もしさを滲ませた笑みを浮かべた。
「あの愛くるしい私の孫娘が、ボロボロになりながら私のもとへ駆け込んできてな。『領地が嵐で大変なことになっているの! それに、豚みたいな伯爵に狙われていて……!』と泣きついてきたのだ。……大切な孫娘を脅かし、我が娘と婿の領地を苦しめる『豚』がいると聞いて、黙っていられるはずがなかろう?」
「で、では……あの船団は……」
「我がマリーン商会が誇る交易船団だ。まずは子爵領の全領民が数か月間、安心して暮らせるだけの穀物と物資、そして復興に必要な資材を積み込んである。次の船団も順次手配する。食糧が尽きる心配はせずともよい!」
「数か月分……! それだけでも、我が領にとっては想像を絶する支援です……!」
オットーは目眩を覚えた。ドナウ伯爵が提示してきた「1年分の支援」という破格の条件を、遥かに凌駕する規模の物資が、いま目の前の海に届いているのだ。
「オットーよ。ノルトはお前たちの言いつけを守り、見事に『全権使者』としての役割を果たして私のもとへ届いてくれたぞ。あの子が繋いだ道だ。躾のなっていない『豚』ごときの圧力など、この私が力尽くで叩き潰してやる!」
広大な海を背景に誇らしげに胸を張る義父の姿と、沖に佇む圧倒的な船団を見上げながら、オットーの目からは自然と涙が溢れ出していた。
(ノルト……お前は本当に、やってのけたのだな……!)
命がけで領地を飛び出した一人の少女の逃走劇が、いまや子爵領の絶望的な運命を根底からひっくり返そうとしていた。
しかし -この時オットーはまだ知る由もなかった。
娘が引き起こしたこの一歩が、やがて子爵領のみならず、大陸全体の経済と外交の歴史を大きく塗り替えていくことになるということを。




