第71話 ノルト~逃避行
オットーは、伯爵からの使者が投げかけた打診に対して、最後まで明確な諾否を口にしなかった。
「妻や娘たちと別れの時間を過ごさせたい。どうか無用な無粋はお控えいただきたい」
そう言って使者たちを巧みに別室へ誘い入れると、極上の酒を振る舞った。重責から解放されたと思い込んだ使者たちは、差し出された杯を次々と干し、やがて床に転がって泥酔していった。
その裏で、屋敷は静まり返った熱気に包まれていた。妻や娘たち、そして信頼の厚い譜代の家臣たちは、息を殺して荷を整え、オットーからの合図を静かに待っていた。
薄暗い小部屋の隅で、母のアマーリエがノルトリンデの両手を優しく包み込み、感極まったように声を詰まらせた。
「ノルト……道中はくれぐれも気をつけるのですよ。遠く離れてしまっても、私たちはいつもあなたの無事と幸福を祈っていますからね」
「はい、母様。私、必ず無事に辿り着いてみせますわ」
ぎゅっと手を握り返すノルトリンデの肩を、長女のロザリアが抱き寄せるように引き寄せた。
「あの豚伯爵の元へ送られるくらいなら、どんな遠くへでも逃げてちょうだい。でも……本当に無理だけはしちゃダメよ。怪我でもしたら承知しないんだから」
「大姉様……ふふ、ありがとうございます」
「そうよ、ノルト」
次女のクラリッサも涙ぐんだ瞳でノルトリンデの旅装を整えながら、くすりと小さく微笑んだ。
「昔から少し怖がりなところがあるのだから、途中で心細くなっても泣いたりしちゃダメよ? 無事に到着したら、すぐに報せを送るのよ」
「ええ、小姉様。私、もう子供ではありませんもの。皆様が繋いでくださったこの道を、決して諦めずに走り切ってみせます」
互いに押し殺した声で励まし合い、強く抱き合う母娘の瞳には、別れの寂しさと、理不尽な運命に立ち向かう確かな決意が宿っていた。
表向きは正式な外交使節の旅路である。街道を堂々と行く以上、勝負は一刻を争う。
日が昇る少し前、ノルトたちは静かに海洋都市国家へ向けて出発した。
日が昇りはじめ、領民が活動を始める頃、空樽に幌をかぶせた軽量の荷馬車が、帝都へと続く街道へ向かって勢いよく走り去っていった。囮と知らぬ追っ手がその馬車を捕まえる頃には、ノルトリンデたちはとうに安全圏へ抜けているはずだった。
日が高く上り切った頃、頭を抱えながら顔を出した使者に対し、オットーは申し訳なさそうな笑みを浮かべて見せた。
「伯爵様からの温かいお申し出には、深く感謝しております。ただ……私どもで話し合いました結果、今後の交渉全権は娘のノルトリンデに一任することといたしました。すでに知人を頼り、しかるべき場所へと向かっております。伯爵様にはどうぞ、よろしくお伝えください」
一見すれば、娘が交渉のために帝都のコネクションを頼って旅立ったとも取れる言い回しだった。使者の顔が急速に赤く染まり、怒りに打ち震える。
「な……! 伯爵様の申し出を、我が方の提案を了承されたのではなかったのか!?」
詰め寄る使者に対し、オットーは微風にも揺らがぬ涼しい顔で受け流した。
「ええ、家族で熟慮を重ねた上での決断でございます。ノルトリンデ自身が、自ら交渉に向かいました」
言葉の裏に隠された意図を都合よく解釈し、勝手に激昂した使者は、まだ床に転がっている死屍累々の部下たちを怒鳴り散らして叩き起こした。
「起きろ、愚か者ども! ノルトリンデ様を追いかけるぞ! 帝都街道へ急げ!」
冷や汗を流しながら馬に飛び乗り、帝都への街道を狂ったように駆け抜けていく使者たちの背中を、オットーはただ静かに見送っていた。
数日後、
ドナウ伯爵領の本邸――重厚な執務室の扉が、荒々しく叩き開けられた。
「閣下! ヴァルデンブルク子爵領へ派遣した使者より、急報にございます!」
報告に飛び込んできた使いの男は、泥と汗にまみれた膝を床につき、身を震わせながら書状を掲げた。
豪華な革張りの椅子に深々と腰掛け、上質なワイングラスを傾けていたドナウ伯爵は、不機嫌そうに眉をひそめた。肥満した顔を歪め、冷ややかな視線を使いに向ける。
「……何の騒ぎだ。子爵が首を縦に振り、娘を差し出すと降伏の返答でも持ち帰ったのだろう? 水路も街道も止められ、あの貧乏子爵に選択肢などないはずだ」
「それが……っ、使者一団は子爵の巧みな策にはまり、酒で泥酔させられ……その隙にノルトリンデ様は屋敷を脱出。帝都街道へ向かったとされる囮の馬車に惑わされている間に、完全にその足取りを見失いました!」
「……何だと?」
執務室の空気が凍りついた。
ドナウ伯爵の手からワイングラスが滑り落ち、高価な絨毯の上に真っ赤な液体が染み込んでいく。
「見失った……? たかが落ち目の子爵一族と、十五歳の小娘一匹だぞ!? 我が手の内にある土地で、どこへ逃げたかも判らんというのか!?」
「は、はひっ! すぐに手分けして周辺の捜索を開始させましたが、既に数日が経過しておりまして・・・街道を外れたのか、どの町や村の関所にも該当する人物の立ち寄り形跡がなく……!」
「愚か者が――ッ!!!」
ドナウ伯爵は激昂し、重厚なオーク材のデスクを思い切り殴りつけた。飾られていた調度品がガタガタと大きな音を立てて揺れる。
「使者どもは叩き出せ! たかが干からびかけた子爵ひとりに一杯食わされ、手のひらの上で転がされるなど万死に値する! どこへ向かったかも判らんとなれば、広大な領外のどこを探せというのだ! 完全に後手に回ったではないか!」
伯爵は激しい怒りに肩を上下させながら、血走った目で窓の外を見据えた。
「……全河川、全街道の検問に通達しろ! 帝都への道だけでなく、あらゆる港と国境の出入口にノルトリンデの手配書を回せ! 鼠一頭、蚊一匹たりとも逃がすな! どんな手段を使っても、あの小娘の行き先を突き止め、私の前に引きずり出せ!!」
「は、はっ! ただちに!」
使いの男が這うようにして部屋を去った後も、ドナウ伯爵の荒い息遣いと、怒りに満ちた唸り声が執務室に響き渡っていた。
その傍らで静かに控えていた初老の執事が、静かな声音で口を開いた。
「閣下、お言葉ですが……我が領地のみならず、あらゆる国境や港にまで手配書を回すとなれば、相応の日数がかかります。その間にノルトリンデ様がさらに遠方へ逃れてしまう恐れもございますが……」
「黙れ!」
ドナウ伯爵は激昂のままに執事を一蹴した。
「日数がかかろうと関係ない! 鼠一頭逃がすなと言ったはずだ。一刻も早く手配を整えろ!」
「……かしこまりました」
執事は深く頭を下げ、静かに指示の伝達へと向かった。
――それから半月後。
再び執務室の扉が叩かれ、青ざめた表情の使いが飛び込んできた。
「閣下! 関所より報せにございます! ノルトリンデ様と思われる一行が、海洋都市国家群へ向けて関所を通過したとのことです!」
「なに……! 手配書はどうした! なぜ捕らえなかった!?」
ドナウ伯爵が身を乗り出して詰問すると、使いは震え声で答えた。
「そ、それが……手配書がその関所に届く、七日前のことでございます……!」
「な……七日前だと……!?」
ドナウ伯爵は言葉を失い、怒りと焦燥で顔を歪ませた。執事の懸念通り、手配が行き渡る隙を突かれ、完全に国外へと逃げ切られたことを思い知らされたのだった。




