第70話 ノルト~崩れる日常
~貴族の家出娘と生暖かい目でみられているノルト(ノルトリンデ)のお話~
ヴァルデンブルク子爵家では、母アマーリエと三姉妹ロザリア、クラリッサ、ノルトリンデそして末弟のレオの笑い声が絶えず、誰もが穏やかで幸せな日々を過ごしていた。
山脈から続く緩やかな丘陵と岬で囲まれた穏やかな海の間にひろがる領地も平穏そのもので、今年も豊かな実りが期待されていた。
しかし、その幸福は一夜にして崩れ去る。突如として襲来した嵐が、子爵領を容赦なく吹き荒れていった。
暴風雨が過ぎ去った翌朝、そこに広がっていたのは無残な光景であった。収穫を直前に控えていた黄金色の麦畑や芋畑はことごとく水没し、今年の収穫は絶望的となった。農地ばかりか主要な街道や橋も激しく破壊され、中には原型を留めぬほど潰滅した村すら存在した。
事態を重く見た領主オットーは、領民を守るために帝都の知人たちへ相次いで連絡を取り、なりふり構わず支援を要請した。しかし、返ってきたのは冷淡な拒絶の言葉ばかりであり、頼みの綱は次々と絶たれていった。
万策が尽き、子爵家が深い絶望と重苦しい雰囲気に包まれる中、屋敷の門前に一台の豪華な馬車が到着する。帝国の水運を握るドナウ伯爵からの使者が訪れたのだった。
応接室に通された使者は、不敵な笑みを浮かべながら絶望に沈むオットーの前に一枚の書状を差し出した。そこに提示されていたのは、飢えに苦しむ領民を救うに十分な量の穀物支援、さらにはヴァルデンブルク子爵領の「1年分の収入」に相当する膨大な金貨の融通という、あまりに魅力的な支援案であった。
「……これほどの支援を、なぜドナウ伯爵閣下が我が家にお与えくださるのか」
オットーの問いに、使者は優雅に肩をすくめてみせた。
「我が主は東方国から帝都、さらには聖堂教会へと至る大水運網を統括しておられます。我が領の水路を巡る船の一艘、流れる金貨の一枚すら、主の掌の上にございます。子爵領を襲った惨状を救うことなど、我が主にとっては大海から一滴を分けるようなもの」
破格の申し出に一筋の希望を見出したオットーであったが、具体的な条件を詰めていく中で、使者の口から提示された真の対価はあまりにも苛烈なものであった。
「――ただし、このご支援の前提として。子爵家の三女、ノルトリンデ様を我が主、ドナウ伯爵の妻としてお迎えしたく存じます」
喉から手が出るほど欲しい支援と引き換えに求められたのは、弱冠15歳のノルトリンデとの婚姻であった。
「確か……伯爵閣下には、既に七人の夫人がいらしたはずだが……」
冷や汗をにじませながらも、オットーは必死に冷静を装って使者を見据え、その真意を問い正した。しかし使者は意に介した様子もなく、嘲笑を思わせる薄笑いを浮かべたままゆっくりと頷いた。
「ええ、左様にございます。故にノルトリンデ様には『第八夫人』としてお越しいただくこととなりますな。我が主は、子爵家の気品ある血筋と、ノルトリンデ様の美しさをご所望なのです。……これほどの破格な条件、領地と領民の未来を思えば、子爵閣下にとっても決して悪いお話ではないはずですが?」
「……帝都の知人たちや、近隣の領主たちとも連絡を取っている。返答を待たせてほしい」
オットーがすがるような思いで放った言葉に、使者はくすりと低く笑った。その瞳には冷酷な勝利の確信が宿っていた。
「子爵閣下、まだお分かりになりませんか? 帝都へ続く街道の橋は落ち、沿岸へ入る水路の商船は……すべて我が主の命によって足を止められております。閣下がどれほど救援を乞おうと、この領地に一粒の麦すら届くことはございません。あなた方には最初から、選択肢など存在しないのです」
拒否権などないこと、そして伯爵によって子爵領がすでに完全に干上がらされていることを突きつけられ、オットーは奥歯を強く噛み締め、声もなく拳を震わせた。そして絞り出すような声で静かに告げた。
「……家族と話す時間をいただきたい」
使者は満足そうに深々と一礼すると、勝ち誇った足取りで応接室を後にした。
~ノルトリンデ視点~
使者が勝ち誇ったような笑みを浮かべて去った後、応接室の重苦しい静寂を破ったのは、父様の深く重い溜息であった。
集められた家族が息を潜めて見守る中、父様は力なく椅子に深く身を沈め、絶望に満ちた声で領地の現状を語り始めた。
「先日の暴風雨による被害は、我がヴァルデンブルク領の歴史上最も甚大だ。麦や芋の畑は完全に水没し、主要な街道も橋も崩壊した。このままでは冬を越す前に領民に餓死者が出る……」
父様は震える手で顔を覆い、帝都の知人たちから冷たく切り捨てられたこと、そして先ほど訪れたドナウ伯爵の使者からの信じられない申し出について明かした。
「ドナウ伯爵は、我が領地に一年分の収入に相当する金貨と、領民全員を救うに十分な穀物支援を約束した。……ただし、その対価として求められたのは、ノルトリンデ……お前を『第八夫人』として召し上げることだ」
「なっ……! あの豚伯爵の、第八夫人ですって……!?」
大姉様が激昂して声を張り上げ、小姉様も顔を蒼白にして私を抱き寄せた。十五歳になったばかりの私に、祖父以上の年齢で肥え太った豚伯爵との婚姻を突きつけるあまりに苛烈で理不尽な対価に、部屋の中は激しい憤りと悲しみに包まれた。
私が唇を噛み締め、声も出せずに立ち尽くしていると、父様は静かに首を振って力強い眼差しを私たちに向けた。
「安心しなさい、ノルト。我がヴァルデンブルク家は、大切な娘を犠牲にして生き延びるつもりなど毛頭ない。伯爵は街道も水路も封鎖し、逃げ場はないと高括っているようだが……まだ道はある。」
父様が視線を向けたのは、母様であった。
「アマーリエの父上、つまりお前たちの祖父上が居る海洋都市国家の商会を頼る。あそこなら伯爵の圧力が届かない。私は、ノルトを海洋都市への『正式な使者』として領地から送り出し、そのまま向こうの商会で保護してもらう。」
「あなた……!」
母様が目を見開き、父様の手を強く握りしめる。
「使者としての移動であれば、建前上は領内外への移動は正当な外交として誤魔化しが効く。伯爵の監視の目が届かない今、ノルトを安全な場所へ逃がすのが第一だ。……ノルト、恐ろしい思いをさせてすまなかったな。だが、どうか我が家の誇りと未来のために、この苦難に耐えておくれ。」
「父様……」
父様の言葉に、私の胸の奥に小さく灯っていた恐怖は吹き飛び、温かな決意が満ちていった。
(私は逃げますわ。あの恐ろしい豚伯爵との結婚からも、この理不尽な運命からも! 父様や母様、お姉様方が繋いでくださったこの道を、絶対に無駄にはいたしません!)
こうして、子爵家の愛と決意に支えられた、私の身分を偽る命がけの逃亡劇が、静かに動き始めた。




