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第66話 聖堂教会~シスター・リゼ

聖堂教会が運営する孤児院の朝は、泥のように濁ったスープと、石のように硬くカビの生えたパンで始まる。


「創世の女神様からの日々の糧を感謝していただきましょう。すべては創世の女神様が私たちに与えてくださった尊い愛なのです。清貧と真摯に心を清く保つ者こそが救われます」


幼いリゼは、シスターのその言葉を、一片の疑いもなく全身で受け止めていた。


周りの子供たちがひもじさに涙を流し、劣悪な環境に絶望する中でも、リゼだけは違っていた。カビの生えたパンを両手で大切に抱え、天使のように清らかな笑顔で祈りを捧げるのだ。


「感謝いたします、女神様。私にこのような素晴らしい糧を与えてくださり、本当にありがとうございます」


彼女にとって、苦難とは虐待ではなく祝福だった。環境の過酷さは、魂が磨かれている証だった。その極端な純粋さは、成長して聖堂教会の本部に配置されてからも、何一つ変わることはなかった。


本来であれば、その天性の可憐さと一片の曇りもない笑顔、そして狂信的とも言える清廉さを買われ、彼女は民衆へ直接教義を説く花形部署――「説法部」への配属が内定していたはずだった。


しかし、聖堂教会の内情は泥沼の権力闘争の渦中にあった。教皇派と枢機卿派による醜い派閥争い。説法部の利権とポストを自派閥の有力貴族の子弟で埋め尽くしたい枢機卿派にとって、孤児院出身で後ろ盾が一切なく、なおかつ「清貧」を地で行くリゼは、あまりにも邪魔な存在だったのだ。


教皇派の喧伝材料に使われることを嫌った枢機卿派の陰謀と政治的圧力により、リゼは直前で説法部から弾き出され、聖堂教会本部の地下深くに位置する「文書部」へと追い落とされた。そこは納戸とも見紛うような閑職であり、打ち捨てられた寄進の記録や古びた往復書簡が雑然と積み上げられている、日陰者の吹き溜まりだった。


「はあ……またこんな古い手紙の整理かよ。説法部に行ってりゃ、貴族様からの寄進でうまいもん食えたかもしれないのになあ」


同僚たちが不条理な人事への愚痴をこぼしながらだらだらと作業を進める中、リゼだけは目を輝かせて古い書類のホコリを払っていた。


「何を仰いますの! 人の権力争いなどという世俗の試練を経て、こうして神聖な教会の歴史や、尊い教理の足跡に直接触れられる場所に導かれたのですよ? 女神様が私の驕りを戒め、より深い学びを与えてくださったのです! これほど恵まれたお役目はありませんわ!」


「お前な……相変わらず頭湧いてんな。派閥の都合でゴミ箱に放り込まれたんだぞ……」


同僚があきれ顔で去っていくのも気にせず、リゼは勤勉に作業を続けた。政治的な嫌がらせや悪意すらも、彼女の異常なポジティブ変換フィルターを通せば、すべて「女神様の深き愛と試練」へと昇華されてしまうのだ。


そんな日々の中で、閑職だからこそ巡ってきた機密書類の整理や、文書部を行き交う神官たちの密談の端々から、彼女はひとつの巨大な「噂」を耳にすることになる。


――異世界より、勇者様方が降臨された。


(まあ……! 女神様が、この世界に大いなる奇跡を下さったのですね!)


胸を躍らせたリゼは、勇者たちが滞在しているという中庭や訓練場の近くを、掃除のついでと称して頻繁に訪れるようになった。そこで彼女が目にしたのは、彼女の信仰心を激しく揺さぶる光景だった。


「ハァッ……ハァッ……! くそっ、まだだ……! こんなところで倒れられるかよ……ッ!」


訓練場では、勇者であるシンが、血と汗と泥に塗れながら剣を振るっていた。教会の騎士たちから容赦ない叩き込みを受け、膝をつき、地面にはいつくばりながらも、彼は猛悪な執念で立ち上がる。地球に残してきた家族の元へ帰るため、悲壮なまでの焦燥感を胸に、泥を吐き出しながら剣を握り直す。


「シン! 動かないで、今治すから……っ!」



その傍らでは、聖女として担ぎ上げられたこずえが、シンの傷を癒やそうと回復魔法を唱え続けていた。激しい魔力酔いによる眩暈と吐き気に顔を蒼白にし、涙をボロホロとこぼしながらも、彼女はシンの痛みを和らげようと限界を超えて魔力を絞り出している。


(なんと……なんと尊いお姿なのでしょう……!)


リゼは胸の前で両手を組み、震えるほどの感動に包まれていた。シンとこずえが抱く悲壮な絶望や焦燥を、リゼは「女神様から与えられた過酷な試練に、全身全霊で立ち向かう聖なる営み」として受け取ったのだ。


そしてもう一人。リゼが働く文書部の最奥にある、厳重に鍵がかけられた「禁書庫」。そこでは賢者として召喚されたはじめが、教会の目を盗んで忍び込み、鋭い眼光で古い文献を貪るように調べていた。教会の裏に潜む怪しい気配と、召喚の過去ログ――「帰還者ゼロ」という冷酷な真実に近づきつつあるはじめの姿もまた、リゼの目には「教理の神髄を追及する探求者」と映っていた。


「勇者様、聖女様。お部屋の掃除と、お着替えをお持ちいたしました」


ある日の夕刻、訓練を終えてボロボロになったシンとこずえの客室へ、リゼが訪れた。こずえはベッドに倒れ込んだまま、消え入りそうな声で泣き言を漏らす。


「うう……辛いよ……。お風呂にも入れないし、水は泥臭いし、食べ物はカビ臭い……。こんなの、もう耐えられない……」


「まあ! 素晴らしいことです、聖女様!」


リゼはパッと表情を輝かせ、満面の笑みでこずえの手を握りしめた。


「試練に真摯に向かい合い努力する姿こそ、魂が美しく磨き上げられている証なのです! 私も幼い頃、孤児院で同じような試練を受けました。どうか安心してください、お辛いと感じるその瞬間こそ、女神様の深い愛が注がれているのですから!」


「え……? あ、なにこの人……こわい……」


引きつった笑みを浮かべて後ずさるこずえ。部屋の隅で冷ややかにその光景を見ていたはじめは、リゼの瞳の奥を観察し、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


(悪意も、嘘もない……。政治闘争で腐敗しきった上層部とは別に、この組織には教義を100%狂信している本物が混ざっている……!)


はじめが感じた恐怖に気づく様子もなく、リゼはふと、ここ数日で文書部に入ってきた「不吉な噂」を思い出し、痛ましそうに胸を痛めた。


「実は……文書部の古い記録を整理している際、恐ろしい噂を耳にしたのです。魔の森の中に、人族でありながら魔王に与し、魔族と手を取り合って暮らしている不敬な集落があるのだと」


「魔王に……与する集落?」


はじめが眉をひそめる。リゼは涙ぐまんばかりの純粋な瞳で頷いた。


「ええ……! 魔王は絶対の悪であるはずなのに、人族が魔族に与しているなど、教理に対する何よりの冒涜です。……勇者様方がこれほど命を賭して試練に耐えておられるのに、私がここで指を咥えて見ているわけにはいきません。」


 リゼはゆっくりと立ち上がり、自らの胸に手を当てた。


「魔王に与する集落を訪れ、創世の女神の教えを説いて人々を正しい道に導かなくてはならない。……私には、そのくらいしかできないのですから」


「は? ちょっと待てよ、お前一人で行く気か!?」


 驚くシンに対し、リゼは清々しい、どこまでも純粋な笑顔を向けた。


「はい! 聖典にもございますでしょう?

 ――『寸鉄を帯びず、清貧・真摯につとめよ、さすれば創世の女神は共にある』……と」


「いや、それって武器を持つなって意味で――」


「ええ! 武器どころか、金銭も、着替えも、食料すら持たず、身一つで赴いてこそ真の清貧! 無一物・無一文で正義を行えば、創世の女神様が必ずやお守りくださいます!」


「いや極端すぎるだろ!? 死ぬぞ!?」


 制止しようとするシンの声を背に、リゼは誇らしげに胸を張り、軽やかな足取りで部屋を辞した。


 翌朝。

 シスター・リゼは本当に、武器はおろか金貨一枚、パン一つ持たずに、着の身着のままの修道服姿で聖堂教会を飛び出した。

 目指すは、魔王に与する集落が存在するという、鬱蒼とした「魔の森」。


 残された勇者たちに課される過酷な洗脳と訓練の影で、一人の破天荒なシスターが、大森林へと向かって足を踏み出したのだった。


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