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第65話 聖堂教会~絶望

聖堂教会の客間に割り当てられた重々しい石造りの部屋で、斎藤はじめは静かに深呼吸を試み――そして即座に後悔して眉をひそめた。


部屋に漂うのは、長年蓄積されたであろう湿気と埃の匂い、そしてドアのすぐ外に控えるお世話係の見習い修道士から発せられる、鼻を突く過剰な皮脂臭と酸えた体臭だった。


「はじめ様っ、至高の『聖なる恵み』をお持ちしました。」


悪意など微塵もない、無邪気な笑みを浮かべた見習い修道士が、恭しく木製のトレイを机の上に置いた。


そこに並べられていたのは、表面に薄っすらと白カビが浮き出た黒パン、水分が完全に抜けて表面に塩の結晶が浮いた生の塩漬け肉、そして――フラスコのような容器に入った、茶色く濁り、どろりと「とろみ」を帯びた水だった。


(……雑菌が繁殖して粘度を増した水、か)


はじめは眼鏡の奥の目を冷ややかに光らせ、出された食事と水に一切手を触れることなく、内心で冷徹に分析を下した。彼らにとってこれは「神の試練を経た貴重な聖水と滋養」なのだろうが、現代日本の衛生環境で育った人間の消化器官に流し込めば、一発で重度の感染症を引き起こす毒物でしかない。


はじめは眼鏡の位置を直すと、引き返そうとした見習い修道士を静かな声で呼び止めた。


「待ちなさい。今後の我々の食事について、ひとつ申し送りがある」


「はいっ? 何でしょうか、はじめ様!」


「我々は異世界の体質と特別の律法を背負って召喚された。この地の尊い恵みをそのままの形て摂取すると、肉体が激しい拒絶反応を起こし、女神様から授かった『勇者としての力』が失われる恐れがある」


「な、なんですと……!? 神聖なる恵みが届かないと……!?」


純朴な見習い修道士がショックで目を丸くしたのを見計らい、はじめは論理的に畳みかけた。


「そうだ。そのため今後の食事は、パンではなく『中まで完全に火を通し、表面が焦げるほどよく焼き上げた肉』を中心に提供してもらいたい。また、飲み物は生水ではなく、一度十分に煮立ててアルコール分を完全に飛ばした酒を用意してほしい」


(加熱による徹底的な殺菌と、煮沸による雑菌の不活性化――この苛烈な不衛生環境下で食中毒や感染症を防ぎ、生存率を上げるための最低限の防壁だ)


「お酒を……煮詰めるのですか? それに、主食のパンではなく焼き肉を……?」


「そうだ。これは我々が神の試練に耐え、魔王を討つための『特別な浄化の調理法』だと思ってもらいたい。これ以外の調理法での提供は一切不要だ。準備は可能か?」


「は、はいっ! 勇者様方が神の使命を果たされるためでしたら、すぐに厨房へ申し伝えてまいります!」


悪気のない修道士が深く頭を下げて去っていくのを見送り、はじめは静かに息を吐いた。


(ひとまず、食中毒や感染症で早期に倒れるリスクだけは最小限に抑え込めたか……)


だが、さらに絶望的なのは、部屋の隅にぽつんと置かれた排泄環境だった。パーテーションや仕切りなど一切なく、丸見えの状態で置かれた素焼きの壺。そしてその傍らに添えられていたのは、使い回されて傷だらけになった一枚の「木のへら」であった。


(紙がないのは予想していたが……使い回しの木へらで拭けと? 個室すらない部屋で?)


はじめが頭痛にこめかみを押さえたその時、ドアが激しくノックされ、鍵がかかっていないのを確かめると、二つの影が雪崩のように部屋へと飛び込んできた。


「はじめ! 鍵! 早く鍵を閉めてくれっ……!」


半狂乱の様相で飛び込んできたのは、勇者として持ち上げられている伊藤シンだった。そのすぐ後ろでは、聖女として祀り上げられた佐野こずえが、涙で目を真っ赤にして震えている。


はじめが静かにドアの鍵を施錠すると、二人は糸が切れたように床へ崩れ落ちた。


「無理だ……! もう無理だろこんなのっ!!」


シンは頭を抱え、掠れた声で叫んだ。


「水が濁ってて『とろみ』がついてんだぞ!? 洗顔すらさせてもらえない! 髪も身体もギトギトなのに『水に触れるのは不浄』とか言われて風呂も入れない! で、用を足そうとしたら『さあこちらへ』って使い回しの木のへらを出されたんだぞ!? 冗談だろ!? なんなんだよあの木へら!!」


「私なんて……私なんてぇ……ッ!」


こずえは膝に顔をうずめ、しゃくりあげながら泣き叫んだ。


「お世話係の男の子が……『こずえ様っ、僕がお世話しますね!』って笑顔で寄ってくるんだけど、口臭と体臭がすごくて近くに来られるだけで息ができないのっ! トイレだって、部屋の角に置いた壺で『ここでどうぞ!』って無邪気に言われて……! 仕切りもないところで、人の目があるところで用を足せなんて……そんな屈辱、耐えられないよぉっ!!」


現代日本の清潔なインフラとプライバシーが保障された世界から、突如として中世以下の苛烈な不衛生環境へと叩き落された二人の精神は、すでに崩壊寸前だった。


はじめは床に伏せる二人を見下ろし、淡々と残酷な現実を突きつけた。


「諦めろ。交渉による環境改善は100%不可能だ」


「な……なんでだよはじめ! 俺たち勇者なんだろ!? ちょっとくらい頼めば個室のトイレとか綺麗な水くらい……!」


「彼らにとって、この不衛生と非洗練こそが『真の聖性』であり『神への誠実さ』なんだよ」


はじめは静かに眼鏡の位置を直した。


「彼らは悪意でこんな扱いをしているんじゃない。自分たちが信じる『至高の聖なるもてなし』を、親切心100%で俺たちに与えている。お世話係たちの体臭も、髪のギトつきも、彼らにとっては『神の試練に耐えている勲章』だ。そこに『清潔にしろ』『お風呂に入らせろ』と要求することは、彼らの宗教観と存在理由を根本から否定することになる。教義の壁がある以上、どれほど訴えても『迷妄に囚われた哀れな勇者様』として宥められるのがオチだ」


シンとこずえが絶望に顔を蒼白にさせる中、はじめは落ち着いた口調で言葉を続けた。


「……だが、なんとか食事の改善だけは通しておいた」


「え……?」


ふたりがポカンと顔を上げた。


「こちらの体質と神聖な力への影響を理由にな。『完全に火を通した焼き肉』と『沸騰させてアルコール分を飛ばした酒』以外は受け付けないという名目で厨房に申し伝えてある。これで少なくとも、食中毒や感染症で内臓をやられる危険は回避できるはずだ」


その言葉を聞いた瞬間、シンとこずえの顔に劇的な安堵が広がった。


「はじめ……お前、そんなことまで根回ししてくれてたのか……っ!」


シンが涙ぐみながらはじめの肩を掴んだ。


「ありがとう……本当にありがとうはじめ! 俺、あのカビ生えたパンと濁った水を見た瞬間、マジで死を覚悟したんだよ……っ!」


「私も……っ、お水やお肉だけでも安全なものが食べられるなら、なんとか耐えられるかもしれない……! はじめくん、本当にありがとう……!」


こずえも鼻をすすりながら、救われたような表情ではじめに深く感謝した。


「礼には及ばない。生き残るための最低限の足がかりを作っただけだ」


はじめは淡々と返しつつも、視線を落して思考を巡らせた。


ふと、二人の脳裏に、召喚直後に「役立たず」としてあの不気味な大森林にそのまま置き去りにされた乗客たちの姿がよぎった。最初は「あいつらは大丈夫だろうか」「助けに行かなきゃ」という同情や罪悪感があった。


だが――今の二人には、他人の心配をする余裕など微塵も残っていなかった。


人間の尊厳を根底から踏みにじる排泄環境、口にするだけで命の危険を感じる食中毒確定の食料と濁り水。自分たちの「生命」と「尊厳」が今刻一刻と脅かされている現実の前に、他人への同情心など一瞬で吹き飛んでしまったのだ。


「……はじめ」


シンが血の走った目で、すがるように賢者の友人を見上げた。


「俺、もう魔王とか世界平和とかどうでもいい。こんな場所で『勇者』なんてやってられるかよ」


「私も……」


こずえも涙を拭い、強い決意を秘めた目で頷いた。


「こんなところで病気になって死ぬのも、屈辱で頭がおかしくなるのも嫌……! まともなお風呂があって、綺麗なお水があって、ちゃんと紙があって、個室で用が足せる場所に行きたい……!」


はじめは小さく満足そうに頷いた。


「言いたいことはまとまったな。俺の結論も同じだ。このまま教会の言う通りに訓練を受け、魔王討伐とやらに繰り出したところで、俺たちは魔王と戦う前に大腸菌か精神崩壊で確実に全滅する」


はじめは窓の外、厳格で重苦しい教会の伽藍を見つめた。


「俺たちの第一目標は――まともな風呂、上下水道、トイレットペーパー、個室トイレ、そしてまともな食事を備えた環境を探し出し、この城から一刻も早く脱出することだ」


「……応!」


異世界に召喚された三人の「絆」が、世界の命運でも正義でもなく、「人間らしい衛生環境の確保」という切実極まりない本能によって、固く一つに束ねられたのだった。





数日後、重厚な扉が開かれ、三人は大聖堂の最奥にある教皇の謁見の間へと引き出された。


金の装飾が絢爛に施された高座には、豪奢な法衣を纏った教皇ゼルスが深々と腰掛け、その傍らには冷ややかな笑みを浮かべた最高幹部の枢機卿が控えていた。


「よくぞ参られた、異世界の勇者伊藤シン、聖女佐野こずえ、そして賢者斎藤はじめよ」


教皇の重々しい声が、高い天井の聖堂に響き渡る。


「見知らぬ異郷での生活に、戸惑いも大きかろう。だが安心するがよい。当教会が誇る最高の待遇と支援、身の回りの世話をもって汝らの心身を全力で支えようぞ」


(……あの激臭と濁った水と木へらが『最高の待遇』かよ……)


はじめは伏せた目の奥で冷ややかに毒づき、隣のこずえは「身の回りの世話」という単語を聞いただけで青ざめて身を縮めた。


しかし、教皇と枢機卿の狙いは別にあった。彼らは三人の引きつった表情を「異世界での孤立感と不安」によるものと都合よく解釈し、畳みかけるように甘い罠――絶対的な支配のための洗脳を仕掛けにかかった。


枢機卿が一歩前へ出て、恭しく胸に手を当てながら口を開く。


「勇者様方よ、汝らが最も望んでいるのは、故郷である『日本』という国への帰還……違いますかな?」


その言葉が出た瞬間、シンの身体が跳ねるように反応した。


「……! 帰れるのか……!? 俺たち、地球に帰れるのかよ!?」


「シン、待て――」


はじめの制止も耳に入らない。シンは一歩前へ踏み出し、すがるような目で教皇たちを見上げた。過酷で不衛生な環境、終わりの見えない恐怖、人としての尊厳を脅かされる日々。そのすべてから解放される道筋があるのなら、どんな条件でも飛びつきたいという極限状態の心理が、シンの冷静さを奪っていた。


教皇ゼルスは満足げに頷き、慈愛に満ちた(ように見せかけた)笑みを浮かべた。


「無論である。我が創世の女神様は絶対の慈悲をお持ちである。……ただし、そのためには一つだけ、この世界を縛る暗雲を払わねばならん」


「暗雲……?」


「左様。南方に君臨する絶対の悪――『魔王』の撃滅である」


枢機卿が芝居がかった手振りで影を落しながら言葉を継ぐ。


「魔王が存在する限り、世界の次元の歪みは収まらず、女神様とて異次元への扉を開くことは叶いませぬ。魔王を倒し、世界に真の平和をもたらしたその時……汝らの足元に故郷へと繋がる光の道が示されるでありましょう」


「……魔王を倒せば……倒しさえすれば、本当に全員で日本に帰れるんだな!?」


シンの声には、悲壮なまでの食いつきと縋(すが)りつきが滲んでいた。


「教会の名において約束しよう。これこそが、創世の女神様より授かりし唯一の帰還条件なり」


教皇が重々しく宣誓すると、シンは握りしめた拳を震わせ、力強く頷いた。


「やってやる……! 俺が魔王を倒す! 強くならなきゃ……強くなって、絶対にみんなで日本に帰るんだ……!!」


不衛生な拷問のような日常から抜け出すための唯一の希望として、シンは教会の提示した「嘘」を、藁にもすがる思いで全身で飲み込んでしまった。


その傍らで、はじめは眼鏡の奥で冷徹に教皇と枢機卿の表情を観察していた。


(『帰還条件』の提示、『唯一の道』としての動機付け……典型的なマインドコントロールの手法だな。だが、図書室の禁書庫で調べた古い文献の記述と照らし合わせても、過去の帰還記録は『ゼロ』だったはずだ)


はじめは口元を引き締め、狂喜に目を輝かせるシンと、涙ぐむこずえの横顔を静かに見つめた。


(シンが完全に食いついた以上、ここで下手に反論すれば教会の警戒を買うだけだ。今はシンのこの熱量を表向きの『盾』にして、裏で脱出の計画を速やかに進めるしかない……)


「……承知いたしました。教皇殿の御心、深く感謝いたします」


はじめは慇懃無礼に深く頭を下げ、冷ややかな決意を胸の奥底で燃え上がらせたのだった。



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