第64話 聖堂教会~常識の違い
大聖堂での華々しい披露式典が終わり、召喚された三人の少年少女——勇者の伊藤シン、賢者の斎藤はじめ、聖女の佐野こずえの三人は、聖堂教会の奥深くに位置するゲスト用の個室へと案内されていた。
豪奢な調度品、重厚な絨毯、天蓋付きの大きなベッド。一見すると至れり尽くせりの最高級の待遇であったが、その裏では教会幹部たちのドス黒い意図が渦巻いていた。
「異世界の若者など、所詮は経験の浅い子供に過ぎん。異世界召喚の全能感に酔いしれている今、理想的な配下をあてがえば、容易に手籠めにできよう」
最高幹部である枢機卿は、密かに深々と笑みを浮かべていた。
教会の目的は、彼らを英雄として持ち上げつつ、精神的・感情的に教会へ依存させ、完全な傀儡とすることである。そのために用意されたのが、極秘裏に選抜された三人の「特別なお世話係」であった。
まず、勇者・伊藤シンの部屋。
「勇者様、聖女様、そして賢者様。見知らぬ異郷でのご生活に不便がございませんよう、当教会が誇る厳選された特別なお手伝いをお付けいたします」
枢機卿が提示したのは、守ってあげたくなるような可憐で控えめな十四歳ほどの美少女であった。下級貴族の出身で、幼少期から教会に捧げられた見習い修道女だ。
個室のソファーの端で上目遣いにシンを見つめ、頬をかすかに赤らめながら静かに頭を下げた。
「お初にお目にかかります、シン様……。至らぬ身ですが、今夜からシン様のお心をお支えできるよう、一生懸命お仕えいたします……」
その可憐な仕草と、すり寄ってくるような言葉に、シンはゴクリと生唾を呑み込んだ。
(ま、マジかよ……! 異世界召喚って、マジでこういう展開あるのかよ……!? これぞ勇者特権ってやつ!?)
高校生男子としての本能と、勇者としての万能感が一気に爆発する。シンは鼻の下を伸ばし、格好をつけながら鼻高々に微笑んだ。
「あ、ああ! 任せてくれ! 君のことは俺が絶対に守るから。……その、固くならずに、もっと近くに来てくれていいんだぜ?」
「あぁ、シン様……なんてお優しい……」
うっとりとした表情を浮かべ、しなやかな体つきでシンの胸元へと飛び込んでくる——。
(うひょー! 異世界最高——)
——ガツン。
次の瞬間、シンの脳内に不可解な衝撃が走った。
(……え?)
鼻孔を突き破り、脳髄を直接揺さぶったのは、乙女の甘い体臭でも、可憐な香水の花の香りでもなかった。
それは、聖水以外の水を当てず、熟成に熟成を重ねた「皮脂」「酸えた汗」「蓄積された古垢」、そして洗面すらしていない口内から漏れ出る「密閉空間の熟成臭」が極限まで凝縮された、まるで「夏場の生ゴミ処理場とドブ川を煮詰めて熟成させたような超ド級の激臭」であった。
「ぐおっっっ……!?!?」
シンの脳裏で、ロマンチックな異世界ファンタジーの幻想が音を立てて粉々に砕け散る。
「し、シン様……? どうなさったのですか……?」
不審そうに顔を覗き込んでくる。顔立ち自体は驚くほどの美少女なのに、口を開くたびに喉の奥から放たれる高濃度の悪臭兵器が、シンの生命力をゴリゴリと削っていく。
「く、臭い……! なにこれ、超くさいんだけど!? 君、最後にお風呂入ったのいつ!?!?」
「おふろ……? 滅相もございません! 聖水以外の不浄な水で体に触れるなど、恐ろしい教義違反にございます! 私は生まれてこの方、聖水を賜った時以外は全身を清めたことなど……」
「洗ってないのかよ!! だからこんなに臭いのかよ!! 頼むから離れてくれえぇぇっ!!」
涙目で鼻を固く押さえ、壁際まで全力で後退する勇者シン。異世界召喚初夜の甘い期待は、教会の狂気的な衛生観念によって完全に打ち砕かれたのだった。
一方、賢者・斎藤はじめの部屋。
はじめの前に宛がわれたのは、おとなしく、控えめで礼儀正しい少し年下の少女であった。
教会側としては、警戒心の強い智謀型を刺激しないよう、害がなく従順な性格の少女を配し、安心感を与えて分析・思考を教会側に誘導する狙いがあった。
しかし、はじめは部屋に入った瞬間から、異様な異臭を察知していた。
少女がしなだれかかってこようと一歩踏み出した瞬間、はじめはすっと片手を挙げて制した。
「あ、それ以上近づかないで。……とりあえず、三メートル以上のディスタンスを保とうか」
「えっ……? は、ハジメ様……? 私がお気に召しませんでしたか……?」
少女は傷ついたように瞳を潤ませるが、はじめの観察眼は冷ややかだった。
(……なるほど。無害で大人しく、こちらの庇護欲を煽るような人材。手慣れすぎているな。それに……この臭い。服の繊維にこびりついた過剰な油脂分と、古くなった角質が腐敗した臭いだ。なるほど、この教会の『聖水崇崇拝』とやらは、日常的な入浴や洗浄を全否定する狂信的な衛生観念の上に成り立っているわけか)
はじめは表面上穏やかに微笑みながらも、心の中で教会の構造的な狂気を冷静に分析していた。
「君個人を責めるつもりはないよ。でも、僕の鼻は過敏なんだ。申し訳ないけれど、その場所から動かないで会話をしてくれるかな」
絶対的な距離を保たれ、少女はわけも分からず呆然と立ち尽くすしかなかった。
そして、聖女・佐野こずえの部屋。
こずえに配属されたのは、十三〜十四歳ほどの、愛くるしい笑顔を浮かべた見習い聖職者の少年であった。異世界で不安を抱える少女に「弟」のような可愛らしさを提示し、心を許させようという教会の策略である。
「こずえ様! お召し替えやお食事の手配など、なんでもお申し付けください!」
少年は健気に深々と頭を下げた。見た目だけならアイドルのような可愛らしさである。不衛生で物騒な雰囲気に抵抗感を持っていたこずえも、最初は「可愛い男の子だな」と毒気を抜かれそうになった。
「あ、うん。ありがとう……」
そう言って笑顔を返そうとした瞬間、少年が嬉しそうにダッシュで歩み寄ってきた。
「はい! では、まずはお召し物の解体を——」
「……ッ!?」
一定の距離を越えた瞬間、少年の身体から漂う「強烈な獣臭」と「腐敗した生ゴミの臭い」がこずえの鼻腔をダイレクトに襲った。
見た目の愛くるしさと、そこから発せられる激臭のギャップが凄まじすぎる。
「無理無理無理!! 近づかないでーー!!」
「えっ!? こ、こずえ様!?」
「きゃああああっ!! 臭い! 汚い! ドブの匂いがする!! 入ってこないでえええっ!!」
こずえは悲鳴を上げながら部屋にあった枕やクッションを片っ端から投げつけ、パニック状態のまま少年を部屋の外へと叩き出し、鍵をガチャリとロックしたのだった。
それからしばらくして。
聖堂教会の豪華な執務室では、枢機卿をはじめとする幹部たちが、信じられない報告を受けて頭を抱えていた。
絨毯の上に膝をつき、しくしくと泣いているのは、先ほど派遣された三人の側付きたちである。
「……なに? 勇者様方に拒絶された、だと?」
枢機卿は信じられないといった様子で眉をひそめた。
召喚されたばかりの若者など、可憐な少女や愛くるしい少年をあてがえば容易に手籠めにできるはずだった。それなのに、報告に来た側付きたちは揃って顔を蒼白にし、困惑しきっている。
「は、はい……。シン様にお給仕しようと近づきましたところ、突然『くっっっさ!! 入浴しろ!!』と叫ばれ、部屋の隅へ追い払われてしまい……」
「こずえ様からも『無理無理、ドブの匂いがするから近寄らないで!』と悲鳴を上げられ、物を投げつけられました……」
「ドブ……? 不潔……?」
枢機卿はまったく意味が分からないといった様子で首をかしげた。
側付きとして選ばれた者たちは、幼少期から厳格な教義のもと、一切の不浄な水(風呂)を断ち、聖水による清めだけを受けて育った「至高の聖職者」たちである。垢と皮脂が層となり、聖なる衣と一体化したその姿こそが、この聖堂教会における純潔と敬虔さの象徴なのだ。
「バカな……。水で体を洗うなどという野蛮で不浄な行為を怠り、神の聖水のみを纏う者たちに対し、不潔とはどういう意味だ?」
傍らに控えていた司教も、困惑したように白髭を弄くる。
「枢機卿殿……異界の地では、もしや『不浄の水で体を濡らすこと』が嗜好とされているのではございませんか?」
「なんと不貞な……! いや、待てよ。賢者と呼ばれた男の反応はどうだったのだ?」
賢者の側付きだった少女が小刻みに震えながら口を開いた。
「ハジメ様は……お優しく微笑みながら『君たちの宗教観は理解したから、とりあえず三メートル以上離れて会話してくれ』と、冷たい目で……」
「ぬうう……っ」
枢機卿は頭を抱えた。
色香と愛嬌で懐柔するつもりが、なぜか「清潔さ」という理解不能な壁で突っぱねられたのだ。しかも相手は異世界の客人であり、現段階で無用な圧力をかけるわけにもいかない。
「異世界の勇者たちとは、そこまで清廉潔白で、肉の欲に流されぬ崇高な精神の持ち主なのか……? いや、それとも我が方の『聖なる清浄』を理解できぬほど、向こうの文化が狂っているのか……?」
「枢機卿殿、いかがいたしますか? このままでは勇者様方との信頼関係にヒビが……」
「うむむ……。異世界の客人らの好みに合わせねばならんのか……。だが、聖水を拒み、不浄の水で体を洗わせるなど……そのような教義違反、いかに勇者の望みとて許されるはずが……」
噛み合うことのない文化と衛生観念の圧倒的なギャップに、枢機卿たちは深刻な顔で途方に暮れるのだった。




