第5話 身体が軽い日~生活習慣病
医療都市――第18階層の待合ホールは、どこか不思議な緊張感と静けさに包まれていた。
ガラス張りの天井から降り注ぐ柔らかい光の中、地球から巻き込まれた大人たちが、所在なさげに身を寄せ合っている。
「本当に……痛くないのよね?」
膝をさすりながら呟いたのは、高血圧と変形性膝関節症を抱えていた五十代の女性だ。
地球にいた頃は、階段を上り下りするたびに眉をひそめ、湿布と鎮痛剤が手放せない毎日を送っていた。
「大丈夫ですよ。私の腰痛なんて、ものの数分で跡形もなくなりましたから」
隣で苦笑いしたのは、四十代の男性サラリーマンだ。
長年のデスクワークでヘルニアを患い、慢性的な激痛と付き合ってきた彼だったが、今はすっきりと背筋を伸ばしている。
「腰をかがめずに靴ひもを結べたなんて、何年ぶりだろうな……」
男性は自分の腰を数回叩き、信じられないといった様子で首を振った。
一方、別の診察室では、糖尿病と高血圧を指摘された中年男性が、ホログラムモニターに表示された自分の体内数値を見つめていた。
「血糖値、血圧ともに完全な正常値へ補正完了しました」
担当した医療AIが、淡々と告げる。
「膵臓のβ細胞の修復および血管内皮の再生を行いましたので、即座に食事制限や投薬を行う必要はありません」
「は、はあ……」
男性はぽかんと口を開けていた。
「じゃあ……毎朝の採血も、あの苦い薬も、大好きなラーメンを我慢するのも……いらないんですか?」
「生活習慣を著しく乱せば再発の可能性は生じますが、現時点での機能異常はすべて取り除かれました」
「……まじかよ」
男性は両手で顔を覆った。
健康診断のたびに医者から「このままだと透析になりますよ」「命に関わります」と脅され、大好きな食べ物を我慢し、将来への不安に怯えていた日々。それが、この異世界の医療技術によって、あっけなく過去のものとなってしまったのだ。
「うそみたいだ……生き返ったみたいだ……」
ぽろぽろと涙を流す男性の肩を、医療ゴーレムが優しく叩く。
治療を終えた人々が、第1階層の広場へと戻ってくる。
そこには、痛みのない足で力強く大地を踏みしめる喜びや、身体の重荷から解放された晴れやかな笑顔があふれていた。
「お父さん、背筋が伸びてる!」
「ああ、痛みがどこにもないんだ。こんなに体が軽いのは三十年ぶりだよ」
不条理な召喚に巻き込まれ、見知らぬ異世界へ放り出された恐怖や不満。
それらが「長年の身体の苦痛から解放された」という圧倒的な現実によって、少しずつ和らいでいく。
俺とタマモは、そんな彼らの様子を少し離れた場所から眺めていた。
「マスターのおかげで、皆様の表情が明るくなりましたね」
「俺は『治療してやってくれ』と言っただけだ。治したのはお前たちの医療設備だろ」
俺が肩をすくめると、タマモは嬉しそうに九本の尻尾をゆらりと揺らした。
「ですが……」
俺は広場の一角へ視線を向けた。
そこには、他の人々の歓声から少し離れた場所で、静かに身を寄せ合う家族や高齢者たちの姿があった。
車椅子から立ち上がった志保さんは元気に歩く練習をしているが、その周囲にはまだ、重い空気を纏った人々が残っている。
早期・進行性の「癌」と診断された3名。
そして、「脳梗塞の後遺症」を抱える高齢女性とその家族。
軽度の不調が消え去った喜びの陰で、命や人生そのものに関わる重病を抱えてきた者たちとその家族には、まだ深い躊躇と戸惑いが残っていた。
「本当に治るのか」「期待して裏切られたらどうしよう」「長年寄り添ってきたこの病気とどう向き合えばいいのか」――。
「……本番は、これからだな」
「はい。重篤な症状を抱える方々とご家族への説明と治療の準備は、すでに整っております」
タマモが静かに頷く。




