第55話 学校~ハーフエルフの兄妹
エルフ国で交易都市の商人に保護され、この地にやってきたハーフエルフの兄妹、トゥーンとシェニー。
二人が通うことになったのは、年齢や身体の成長段階に合わせた小学生クラスだった。他の留学生と同じく生活の拠点は学生寮であり、小遣いなどの生活費も表向きは保護者である商人が支払っていることになっている。
「ねえ、お兄ちゃん。薬学や医学の本って、どこにあるのかな?」
「まずは図書館に行ってみよう。治癒魔法の手がかりもあるかもしれない」
一般教養だけでなく、自分たちの求める知識――薬学や医学、そして本当の治癒魔法を学びたいと考えた二人は、強い期待を胸に学校の図書館へと足を踏み入れた。
しかし、広々とした静寂な空間に踏み入った二人は、思わず足を止めて目を丸くした。
ずらりと立ち並ぶ書架。しかし、そこに並んでいるはずの紙の本が一冊たりとも見当たらなかったのだ。文字通り「蔵書が全くない」状態だった。
「……あの、すみません。本はどこにあるんですか?」
困惑したトゥーンが受付の司書に声をかけると、司書は手元から薄く平らな、黒く滑らかな板を取り出し、穏やかに微笑んだ。
「うちの図書館では紙の本は扱いませんよ。学生証を提示してください。『タブレット』をお貸しします」
促されるまま恐る恐る学生証をかざすと、薄い板の画面がふわりと青い光を放ち、見たこともない滑らかな文字が浮かび上がった。
『認証完了:小学生クラス トゥーン様』
『ダンジョンワールド・アカデミックネットワークへ接続しました』
「な、なんだこれ……!? 文字が浮かび上がった……!?」
「お兄ちゃん、見て! ここに『検索』って書いてあるよ!」
紙の重みも匂いもない、ひんやりとした板を触る手が震える。画面上の「薬学」「治癒魔法」という項目に指先で触れた瞬間、二人の目の前に想像を遥かに超えた光景が広がった。
『該当文献:4,820,000件/ダンジョンワールドアーカイブより抽出』
「よ、四百八十万……!?」
トゥーンは息を呑んだ。
外の世界では、戦争や火災、あるいは時の権力者による検閲や焚書によって、貴重な古典や医学書は簡単に失われてしまう。エルフ国でさえ、大古の文献の多くは戦火の中で失われ、残ったわずかな知識を長老や上位の薬師たちが独占していた。
だが、このダンジョンワールドのネットワークには――マスター不在の十年間(内部時間にして一万年)の間、蓄積された叡智が、戦火の傷ひとつなく、何一つ失われることなく完璧な状態で保存されていたのだ。
「お兄ちゃん……これ、書いた人の名前に『第92階層管理者』って書いてあるよ……!」
シェニーが指さした画面には、緻密な細胞構造の図譜と、完璧に体系化された医療理論が並んでいた。執筆者のプロフィール欄に表示されているのは、流麗で知性あふれるエルフの姿であった。
「だいキュウジュウニ、カイソウ……? カイソウカンリシャ……?」
聞き慣れない言葉に、トゥーンは首をかしげた。
ダンジョンやゲートが部外秘であるため、二人にとって、「階層」や「ダンジョンワールドが地下100階層まである」という膨大な世界の構造など知る由もない。
(『階層』っていうのは……きっと、エルフ国でいう『薬師ギルド』とか『最高医療院』みたいな、ものすごく偉い学術機関の階級名なんだろうな。『第92』ってことは、92番目くらいに格式が高い最高峰の役職名なのかも……!)
勝手に納得したトゥーンは、感銘を受けたように大きく頷いた。
「きっと、この街の奥深くにある最高級の研究機関の偉い先生なんだよ。エルフの先生が書いた本なんだ……!」
そんな無邪気な勘違いをしながら画面を読み進めていくにつれ、二人の表情は驚愕からやがて激しい呆然へと変わっていった。
二人が「エルフ国の絶対の常識」として叩き込まれてきた事柄が、科学的な根拠と一万年のデータによって、次々とバッサリと覆されていったからだ。
『不治の傷・邪悪な呪いとされた症例に関する解析』
画面には、かつてシェニーを苦しめた症状が明確に記録されていた。
『旧来の治癒魔法において「邪気の侵入」あるいは「悪霊の呪い」と呼称されていた症状の9割以上は、金属付着物や土壌に含まれる嫌気性細菌(破傷風菌等)による重度の感染症、およびそれに伴う神経毒素の作用である。魔法的呪詛との関連性は認められない』
「呪いじゃ……なかった……」
シェニーの目から涙がポロポロとこぼれ落ちた。里のエルフたちは「ハーフエルフの不浄な血が呪いを引き寄せた」と嘲笑し、助けようともしなかった。だが、それは単なる『細菌感染』という科学的な現象に過ぎなかったのだ。
さらに画面をスクロールすると、エルフ国で「至高」とされていた治癒魔法の落とし穴についても容赦のない記述が続いていた。
『誤った治癒魔法の行使による病状悪化について』
『病原菌や毒素が体内に存在する状態で、細胞活性化のみを目的とする回復魔法(ヒール等)を照射した場合、病原体の増殖スピードを爆発的に加速させる。これは医療行為ではなく「病勢の悪化助長」と同義である。エルフ国における治癒成功率の低さは、この基礎的な生物学知識の欠如に起因する』
「僕たちが習ったこと……里の先生たちが威張っていたことって、全部……間違いだったんだ……」
トゥーンは身震いした。
エルフ国の薬師たちは「自分たちの治癒魔法で治らない病などない」と誇っていたが、実際は「原因も知らずに魔法をかけ、患者を死に追いやっていた」だけだったのだ。自分たちが「絶対的な高嶺の花」だと思っていたエルフ国の医療は、一万年更新され続けたこのネットワークの足元にも及ばない、浅薄で危険な誤信に過ぎなかった。
タブレットの画面には、ハーフエルフに対する差別や偏見の言葉など一切存在しなかった。そこにあるのは、あらゆる生命を等しく観察し、苦痛から救うために積み上げられた、圧倒的な真理と慈愛のデータだけだった。
「お兄ちゃん……私、勉強したい! 本物の知識をいっぱい覚えて……里の人たちが誰も治せなかった病気を、全部治せるようになりたい!」
シェニーが涙を拭い、力強くタブレットを握りしめた。
「ああ……頑張ろう、シェニー。この『第92階層管理者』の先生が遺してくれた本の中に、僕たちが求めていた本物の答えが全部ある!」
紙の本が一冊もない無人の書架に囲まれながら、二人は小さな光る板の中に広がる「一万年の真実の海」へと、夢中で飛び込んでいくのだった。




