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第51話 閑話 清潔さは力なり!海洋都市を飲み込む衛生革命

大森林の爽やかな風を背に、見慣れた海洋都市の巨大な石造りの正門が眼前に迫っていた。

馬車に揺られるマークスたちの胸中にあったのは、溢れんばかりの誇りと高揚感だった。


「フフフ、大手商会どもめ。我々を『泥臭い弱小商会』と見下していたツケを払わせてやるのだ。文字が読めて清潔な派遣社員たちが港で完璧に立ち回れば、効率は従来の三倍! ゴルドやバロアの鼻を明かしてやりますぞ!」


「我が故郷へ戻ったぞ! 見よ、あの賑わいを!」


マークスは上機嫌で絹のハンカチを振り、窓枠から身を乗り出した。

交易都市での数週間は、彼らの五感を根本から塗り替えていた。毎日分子レベルで浄化された空気を吸い、柑橘の香る温水シャワーで肌を磨き、洗剤で洗われた清潔な衣服に身を包む。それまで「当たり前」だった世界の澱みはすべて拭い去られ、彼らの鼻は生まれたての赤子のごとく研ぎ澄まされていた。


「港の威勢の良い潮風を胸いっぱいに吸い込み、故郷に帰った実感を噛み締めようではないか! さあ、皆様ご一緒に――吸って!」


マークスの合図に合わせ、同乗していた中小商会連合の商人たちが、一斉に胸を膨らませて深呼吸をした。

――それが、彼らの平穏な人生の終わりであった。


「ぶふぉっっっ!?!?!?」


息を吸い込んだ瞬間、マークスの喉の奥で異物が弾けた。

空気ではない。それは重く、粘つき、鼻腔の粘膜を一瞬で焼き尽くすような\*\*「目に見えない濁流の塊」\*\*だった。


「ごふっ、げほっ……がはっ……!? 息、息がっ……!? 吸えないっ! 空気が……腐っているぅぅっ!?」

「ひいぃぃっ! 目が! 目が激痛で開かないっ! 毒だ……誰かが空気に毒を混ぜたぞ!!」


隣の商人が両目を押さえて馬車の床へ転がり落ち、猛烈な痙攣を起こした。

後ろに続いていた馬車からも、絶叫と吐瀉音、そして自らの喉を掻きむしる悶絶の悲鳴が一斉に上がった。


路上に放置されてドロドロに発酵した排泄物と生ゴミのドブ臭、生臭さを増した魚の腐敗臭、そして長年身体を洗っていない市民たちの濃厚な体臭。それらが黄金比で混ざり合った「悪臭の三重奏」が、容赦なく彼らの鼻脳を粉砕したのだ。


「うぇっ……おえぇぇぇっ!!」


耐えきれなくなったマークスは馬車から転げ落ち、石畳の上に膝をついて激しく胃液を吐き戻した。

「正気じゃない……豚小屋の底に生魚を詰めて一ヶ月放置したような匂いだ!! 助けてくれ、息が……!」


悶絶し、涙と鼻水を流しながら地面をのたうち回っていたマークスは、ふと視界の端にとんでもない光景をとらえた。


後続の荷馬車から荷物を下ろすため、しとやかに降り立ってきた交易都市の派遣労働者たち――ハローワークで優秀な成績を収めた狼耳の獣人の少女をはじめとする若者たちが、あくび混じりに何事もない様子で作業を進めていたのだ。


「……な……に……!?」


マークスは目を疑った。

自分たちが泡を吹いて倒れているこの地獄の激臭の中で、派遣労働者たちは顔色一つ変えず、ごく普通に呼吸をしている。よく見ると、彼女たちの口元には、黒く引き締まった特殊な布製の器具がぴったりと装着されていた。


管理奉行所から事前に全員へ支給されていた『活性炭入り高性能消臭・防塵立体マスク』である。


「た、派遣社員の皆様……っ!」


マークスは血走った目で地面を這いずり、狼耳の少女の足元にすがみついた。


「な、なぜ……なぜお前たちは平気なんだ……!? その口元についている不気味な黒いお面は一体何なんだぁぁっ!?」


狼耳の少女は黒マスクの縁を指でちょんと触り、活性炭フィルターを通した完璧に無臭で清浄な声で、申し訳なさそうに言った。


「これですか? これは出発前、タマモ様とアキラ様から『交易都市の外の世界は、耐性のない者にとっては毒気地帯も同然だから、作業効率を落とさないために必ず着用するように』と支給された『活性炭入り消臭マスク』です」


「「「タ、タマモ様ぁぁぁぁぁっっっ!!!???」」」


地面で悶絶していた商人たちの血の叫びが港町に響き渡った。

タマモは、五感がリセットされたマークスたちが故郷でどんな惨劇に見舞われるかを完全に予見し、自分たちの派遣社員にだけ完璧な防護装備を与えていたのだ。


「ずるい! ずるいぞ派遣社員ぁぁっ! 私にもそれを貸せ! 金ならいくらでも払う! その黒いお面を売ってくれぇぇっ!」

「申し訳ございません。備品ですので譲渡は厳禁となっております」


冷たくも規律正しい拒絶にマークスが絶望したその時、門前でただならぬ騒ぎが起きたと察知した街の警備兵たちが、長槍をガチャガチャと鳴らして駆け寄ってきた。


「な、なんだなんだ!? 敵襲か!? 商人どもが泡を吹いて倒れているぞ!」


隊長らしき男が親切心からマークスを抱き起こそうと、汗ばんだ顔を顔面数センチの距離まで近づけた。その瞬間――男の甲冑の隙間から、熟成された強烈な脇の体臭が爆風となってマークスの顔面を直撃した。


「ひぎゃあぁぁぁぁぁっっっ!!!???」


マークスは白目を剥き、まるで怪異に襲われたかのように悲鳴を上げて地面を死に物狂いで這いずり回った。


「寄るな! 寄るんじゃない悪魔め! 鼻が、私の鼻が引きちぎれるぅぅっ!」

「何をおかしなことを言ってるんですマークス様。わしは一ヶ月前に聖なる行水を済ませたばかりで、至極清廉ですよ?」


さらにその瞬間、頭上の二階の窓が勢いよく開いたかと思うと、茶色く濁った汚物が豪快にマークスたちの目の前へ投げ捨てられ、異臭に狂喜乱舞したハエの巨大な群れがブワッと舞い上がった。


「「「ひあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!???」」」


「上から汚物が降ってきたぁぁっ!? 逃げろ! 商館へ駆け込むんだぁぁっ!」



袖で鼻と口を固く覆い、逃げるように自社の商館へと飛び込んだマークスたち。

しかし、室内に入っても安らぎは訪れなかった。

湿気を吸った重い絨毯の匂い、手入れのされていないソファの脂臭さ、使用人たちが放つ体臭。


「だめだ……ここにいても正気が保てん……っ!」


半狂乱になったマークスは、交易都市でお土産用に買い込んでいた「柑橘の石鹸」と「ハーブの精油」の箱を引っつかむと、手あたり次第に石鹸を削り、自分の鼻の下へ直に塗りたくった。


「ふはぁぁぁっ……! す、すがすがしい……っ! 生き返る……っ!」

「マ、マークス殿! わしにも! わしにもその精油を分けてくだされぇっ!」


商人たちが群がり、鼻の下にハーブや石鹸を塗りたくるという異常な光景が広がった。

そこへ、今回の旅に同行していた派遣労働者たちが、整然とした手つきでバケツと布を手に入室してきた。


「マークス様、皆様。お部屋の空気が滞っております。窓を開け、交易都市流の『水拭きとアルコール除菌』を行いますね」


派遣労働者たちは手際よく窓を開け放ち、石鹸水を浸した布で床や家具の汚れを次々と拭きあげていく。

仕上げに柑橘ハーブのスプレーを空中にひと吹きすると、部屋を支配していた不快な臭気が嘘のように消え去り、澄んだ香りが満ちていった。


「お……おおお……っ!」


泣き崩れていた商人たちが、ガバッと顔を上げた。


「匂いが……消えた……!? 部屋が爽やかだ……っ!」

「救世主……! 君たちは救世主だぁぁっ!」


マークスは手を握りしめ、熱烈に叫んだ。


「今すぐ! 今すぐ我が商館の裏手に温水ボイラー施設と大浴場を建設するのだ! 費用はいくらでも出す! 商館の全従業員に毎日お風呂に入らせ、この石鹸で全身を洗わせろ! 拒否する者はクビだぁぁっ!」




数週間後――。


海洋都市国家群の大手奴隷商ゴルドやグランヴェール商会のバロアたちは、奇妙な現象に頭を抱えていた。


「おい……マークスのところの中小商会連合、一体どうなっているんだ?」

「やつらの商館から、恐ろしいほど爽やかで甘い柑橘の香りが漂ってくるのです……!」


マークスたちの商館は、徹底的な清掃とお風呂の導入によって、海洋都市で唯一「嫌な匂いが一切しない聖域」へと生まれ変わっていた。

さらに、清潔で仕立ての良い服を着た派遣社員たちが、ミスなく完璧な帳簿付けと仕分けを行うため、取引のスピードは他社の三倍。


それだけではない。商談に訪れた商人や貴族たちは、マークスたちの商館に足を踏み入れ、爽やかな空気を吸い込んだ瞬間にこう漏らすのだ。


「な……なんだこの居心地の良さは……!? 頭がすっきりして、病気が治りそうな気がするぞ……!」

「マークス殿、この鼻の下につけておられる素晴らしい香りの魔法品は何ですかな!?」


結果として、大手商会を差し置き、すべての高額取引がマークスたちの爽やかな商館へと集中することとなった。


今や海洋都市において、「柑橘の良い香りを漂わせ、清潔な服を着ていること」こそが、最新のトレンドであり『交易都市とパイプを持つ一流の成功者』の証となったのだ。


「ふふふ……見ろバロア殿。これが我が商会の新しい『お風呂と衛生』の力ですぞ」


通りですれ違ったバロアに対し、マークスはすれ違いざまに極上の柑橘の香りをふわりと残し、優雅に微笑んで去っていく。


不衛生な体臭を指摘され、真っ赤になって自分の服の匂いを嗅ぐバロアを背景に、マークスは鼻の下のハーブをひと塗りし、爽やかな秋晴れの空を見上げるのだった。


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