第50話 交易都市の影響~海洋都市3
第一区画の「暫定領事応接室」において、ゴルドら大手奴隷商との激しい交渉が収束してから数日。
買い取り手続きによって正式に「自由身分」を獲得した元逃亡奴隷の少女が、安らかな表情で手当てを受けていたゲストハウスの裏手で、第一区画の管理奉行所には新たな木製の看板が掲げられた。
そこには、流麗なフォントでこう記されていた。
『第一区画 職業安定相談所』
「あ、アキラさん……! これは一体……?」
修道服の裾を揺らし、保護された子供たちの様子を見に来ていたシスター・リゼが、物珍しそうに看板を見上げる。作業着の袖を捲り上げたアキラは、温かいお茶の入ったボトルを傾けながら、穏やかな笑みを浮かべた。
「リゼ。目の前の困っている人を助けるお前の善意は正しかった。だが、ただ街の中に囲い込んで庇護するだけじゃ、彼らは一生『誰かに養われる存在』のままだ。本当の自由ってのは、自分の足で立ち、自分の手で飯を食えるようになることだろ?」
「自分の足で……立つ……」
リゼがハッと息を呑む。アキラの傍らに佇むタマモが、九本の白い尾をそっと揺らしながら説明を引き継いだ。
「本日より、身受けされた方々を対象とした『自立支援カリキュラム』を開始いたします。まず行うのは、基礎教育にございます」
ホログラムモニターが展開され、講堂で熱心に机に向かう元奴隷たちの姿が映し出された。
第一に「文字の読み書き(識字)」。
奴隷制度のもとでは、不当な売買契約書や借金証文を読ませないために教育が徹底的に奪われていた。文字を覚えることは、悪質な騙し討ちや不当な搾取から身を守るための最初の防具であった。
第二に「算術と計算力」。
足し算・引き算の基礎から、商品の個数管理や簡単な帳簿付けまでを網羅する。
第三に「専門的な職業訓練」。
当都市の最新農具を用いた効率的な農業支援、加工食品の調理・梱包、建物の修繕補助、さらには奉行所での事務補佐に至るまで、個人の適性と希望に合わせた実技講習が行われる。
「私……字が書けたよ……! 数字の計算ができるの……!」
リゼが最初に保護した、あの茶色い獣耳の少女が、ノートにたどたどしく書かれた自分の名前と数字を指でなぞりながら、ポロポロと大きな涙をこぼしていた。
「あぁ……っ! 創世の女神様……!」
リゼは胸の前で強く手を組み、胸を打たれて涙を流した。「力任せに世界をぶち壊すのではなく、教育と自立によって人を救う……。これこそが、アキラ様の仰っていた『境界線』の先にある優しさなのですね」
「まあ、硬い話はここまでだ」アキラは苦笑しながら頭を掻いた。「問題は、教育したこの優秀な人たちをどうやって社会へ送り出すかだ」
そこに歩み寄ってきたのは、元商社マンの佐々木と元会社社長の大河内であった。二人の手には、海洋都市国家群との取引に向けた『人材派遣協定書』が握られていた。
「――な、なんですと!? 文字が読めて、計算ができる……!?」
応接室で声をひっくり返したのは、海洋交易都市群の中小商会連合代表・マークスであった。
佐々木が眼鏡の奥の目を光らせ、穏やかな笑みを浮かべて資料を提示する。
「ええ、マークス殿。当都市で基礎教育と職業訓練を修了した者たちは、交易都市(あるいは公認組合)と正式な雇用契約を結んだ『公認派遣労働者』となります。彼らは全員、商品の在庫管理や帳簿記入、衛生的な荷分の仕分けを完璧にこなせます」
「そんなバカな……! 海洋都市の港湾労働者や奴隷どもなど、自分の名前すら書けず、鞭で叩かなければ動かんのが常識ですぞ!? それほどの高度人材を、我々中小商会に派遣していただけるのですか!?」
大河内が重々しく机を叩き、ニヤリと笑った。
「もちろんです。ただし、彼らは当都市の正社員です。最低賃金の保障、一日八時間労働の遵守、そして人間としての尊厳を守ることが厳格な条件となります。もし派遣先で暴力や不当な扱いがあれば、即座に労働者を引き揚げ、該当商会には莫大な違約金と『永久交易停止措置』を科します」
「断る理由など一欠片もございません!」
マークスは身を乗り出し、協定書へ即座にサインした。「所有権を買って逃亡に怯え、病気や不衛生で使い物にならなくなる奴隷を抱えるより、教育された優秀な派遣社員を正当な賃金で雇う方が、はるかに利益が出ます! 大手商会どもの鼻を明かしてやりますぞ!」
この「教育された派遣労働者制度」の噂は、瞬く間に海洋都市国家群の全域へ爆発的な勢いで広まった。
マークスら中小商会が派遣労働者を導入した結果、港での荷揚げ速度は従来の三倍に跳ね上がり、帳簿のミスや商品の破損事故はほぼゼロになった。
「おい、マークスのところの作業員を見たか? 文字を読んで荷物を分類し、帳簿までつけているぞ!」
「鞭で叩かなくても、自分から効率よく動いてくれるんだそうだ!」
「奴隷を大金で買って飼い殺しにするより、交易都市のハローワークから派遣してもらった方がはるかに安くて高品質じゃないか!」
経済的合理性を至上命題とする海洋都市の商人たちが、一斉に派遣労働制度へとなだれ込んだ。
これに最も激しい打撃を受けたのは、ゴルドをはじめとする大手奴隷商たちであった。
「ふ、ふざけるな……! なぜ我が商会の高額な奴隷が売れんのだ!?」
「『文字も読めない奴隷など、管理コストがかかるだけでいらない』と追い返されました……!」
「交易都市のせいで、奴隷市場の相場が暴落しているぞ……っ!」
どれほど強弁を振るおうとも、市場の原理には勝てない。「教育された自発的な労働者」と「無教育で不衛生な所有物」の圧倒的な生産性の差を前に、暴利をむさぼっていた旧来の奴隷制度そのものが、経済的に急速に解体・自滅していったのだ。
やがて、海洋都市の地下水道や港の底層で虐げられていた人々までもが、「交易都市のハローワークへ行けば、教育を受けて人間らしく働ける」という希望を胸に、教育と未来を求めて自発的に歩み始めるのだった。
夕暮れ時。第一区画の門前で、派遣先へと元気に旅立っていく労働者たちの背中を見送りながら、アキラはお茶をすすっていた。
「武力で奴隷商を撃ち払うわけでもなく、教育と市場の仕組みで制度そのものを過去の遺物にする……。これがアキラさんのやり方なんですね」
隣に並んだ志保が、温かい眼差しで微笑む。
「俺はただの農家だからな」アキラは照れくさそうに苦笑した。「不毛な雑草を根こそぎ抜くより、土を整えて良い作物を育てた方が、結果的に畑全体が豊かになるだろ。それと同じさ」
九本の白い尾を誇らしげに揺らすタマモとともに、交易都市の灯火が温かく点り始める。知識と優しさ、そして完璧なロジックによって、異世界の理不尽な構造はまた一つ、静かに塗り替えられていった。
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引き続き『俺のスローライフどこいった?(旧題ダンジョンワールド)』をよろしくお願いします。




