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第49話 交易都市の影響~ 海洋都市2


門前に押し寄せた数百人の人波。武器を持たず、ただ飢えと恐怖に震えながらすがるような瞳を向けてくる丸腰の弱者たちを前に、シスター・リゼは自分の引き起こした事態の重さに押し潰されそうになっていた。


「シスター様……!」

「どうかお救いください……!」


悲痛な叫びが渦巻く中、背後から静かな足音が近づいた。

作業着の袖を捲り上げたアキラと、九本の白い尾をそっと揺らす管理AI・タマモであった。


「ア、アキラさん……! 私……私は……」

蒼白な顔で振り向くリゼに、アキラは責めるような視線を向けなかった。ただ、門の外に広がる群衆を見つめ、静かに息を吐き出す。


「……タマモ。第一区画の『暫定領事応接室』を解放しろ。それから、外にいる連中の追手に集会を呼びかけろ。『所有権の返還交渉に応じる』とな」


「畏まりました、マスター」


アキラの指示に、リゼは驚きに目を見張った。見捨てるのではないのか。それとも、すべて引き渡してしまうというのか。アキラはリゼの肩をポンと軽く叩いた。


「行くぞ、リゼ。お前が助けたあの子も連れて来い。……この街のやり方で、線を引きに行く」





第1階層に突撃設置された「暫定領事応接室」の空気は、重苦しい緊張感と熱気に包まれていた。


整然とした白磁のテーブルを挟んで対峙しているのは、三つの陣営であった。


上座に座るのはアキラとタマモ。

対面には、門前の群衆を追って怒気を含んで乗り込んできた、海洋都市群の大手商会使節と金色の刺繍服を着た奴隷商人たち。

そして壁際には、身を縮こまらせて震える逃亡奴隷の代表たちと、彼らを庇うように立ちはだかるリゼの姿があった。その背後には、リゼが最初に保護したあの茶色い獣耳の少女もいた。


「――繰り返し主張する!」

肥満体を揺らし、激昂した声で卓を叩いたのは、海洋都市の奴隷商・ゴルドであった。

「門前に集まっている連中は、我が国の市民および商会が正当な対価を支払って購入した『所有物』だ! 交易都市がこれを匿い、返還に応じないのは財産権に対する明白な侵害である! 直ちに全員を拘束し、我が方に引き渡していただきたい!」


周囲の商人たちも同調し、「そうだ!」「我らの財産を返せ!」と罵声を上げる。

リゼは胸の前で手を握り、唇を強く噛みしめながらアキラの横顔を見つめていた。全員を無条件で受け入れることはできないという現実、そして目の前で「商品」として扱われる人々への怒りと葛藤が、彼女の瞳に揺れている。


アキラは温かいお茶を一口すむと、静かに湯呑みを置いた。その表情には、激昂も怯えもない。あるのは、現代社会の実務で嫌というほど経験してきた「淡々とした手続きの顔」であった。


「……なるほど。言いたいことは分かった」

アキラは肘を突き、静かな声で口を開いた。

「まず、当都市の明確なスタンスをお伝えしておきます。交易都市は、他国の法的な財産権や所有権を無効化するつもりはありません」


商人たちが一瞬、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。リゼがハッと息を呑む。

しかし、アキラの次の言葉がその場を凍りつかせた。


「ただし――『その人物が本当にあなたの正当な所有物(財産)であるか』の証明責任は、主張するあなた方の側にあります」


「……は? 証、明……?」

ゴルドが眉をひそめた。


アキラが目配せすると、タマモが和服の袖をひと振りした。空中に鮮やかなホログラムモニターが展開され、外にいる逃亡奴隷たちの個別の顔写真と、詳細な生体スキャンデータがリスト化されて浮かび上がる。


「当都市では、本日より『個別の三者面談手続き』を実施します」

アキラは冷徹なまでのロジックを提示し始めた。

「あなた方が自分の『所有物』だと主張する以上、売買契約書の正本、国が発行した所有烙印の台帳照合、購入日付、および購入金額の提示を求めます。それらが当都市の記録・スキャンデータと完璧に合致した場合のみ、『所有権の存在』を認定しましょう」


「な……ッ!? 逃亡奴隷の一人ひとりにそんな厳格な書類確認をするなど聞いたこともないぞ! 現場の混乱で書類など――」


「財産権を主張するのに、所有を証明する証拠がないんですか?」

アキラは静かに言葉を遮った。

「あらゆる健全な商業において、所有権の証明ができない物品の返還請求は通りません。もし証拠もないのに『俺の物だ』と主張して連れ去ることを認めれば、それはただの強奪であり、掠奪です」


「くっ……!」

商人たちが言葉を詰まらせる。


「タマモ、第一組の面談を始めよう」

「畏まりました、マスター」


タマモが手元の端末を操作すると、モニターに一人の大柄な奴隷商人と、震える若い獣人の少女のデータが表示された。


「まず、そちらのガストン殿」

タマモが優雅な声で告げる。

「あなたは『あそこにいる狼耳の少女は我が商会の所有物だ』と主張されましたね?」

「お、おう! 間違いなく我が商会の奴隷だ! 先月買い取ったばかりだ!」


「ですが」

タマモの狐耳がぴくりと動き、ホログラム上に別のデータが割り込んだ。

「当都市が入手した過去の買い付け記録、および海洋都市の公認台帳と照合いたしましたところ……その少女の所有権は、三日前に破産した別の小規模商会に属していた記録が残っております。ガストン殿の商会が購入したという売買契約書は存在いたしません」


「な、なに……!?」


「つまり、あなたは『どさくさに紛れて他人の奴隷(所有者不明の逃亡者)を自分の物として掠奪しようとした』ことになりますね」

タマモがにっこりと微笑む。

「虚偽の所有権主張、並びに当都市における詐術行為と認定いたします。ガストン殿、および該当商会の方々は直ちに当都市から退去してください。二度目の虚偽申告があった場合、交易停止措置を適用いたします」


「ひ、ひぇぇっ……! 悪かった! 冗談だ、諦める!」

嘘を暴かれた男は、周囲の商人たちからの冷ややかな視線と、警備兵の圧力に押され、蜘蛛の子を散らすように部屋から逃げ出していった。


「……このように」

アキラは商人たちを見渡した。

「便乗して他人の奴隷を連れ戻そうとする不当な主張は、すべて切り捨てます。所有権を証明できない者は、当都市において『所有者不明の自由身分』として保護・身分整理を行います」


残された奴隷商人たちの顔から血の気が引いていく。彼らの中に、完璧な書類と台帳を常に持ち歩いている者などごく一部に過ぎなかったからだ。


しかし、大手の奴隷商・ゴルドは、震える手で懐から羊皮紙の束を取り出し、卓の上へ叩きつけた。


「ふ、ふざけるな……! 俺は完璧だ! ほら見ろ! この獣人の子供(リゼが最初に保護した子)の売買契約書も、領主の捺印もすべて揃っている! 正当な我が商会の所有物だ! これなら文句はあるまい! 今すぐ引き渡せ!」


ゴルドの書類を、タマモがミリ秒単位でスキャンした。

「……確認いたしました。書類の信憑性、並びに所有印の合致を認めます。法的には、ゴルド殿の正当な所有物でございます」


「勝った……!」

ゴルドがニヤリと下品な笑みを浮かべ、子供へ手を伸ばそうとした。


「――待ちなさい」

アキラの静かな制止の声が響いた。


「書類が正当であることは認めましょう。ですが……返還手続きに移る前に、当都市からの『請求書』をお受け取りください」


「……は? 請求書……?」


タマモが、一枚の簡素な紙をゴルドの前にすっと差し出した。そこに記された数字を見た瞬間、ゴルドの目が丸く見開かれた。


「な……なんだこの莫大な金額はぁぁぁっ!?」


アキラは温かいお茶をすすり、淡々と説明を始めた。

「当都市では、逃亡奴隷が発生した原因を『所有者側の管理責任および防衛策の不備』と判断します。そして、彼らが当都市の敷地内に足を踏み入れ、保護されてから本日までの『一時保護費』『食費』『医療費』『高濃度自動殺菌・清浄費用』『身元確認・書類照合作業手数料』を算出し、所有者へ請求いたします」


「ふ、ふざけるな! なぜ俺がそんなものを払わねばならん!」


「所有物(財産)が他人の土地に転がり込み、その他人が保管・管理・修繕を行った場合、その管理費用を所有者が負担するのは商業の当然のルールです」

アキラは一切の揺らぎのない目でゴルドを見つめた。

「もしこの請求額を支払えない場合、当都市は『管理費用の未払いに対する留置権』を行使します。支払いが完了するまで、該当の人物の返還に応じることはできません。……もちろん、どうしても払えないというのであれば、その請求額と同等の対価で、当都市がその人物の所有権を『正当に買い取る(身受けする)』という交渉にも応じますが?」


「ぐ……っ、ぬぬぬぬ……ッ!!」


ゴルドは提示された金額と、アキラの完璧すぎるロジックを前に絶句した。

子供一人を連れ戻すために支払うには、あまりにも高額すぎる管理費。かといって支払わなければ留置権で保護され続け、事実上手放すことになる。買い取りに応じれば、手元には金が残るが「奴隷」は手に入らない。


「返還か、買い取りに応じるか、それとも管理費を払えず所有権を放棄するか。……決めるのはあなたです、ゴルド殿」


商人たちは完全に沈黙した。

武力で力押しするのではなく、「所有権の厳格な証明」と「管理責任に基づく費用の請求」という商業・手続きのルールによって、自分たちの理不尽な主張が完璧に解体されていく。


これこそが、交易都市の主・遠藤アキラが示した、血を流さずに目の前の人々を守る「境界線(ライン)」であった。


やがて、苦々しい顔で買い取り書類にサインをしたゴルドたちが退室していくと、応接室には静寂が戻った。


身受け手続きが完了し、正式に自由の身となった獣人の子供が、不思議そうに自分の手を見つめている。

リゼはポロポロと涙をこぼしながら、アキラに向かって深く深々と頭を下げた。


「アキラさん……ありがとうございます……! ありがとうございます……!」


「お礼を言われるようなことじゃないさ」

アキラは作業着の袖を軽く整えながら、ふっと苦笑いを浮かべた。

「俺はただ、商業のルールに従って手続きをしただけだ。……奴隷制度そのものを消し去ることはできないし、世界の仕組みを変えることもできない。だけど……この街のルールに従う以上、理不尽な言い分を通してやるつもりもないからな」


リゼは涙を拭い、アキラの言葉を胸に深く刻み込むように頷いた。

「はい……! 完璧な力で世界を変えるのではなく、そこにいる人々のために線を引く……それが、この都市の優しさなのですね」


「まあ、固い話はここまでだ」

アキラは立ち上がり、扉を指さした。

「身分整理が終わった子たちに、温かいお粥とかき氷でも食わせてやってくれ。……タマモ、次の『聖人国からの使者』との面談の準備をしてくれ。あっちの犯罪者押し付け案件も、同じロジックで叩き返すぞ」


「畏まりました、マスター」


九本の白い尾を誇らしげに揺らすタマモとともに、アキラは新たな交渉へと歩み出していくのだった。



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