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第48話 交易都市の影響~海洋都市

交易都市の西外門へと続く美しい石畳。その脇に広がる青々と茂った草地に、修道服の裾を軽やかに揺らした一人の少女がちょこんと座り込んでいた。


シスター・リゼ。聖堂教会傘下の孤児院で育ち、創世の女神への純粋な信仰心を胸にこの大森林へとやってきたシスター見習いである。


「『寸鉄も帯びず、無一文で旅をすれば、創世の女神様が常に寄り添い守ってくださる』……本日も素晴らしいお恵みをありがとうございます」


胸の前で両手をギュッと組み、目の前に佇む交易都市の雄大な城郭を見上げる。澄み切った水がたゆたう幅15メートルの水濠には、色鮮やかな魚が跳ね、門を行き交う人々――人族や獣人、エルフ、さらには魔族までもが、晴れやかな笑顔で言葉を交わしていた。


この街に来てからというもの、彼女の常識は覆されっぱなしであった。

教会の暗部が自滅して配水管やクワにリサイクルされたり、大聖堂では想像もつかなかった温かいお風呂や泡立つシャンプーなどの清潔な環境、そして甘くて冷たい「イチゴかき氷」という奇跡のような恵みに触れたり。

寸鉄も帯びず無一文の自分に対し、街の人々が「日頃の祈りへのお施し」として笑顔で美味しいご飯やお風呂を提供してくれる(※実際はアキラたちが裏で全額防衛経費から自動引き落とし処理をしている)環境に、リゼは毎日深く感謝し、ここで祈りを捧げることを日課としていたのだ。


「はぁ……本当にここは、女神様の愛に満ちた素晴らしい街ですわ……」


うっとりと頬に手を当てていたその時――。


ガサリ、と街道脇の鬱蒼とした「魔の森」の木陰から、不自然な草音が響いた。


「ん……? 今、何か音が……?」


リゼが不思議そうに立ち上がり、音のした方へ数歩歩み寄る。


木々の隙間から這い出てきたのは、一人の小さな影だった。

ボロボロに引き裂かれた褐色の布切れを纏い、全身泥と擦り傷だらけの幼い少女。頭上には怯えたようにぺたりと伏せられた茶色い毛並みの小さな獣耳。細く衰弱した腕で必死に地面を掻きながら、ゼーゼーと荒い息を吐き出している。


「まあ……ッ!? 大丈夫ですか!?」


リゼは驚き、躊躇することなく駆け寄った。

近づいて抱き起こすと、その華奢な身体があまりにも軽く、高熱で熱く燃えていることに息を呑む。首元や手首には、重い金属の枷が締め付けられていたであろう痛々しい赤黒い鬱血痕がくっきりと残されていた。


「ひっ……!? ご、ごめんなさい! 叩かないで……! 逃げたりしないから……っ!」


抱きしめられた少女は、リゼの修道服を見るや否や、全身を激しくガタガタと震わせ、両腕で頭を庇うように縮こまった。その瞳には、人間に対する根深い恐怖と絶望が色濃く宿っている。


「落ち着いてください、誰もあなたを叩きはしませんわ!」


リゼは優しく、包み込むように少女の背中を撫でた。


「大丈夫ですよ。ここでは、あなたを傷つける人はいません。私はシスター・リゼ。神様に仕える者です」


少女は怯えた瞳を揺らしながら、掠れた声でぽつりと漏らした。


「……でも、私……逃げたから……。おじさんたちに捕まったら、また鞭で打たれる……。私は……奴隷だから……ご主人様のところに、帰らなきゃ……っ」


『奴隷』――その不穏な言葉に、リゼの胸が強く締め付けられた。

海洋都市国家群などで横行しているという、人を金銭で売買し、所有物として扱う理不尽な制度。この幼い少女は、そこから死に物狂いで魔の森を抜け、ここまで逃げてきた逃亡奴隷だったのだ。


「帰る必要なんてありませんわ!」


リゼは少女の小さな手をしっかりと両手で包み込み、澄んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなたは商品ではありません。一つの尊い命です! 誰もあなたを縛ることも、売り買いすることも許されませんわ!」


「……ほんと……? ここにいても……怒られない……?」


「ええ、創世の女神様のもとでは、誰もが等しく愛される存在なのです。さあ、一緒に行きましょう。あたたかいお水と美味しいご飯がありますからね」


衰弱した少女を優しく抱きかかえ、リゼは交易都市の門へ向かって歩き出した。

この時のリゼの胸にあったのは、ただ目の前の可哀想な命を救いたいという、純粋で無垢な「善意」だけであった。





第一区画の管理奉行所、執務室。


「……なるほどね」


作業着の袖を捲り上げたアキラは、温かいお茶をすすりながら、ホログラムモニターに映し出されたゲストハウスの映像を見つめていた。そこには、医療ドローンによる簡易手当てを受け、フカフカのベッドで安らかな寝顔を見せる獣人の少女の姿があった。


「マスター」


隣に立つ管理AIのタマモが、九本の白い尾をそっと揺らしながら報告を続ける。


「保護した子供の身体チェックが完了いたしました。重度の栄養失調、皮膚の擦過傷、および精神的ストレスによる疲労が確認されましたが、当都市の医療プロセスにより全快まで約二時間でございます。……なお、首元の鬱血痕から、海洋都市国家の特定商会が所有していた奴隷識別印が検出されました」


「逃亡奴隷、か……」


アキラが困ったように後頭部を掻いていると、部屋の扉が勢いよく開いた。


「アキラさんッ! お願いですわッ!」


息を切らせて駆け込んできたのは、リゼであった。彼女はアキラの前まで一直線に進み出ると、深く深く頭を下げた。


「あの子を……あの獣人の女の子を、この街で保護してあげてください! あんな幼い子が、人間を商品として扱う恐ろしい場所で傷つけられていたのです! どうか、当都市で安心して暮らせるように許可を……!」


アキラは静かに湯呑みを置くと、まっすぐリゼを見つめた。


「……一人なら、問題ないよ」


「え……?」


「住む場所、食事、医療、服……必要なものは全部用意してやる。あの子がこの街で普通に暮らしていく分には、俺たちは何も不自由させない」


アキラのあっさりとした快諾に、リゼの表情が一瞬明るく輝いた。

「あぁ……! ありがとうございます! あなた様はやっぱり、温かく慈悲深いお方ですわ!」


しかし――アキラの表情は硬いままであった。

アキラはふぅと息を吐き出すと、静かな声で問いかけた。


「だがな、リゼ。……もし、あの子だけじゃなかったらどうする?」


「……はい?」


リゼが首をかしげる。アキラは肘を突き、淡々と現実を突きつけた。


「あの子を助けたという噂は、いずれこの大森林の外へ漏れる。海洋都市国家や他の国で虐げられている奴隷たちが、『あそこへ行けば自由になれる』と知ったらどうなると思う?」


「それは……たくさんの人が、助けを求めてここへ来るということですわね! それのどこがいけないのですか? 困っている人を助けることこそ――」


「全員を受け入れることはできない」


アキラの短く、冷徹な一言が、執務室の空気を凍りつかせた。


「な……なんですって……!?」


リゼは目を見張り、信じられないというように絶句した。


「なぜですか!? この街には広大な農地があって、美味しいご飯も、暖かいお部屋もたくさんあります! 困っている人を拒む理由なんて……!」


「街の容量(キャパシティ)の問題じゃないんだよ、リゼ」


アキラは真剣な眼差しで、まっすぐに少女の目を見据えた。


「俺たちが他国の奴隷を無限に無条件で受け入れ続ければ、それは他国の制度そのものを根底から破壊することになる。当然、向こうの国や商人たちは黙っていない。外交問題になり、最悪の場合、戦争になる」


「ですが……! 目の前で苦しんでいる人を見捨てるというのですか!? 人を『商品』として扱うような間違った制度なんて、壊れてしまえばいいではありませんかッ!」


正義感に燃えるリゼの叫び。しかし、アキラは首を横に振った。


「俺たちには、世界中の奴隷制度を力任せにぶち壊す権利も義務もない。一人を救うことと、他国の社会構造そのものを変えることは全く別の問題なんだ。俺たちは『世界を救う正義の味方』じゃないんだよ」


「そんな……そんなのってみなさん……!」


リゼは拳を強く握りしめ、唇を噛みしめた。

自分を温かく迎え入れてくれた交易都市。圧倒的な科学技術と豊かな実りを持つアキラたち。それほどの力がありながら、「世界を変えることはできない」「全員は救えない」と線を引くアキラのスタンスが、純粋な信仰心を持つリゼにはどうしても納得できなかった。


アキラもまた、悔しそうに眉をひそめるリゼの姿を見て、胸の奥で小さく葛藤していた。目の前の命を救いたいという彼女の善意は、100%正しい。だが、圧倒的な力を持っているからといって、力任せに他国の構造を書き換えれば、必ずどこかで別の歪みと血が流れる。


「……リゼ。とりあえず、あの子のケアをしてやってくれ」


「……分かりましたわ」


リゼは低く頭を下げると、どこか寂しげな余韻を残して執務室をあとにした。


二人の価値観が、初めて真っ向からぶつかり合った瞬間であった。

そしてアキラの危惧した通り――「交易都市のシスターが奴隷の少女を助けた」という小さな出来事は、伝言ゲームのように尾ひれがつき、大森林の外の世界へと爆発的な勢いで広がり始めた。





「おい……見たか、今の?」


交易都市の外門付近で荷を下ろしていた海洋都市国家の行商人が、目を丸くして呟いた。

その視線の先では、修道服を着たシスター・リゼが、傷だらけの獣人の少女を優しく抱きかかえ、咎められることもなく門の中へと連れていくところだった。


「あのシスター、逃亡奴隷をそのまま街へ引き入れたぞ……」

「管理兵も止めてねぇ。ってことは……あの交易都市は奴隷を保護してんのか!?」


商人たちの間で走った驚きは、街道を往来する者たちの口を伝い、大森林の外へと漏れ出していった。そしてその噂は、人々の願望と尾ひれを纏いながら、伝言ゲームのように肥大化していく。


『交易都市のシスターが、逃亡奴隷を匿ったらしい』

『交易都市では、逃げてきた奴隷を追い返さずに助けてくれるそうだ』

『あそこへ逃げ込めば、誰でも奴隷の身分から解放されて自由になれる!』


過酷な環境で虐げられていた者たちにとって、その噂は暗闇に差した唯一の光だった。噂は瞬く間に伝播し、やがて地殻変動のような動きとなって現れ始める。


最初は、闇に紛れて街道を走ってきた数人の逃亡奴隷だった。

それが十数人となり、やがて数十人、数十人の集団へと膨らんでいく。





数日後の朝。

交易都市の門前は、異様な光景に包まれていた。


門前の広い空地を埋め尽くしたのは、数百人にも及ぶ人々の群れだった。

重要なのは、誰一人として武器を持っていないことだった。それどころか――


* ボロボロの衣服一枚を纏った者

* 裸足で足から血を流している者

* 怯える幼子を抱いた母親

* 痩せこけた老人や傷病者


武器どころか生きる術すら失いかけた丸腰の弱者たちが、すがるような目で巨大な城郭を見上げていた。敵軍ではないため、門を固める管理兵たちも攻撃行動を取ることはできず、警戒態勢のまま静観するしかない。


噂を聞きつけ、真っ先に門前へと駆けつけたリゼは、その光景を目にして息を呑んだ。


「あ……ああ……」


言葉を失うリゼの姿を認めると、門前に集まっていた人々が一斉にざわめき、ひざまずくように手を伸ばした。


「シスター様……!」

「助けてください!」

「交易都市へ行けば自由になれると聞きました!」

「どうか、私たちをお救いください……!」


無数の悲痛な叫びと、渇望に満ちた視線が一課にリゼへと注がれる。

目の前に広がる圧倒的な現実と、自分の一手が引き起こしてしまった事態の大きさに、リゼは立ち尽くしたまま、震える唇を噛みしめることしかできなかった。




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