第41話 交易都市の影響~東方国諸島
東方国諸島――大海原の東端に位置するその島国は、青々とした竹林と穏やかな潮風、そして木造の重厚な建築群が調和する美しい和風の情景を抱いていた。
だが、公爵家本邸の広間を満たしていたのは、重苦しく張り詰めた静寂だった。
現当主であるコノエ・ヨシツグ(二十五歳)は、上座で目を閉じ、深く重い溜息を吐き出した。
父・ヒロツグが不治の奇病――原因不明の脚気に侵され、妹のサクラとともにエルフ国へ旅立ってから数ヶ月。高度な魔法医療を誇るエルフの国でさえ治せぬ病であった。出立の日、自らの足で歩くことも叶わぬ父を前に、ヨシツグは「二度と生きて会うことはない」と悲痛な覚悟を固めて送り出していたのだった。
「――当主様! 港より早馬にございます!」
家臣の叫び声が広間に響き渡る。ヨシツグが目を開けると、息を切らせた使者が畳に伏していた。
「父上……いや、前公爵様の船が到着されたのか?」
「はっ! たった今、帰港いたしました! されど……されど……っ!」
「どうした、言葉を濁すな! 容態が急変されたのか!?」
ヨシツグは身を起こし、切羽詰まった声で問い詰めた。最期の瞬間に立ち会う覚悟で握りしめた拳が震える。
しかし、使者の口から飛び出したのは、誰もが予想だにしなかった報せだった。
「いえ! 前公爵様は……ご自身の足で、力強くタラップを下りて来られました! タラップの途中で船員の手を借りることもなく、高らかな笑い声を上げながら港の土を踏まれたのです!」
「……な……何だと……?」
ヨシツグの思考が凍りついた。
車椅子から立ち上がることすら叶わず、痩せ細っていた父が、己の足で船を下りてきた? 奇病が完治したというのか? エルフの治癒魔法でも治らなかった病が……?
茫然自失のまま、ヨシツグは弾かれたように広間を跳び出し、邸宅の玄関へと駆け出した。
門をくぐり、庭の砂利を踏みしめて入ってきたのは、一台の豪奢な馬車であった。
馬車が止まり、扉が開く。
そこに姿を現したのは――影もなく、血色の良い皮膚と力強い眼光を取り戻した、紛れもない父・コノエ・ヒロツグの姿だった。
「……父上……っ!?」
ヨシツグの膝から力が抜け、その場にボロ雑巾のように泣き崩れた。
見間違えるはずもない。病魔に侵され、死を待つばかりだった父が、背筋をピンと伸ばし、豪快に足音を立てて自分へと歩み寄ってくるのだ。
「ハハハ! どうしたヨシツグ、情けない声を出すな。まるで幽霊でも見たような顔ではないか」
「父上……本当に、本当に父上なのですか……!? 足は……お体は、一体どうなって……!」
涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしたヨシツグを見下ろし、ヒロツグは温かい手で息子の肩をガシッと掴み上げた。その掌には、かつて武芸で鳴らした力強さが確かに戻っていた。
「見事に完治したのだ。エルフの国ではなく、大森林に突如現れた『交易都市』の主……遠藤アキラ殿と、その優れた医療技術のおかげでな」
「交易都市……? 大森林の……?」
困惑するヨシツグの背後から、随行していた家老の男がそっと歩み寄り、苦笑いを浮かべながら声をかけた。
「ヨシツグ様、詳しい土産話は邸へ入られてからにいたしましょう。前公爵様も長旅でお疲れにございます。まずは温かいお茶でも」
「あ、ああ……そうだな。失礼した。父上、どうぞ中へ……」
立ち上がり、袖で乱暴に目元を拭ったヨシツグは、父を奥の応接の間へと案内した。-----静かな応接の間。淹れたての茶から立ち上る湯気を前に、ヒロツグは満足そうに目を細めてお茶を啜った。
「ふぅ……やはり故郷のお茶は落ち着く。だがなヨシツグ、あの交易都市で馳走になった『にほんしゅ』という酒と、出汁の効いた料理は、我が国の食文化を遥かに凌駕しておったぞ」
「はぁ……。父上、お体がお戯れを言えるほど回復されたのは何よりですが……一体何があったのですか? エルフの魔法でも治らぬ奇病が、なぜその『交易都市』で治ったのです?」
ヨシツグが真剣な面持ちで尋ねると、ヒロツグは表情を引き締め、交易都市で体験した驚天動地の出来事を語り始めた。
「わしの病は『脚気』という、日々の食事の偏りから来る栄養の欠乏であった。魔法でいくら体力を戻そうと、原因を取り除かねば治るはずもなかったのだ。アキラ殿の都市では、ナノマシンという目に見えぬ技術と完璧な生薬を用いて、わずか十分足らずでわしの足を元通りにしてみせた」
「じゅ、十分……!?」
「それだけではない。あの都市は六角形の星型要塞であり、どれほど強力な軍勢が攻め寄せようと、十人以上の武装集団で近づけば、着ている鎧や剣の重さが五百倍に激増する恐ろしい防衛機構が敷かれておる。聖堂教会の暗部や遠征軍が、手も足も出ずに自滅したそうだ」
ヨシツグは呆然と口を開ぐのだった。父の語る話は、あまりにも浮世離れしており、伝承や御伽話を聞かされているかのようだった。
「そしてな、ヨシツグ」
ヒロツグは茶呑みを置き、ニヤリと朗らかな笑みを浮かべた。
「わしは我が国の貴族として、また一人の男として、あの素晴らしい都市と正式な国交を結ぶべきだと判断した。ついては……サクラを、交易都市における我が東方国の『初代外交特使(大使)』として現地に駐在させることに決めてきたぞ」
「……はい?」
ヨシツグの動きが止まった。
「サクラを……大使として駐在……? 国に諮ることもなく、父上一人の独断で決めて来られたのですか……!?」
「うむ! サクラ本人も『あのアキラ様と街の人々のために力になりたい』と大張り切りでな。あやつは武芸も嗜むし、何より芯が強い。適任であろう?」
「適任とかそういう問題ではありません!!」
ヨシツグは思わず身を乗り出して叫んだ。
「我が国の重臣や他の貴族たちが黙っているはずがないでしょう!『国への報告もなく勝手に異国の要塞都市と協定を結び、公爵家の令嬢を人質のごとく置いてきた』と、朝廷や他家から猛烈な圧力がかけられますぞ! 伝統と形式を重んじる我が国において、どれほどの紛糾が巻き起こるか……!」
頭を抱え、青ざめるヨシツグに対し、ヒロツグは「ハッハッハ!」と豪快に腹を抱えて笑い飛ばした。
「そう怒るなヨシツグ。お前は現公爵なのだから、そのあたりの貴族どもへの根回しや圧力の跳ね返しは、すべてお前に任せたぞ!」
「な……ッ! 唖然とさせるのも大概にしてください!!」
「まあそう言うな。あの都市がもたらす農具、生薬、そして交易の利は、我が国を間違いなく豊かにする。反対する老害どもには『文句があるなら自分で大森林へ行って五百倍の重力を受けてこい』と言ってやればよい」
あっけらかんと言い放つ父の姿に、ヨシツグはもはや二の句が継げなかった。
死の淵から生還した父の圧倒的なバイタリティと、妹サクラのまさかの外交官就任。そして、これから押し寄せるであろう貴族たちからの怒涛のクレーム処理――。
「……ハァ……。生きて戻ってきてくださったのは、涙が出るほど嬉しいですが……別の意味で胃が痛くなってきました……」
深く溜息をつき、頭を押さえるヨシツグ。
その横で、ヒロツグは嬉しそうに盃を掲げ、大森林の青い空と、自分たちの運命を劇的に変えた命の恩人の顔を思い浮かべるのだった。




