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第39話 閑話 最強の人盾3 善意の悪魔

海洋交易都市の賑やかな酒場の一角で、ある商人が青ざめた顔で震える手で酒杯を煽っていました。

周囲の仲間たちが

「おい、一体どうしたんだ? 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして」

と覗き込むと、その商人は声を潜め、周囲を恐る恐る見回しながら重い口を開きました。


「いいか……みんな、落ち着いて聞いてくれ。俺は大森林の街道で、この世の者とは思えない『悪魔の追撃』を目撃してしまったんだ……」


「悪魔の追撃……? 交易都市に向かう街道でか?」


「そうだ。昨日、聖人国の精鋭・聖騎士団が甲冑をガチャガチャ鳴らして進軍していたんだ。彼らは街道の“ルール”を徹底的に研究していたらしく、完璧に『10人未満』の厳格な小隊を組み、互いに300メートル以上の距離を正確に保って整然と進んでいた。隙のない、完璧な陣形に見えたよ」


商人はゴクリと生唾を飲み込み、思い出すのも恐ろしいというように肩を震わせました。


「だがな……森の木陰から、一人の可憐なシスターが現れたんだ。武器も金貨すら持っていないような、木綿の布服一枚を着た若い少女だ。手にはランタンを持ってな。彼女は重装甲冑の騎士たちを見つけると、親切心からニコッと笑って『お困りですか〜? 冷たいお茶でもいかがですか?』とトコトコ歩み寄っていったんだ」


「なんだ、ただの親切なシスターじゃないか」


「そう思うだろ!? だが、騎士たちの反応が異常だったんだ! 隊長らしき奴が顔を真っ青にして『来るなぁぁぁッ! 来るんじゃない! 我らは厳格に9名だ! 寄るなァァッ!』って、まるで怪異でも見たかのような金切声を上げて、全身甲冑のまま死に物狂いで逃げ出し始めたんだよ!」


「はあ!? 重騎士がシスター一人から逃げ回るのか!?」


「逃げるさ! だが、相手は薄着の身軽な少女だ。軽やかな足取りで『まあ! 待ってくださいまし〜!』と笑顔で追いかけてくる。そして……彼女が騎士たちの300メートル圏内に足を踏み入れた瞬間だった」


酒場全体が静まり返り、仲間たちが息を呑みます。


「『ピンポンパンポン♪』って、呑気なチャイムの音が響いて、騎士たちの足元が怪しく鮮やかな赤色にピカピカ点滅し始めたんだ! 騎士たちは『死のカウントダウンだぁぁぁッ! 鎧を脱げ! 走れぇぇぇッ!』と絶叫しながら大パニックさ。だが、追いつかれた瞬間に……ズドォォォォォンッ!!」


商人は机をガタッと叩きました。


「天地がひっくり返るような凄まじい衝撃音が響き渡ってな! 精鋭騎士たちが一瞬で地面にめり込んで『ぎっくり腰がぁぁぁ!』『脱臼したぁぁぁ!』と悶絶し始めたんだ!」


「ひ、ひえぇぇ……っ!?」


「さらに恐ろしいのはここからだ……! 騎士たちが倒れたのを見たシスターが、『まあ! 一体どうなさったのですか!?』とパニックになり、親切心から『大丈夫ですか!?』と隣の9人小隊へ向かって全力で走り寄っていったんだよ!」


「待て! それじゃあ隣の小隊まで……!」


「そうだ! 連鎖反応だ! 隣の隊も『来るな死神ぃぃぁぁッ!』と悲鳴を上げて逃げ回るが、親切なシスターの爆走追撃から逃げ切れるはずもない! あちこちで『ピンポンパンポン♪』ズドォォォン!『ぎっくり腰がぁぁ!』と悲鳴と衝撃音がドミノ倒しみたいに木霊して……日の出を迎える頃には、五百人の本隊が一人残らず地べたに這いつくばって涙目で許しを請いていたんだ……」


商人は酒を飲み干し、深く深呼吸をしました。



噂話が流れてからしばらく後



聖人国の精鋭・聖騎士団が誇る天才軍師・ヴィクトルは、大森林の木陰から交易都市へと伸びる街道を睨みつけ、自信に満ちた笑みを浮かべていた。


「フッ……教会の暗部や先鋒隊が全滅したのは、奴らが『10人ルール』の数学的本質を理解していなかったからだ」


ヴィクトルが羊皮紙に描いた図面には、精緻な円と数値が書き込まれていた。


「いいか、よく聞け! 当都市の防衛網は『半径300メートル以内に10人以上』で発動する。ならば我が方の策はこうだ! 右の小隊を**『厳格に8名』! 左の小隊も『厳格に8名』! 両小隊の間隔は正確に『300メートル』**を維持せよ!」


副官が目を見開く。

「なるほど! 8名ならば、仮にあの大森林の悪魔――あのシスターがどちらかの小隊に接触(+1名)したとしても、合計は9名! 10人ルールには絶対に届きません!」


「その通りだ!」ヴィクトルは高らかに胸を張った。

「万が一、あのシスターが両小隊のちょうど中間地点(150メートル)に立ったとしよう。右の小隊(8名)+シスター(1名)=9名! 左の小隊(8名)+シスター(1名)=9名! どちらの小隊から見ても発動条件の10人には届かん! これぞ絶対に破られぬ『双翼8名陣』だ!」


「素晴らしい……! まさに完璧な計算です、軍師閣下!」


勝ち誇る聖騎士団。彼らは完璧な歩幅で距離を測定し、右に8名、左に8名、その間隔を寸分狂わぬ300メートルに保ち、静かに街道へ展開した。


……だが、彼らは致命的な見落としをしていた。


「300メートル」という円の半径が交差した時、その内部に含まれる「総人口」がどうなるかという、集合論(ベン図)の罠に。


◇


「創世の女神様……今日も風が心地よいですわ……」


木綿の修道服を軽やかに揺らし、手持ち無沙汰に街道をトコトコ歩いていたシスター・リゼは、ふと足を止めた。


右の木陰に、身構えた8人の聖騎士。

左の木陰にも、息を潜めた8人の聖騎士。


「あら?」

リゼはちょうど双方の中間地点――双方から150メートルの位置で足を止め、嬉しそうにパぁっと表情を輝かせた。


「まあ! 右の方々も、左の方々も! こんなところで綺麗に左右に分かれて、何のお稽古をなさっているのですか〜!?」


その瞬間――。


右の小隊(8名)のシステム走査線が起動する。

【走査領域:半径300m】

【該当者:右小隊(8名)+中央のシスター(1名)+300m内に存在する左小隊(8名)】

【領域内総人口:17名】


左の小隊(8名)のシステム走査線も同時に起動する。

【走査領域:半径300m】

【該当者:左小隊(8名)+中央のシスター(1名)+300m内に存在する右小隊(8名)】

【領域内総人口:17名】


中央に佇んだリゼ(1名)という存在が、双方の300メートル円を完全に重なり合わせ、「17名」の巨大な重複領域(ベン図)を完成させてしまったのだ!


『――ピンポンパンポン♪』


呑気なチャイムの音が、静かな大森林に木霊した。


「な……ッ!?」

右小隊の隊長が目を剥いた。足元が怪しく鮮やかな赤色に点滅を始める。


「な、なぜだぁぁぁッ!? 我らは8人だぞ! 左も8人だ! どこにも10人などおらんはずだぁぁぁッ!!」


左小隊の隊長も狂乱したように絶叫する。

「理由が分からん! なぜ光る!? なぜカウントダウンが始まるんだぁぁぁッ! どこで計算を間違えたぁぁぁッ!?」


中間地点で無邪気に手を振るリゼ。

「まあ! 左右同時に足元がピカピカ光って、とっても綺麗ですわ〜! お祝いの踊りでもなさるのですか〜!?」


『――発動条件達成。永続重力デバフ、512倍を展開します』


ズドォォォォォンッ!!!!!(左右同時)


「「「ぐはぁぁぁぁぁっ!?」」」


絶大な超重量が、左右の聖騎士16名を同時に襲った。

軽自動車数台分の塊と化した最高級の鋼鉄鎧と大剣に押し潰され、左右対称の美しい形で石畳へめり込む聖騎士たち。


「ぎ、ぎっくり腰がぁぁぁッ!」

「なぜだぁぁぁ! 8人なのに……8人なのにぃぃぃッ!」

「呪いだ……やっぱりあのシスターは悪魔の化身なんだぁぁぁッ!」


理不尽な重力と、解き明かせぬ計算の謎に、16名の精鋭たちは涙と鼻水を撒き散らして悶絶した。


(なお、真ん中で『まあ! 皆様揃ってぎっくり腰に……!? 一体全体どんな流行り病ですの〜!?』とおろおろ駆け回るリゼには、1の512倍――何も起きなかった)。


◇


「……ぶっ」


交易都市の執務室。ホログラムモニターで一部始終を見ていたアキラは、吹いたお茶を鼻に入らせて激しく咳き込んだ。


「げほっ! げほっ……! な、なんだ今の!? なんで両方の部隊が同時に沈んだんだ!?」


「ふふ、マスター」

タマモが九本の白い尾をパタパタと揺らし、空中に分かりやすい円の図面(ベン図)を投影した。


「敵の軍師は『自分の小隊+リゼ様』の足し算(8+1=9)しか考えていなかったようです。ですが、両小隊の距離が300メートルである以上、リゼ様が真ん中に立った瞬間、双方の領域にお互いの小隊(16名+1名=17名)がすっぽり収まってしまうのですよ」


「あー……『対集合の重複領域』か!」

アキラは納得がいったように膝を打った。


「8人なら大丈夫だと思って完璧な陣形を組んだつもりが、真ん中にリゼが立っただけで全員まとめて巻き込まれたわけか……。相手からしたら『理由も分からず突然全滅した』ようにしか見えないな」


「はい。数学的にも完璧な二重撃滅でございます」

タマモはニシシと可愛らしく笑うと、手元の端末を操作した。


「ただちに自動ドローンを派遣し、16名分の高純度な金属装備を回収いたします。第一区画の新しい街頭の柱および、全自動農業用水路のジョイントパーツへと再資源化させていただきますね」


「……理由も分からず装備を剥ぎ取られて、インナー一丁でお粥食わされて返される騎士どもが哀れすぎるだろ」


アキラは苦笑しながら頭を抱え、深いため息とともに温かいお茶を飲み直すのだった。


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