第36話 交易都市の影響~魔王国
かつて「呪われた荒野」とすら称された魔王国の広大な領土。
粘土質で硬く乾いた土壌と、寒冷な気候。作物がろくに育たないその大地は、他国からみれば「攻め取る価値すら存在しない不毛の地」であり、皮肉にもその貧しさゆえに大規模な領土侵略を受けずに済んできた歴史があった。
だが今、その不毛の地は、信じがたい光景へと変貌を遂げつつあった。
視界の果て、地平線まで埋め尽くす青々と元気良く茂る緑の葉。
交易都市から導入された「サツマイモ」の種芋、魔王国の土壌成分に合わせてピンポイントで調合された高効率肥料、そしてどんな硬土もサクサクと起こせる最新型の軽量鉄製農具。それらの組み合わせが、わずか数か月で魔王国の農業を根底から塗り替えたのだ。
「……これが、我が国の土地か……?」
魔王国の王都を見下ろす高台にて、漆黒の王衣を纏った男――魔王は、眼前いっぱいに広がる豊かな緑の大地を見つめたまま、完全に絶句していた。
その横では、農務部署全権代表のグラディスをはじめ、居並ぶ大臣たちが豪華な礼服の袖で幾度も目元を拭い、ボロボロと大粒の涙を流していた。
「魔王様……! ご覧ください! 痩せ衰え、ひび割れていた土が……これほどまでにみずみずしく、力強い実りを育んでおります!」
「我が国の歴史上、これほどの緑が全土を覆ったことなど一度たりともございません……!」
「試算によりますと……本年の穀物およびサツマイモの総収穫量は、なんと『去年の一千倍』に達する見込みにございます!!」
「い、一千倍だと……!?」
魔王は思わず声を裏返らせた。
一千倍。それは単なる食糧難の解消にとどまらず、魔王国全土の飢餓を完全に過去の遺物とし、余剰物資として莫大な蓄えすら生み出す途方もない数値であった。
眼下の圃場に視線をやれば、汗を流しながら農具を振るう農民たちの姿があった。
かつては重く硬い農具と不毛な土に腰を痛め、絶望的な面持ちで畑に立っていた農民たちが、今では笑顔で軽々と土を耕し、掘り起こされた大きく丸々と太ったサツマイモを掲げて踊り明かしている。
「あははは! 見ろよ、こんなでかい芋がゴロゴロ獲れるぞ!」
「神様……いや、交易都市の商人様のおかげだ! これで今年の冬は、子供たちに腹いっぱい飯を食わせてやれる……!」
歓喜と感謝の叫びが、風に乗って高台の魔王たちのもとまで届いてくる。
魔王は震える手で自身の胸元を押さえ、ゆっくりと息を吐き出した。
「武力でも、魔法でもなく……農具と種、そして肥料か。あの交易都市の主……遠藤アキラとは、一体どれほどの傑物なのだ……」
視察後、魔王城の広大な食堂には、香ばしくも甘い、何とも言えない芳しい香りが立ち込めていた。
長卓の提示された皿の上に並べられているのは、交易都市から持ち込まれた調理法――ただシンプルに薪の灰と炭火でじっくりと焼き上げられた「焼き芋」であった。
「これが……交易都市より届いた『焼き芋』という料理なのか……?」
魔王が眉をひそめつつ、熱々の芋を二つに割る。
その瞬間、皮の破れ目から黄金色の湯気が立ち上り、ねっとりとした蜜のような甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
集まっていた魔王の家族――王妃、長男、次男の兄弟、長女、次女、三女の三姉妹、そして重臣の大臣たちが一斉に生唾を飲み込む。
「熱いから気をつけなさい、あなた……」
王妃が静かに促すのを聞き、魔王は黄金色の果肉を一口、口に運んだ。
「――っ!?」
次の瞬間、魔王の目が極限まで見開かれた。
舌の上に広がるのは、砂糖など一切加えていないとは思えない、濃厚で上品な極上の甘み。そして滑らかに溶けていくような食感。
「う、美味い……! なんだこの甘さは!? 芋とは、これほどまでに味わい深いものだったのか!?」
魔王の叫びを皮切りに、家族や大臣たちも一斉に焼き芋にかぶりついた。
「父上、すごいです! 皮の香ばしさと中の甘みが絶妙にマッチしています!」
長男が感動に声を震わせれば、次男も夢中で芋を頬張りながら頷く。
「ええ、こんな料理、我が国の歴史上存在しませんでした! 兵の糧食としても最高ですが、何より純粋に美味すぎる……!」
農務部署全権代表のグラディス大臣に至っては、涙をボロボロと流しながら焼き芋を大切そうに味わっていた。
「おお……土壌改良と高効率肥料が生み出した、大地の恵み……! これほどの味覚を我が国の民が味わえる日が来ようとは……!」
そんな感動の嵐の中、焼き芋を綺麗に完食した三姉妹が顔を見合わせ、満足そうに息をついた。
「……素晴らしいわ。単に育てるだけでなく、素材の魅力を極限まで引き出す加工と調理の技術……」
長女が確信に満ちた目で魔王を見つめる。
「お父様。私、決めましたわ。交易都市へ留学いたします」
「……ぬ?」
魔王の手から焼き芋の皮がぽろりと落ちた。
「私も行きますわ、お父様!」
次女が身を乗り出して続く。
「交易都市の最先端の農政と流通システムを学び、我が国の産業をさらに発展させたいのです!」
「私も! 交易都市の魔法技術と料理の文化をもっと知りたいの!」
三女までもが瞳を輝かせて拳を握りしめた。
「なっ……!? りゅ、留学だとぅ!?」
魔王はガバッと立ち上がり、顔を蒼白にして叫んだ。
「だ、ダメだ! 危険すぎる! いくら交易都市と友好関係を結んだとはいえ、あそこには得体の知れない異世界の技術や、どんな奴がいるかもわからんのだぞ! 箱入り娘のお前たちがそんな遠方へ行くなど許ん……!」
「お父様、いつまでそんな古いお考えなのですか?」
長女が冷ややかな、しかし毅然とした視線を向ける。
「あの街の技術と知識を学ばなければ、我が国の本当の発展はありませんわ。それに、向こうの警備と治安維持は完璧だと報告を受けております」
「そうよ、お父様! 私たちだって魔王国の王女として、国の役に立ちたいの!」
「私、アキラ様やタマモ様にお会いして、直接お礼も言いたいの!」
「くっ……! だが、お前たちに何かあったら私は……! 頼むから考え直してくれ! なあ、王妃も何か言ってやってくれ!」
魔王は助けを求めるように王妃に視線を送ったが、王妃は優しく微笑みながらお茶を一口すすった。
「あら、良い考えではありませんか。娘たちが広い世界を学び、国のために尽くしたいと言うのですもの。母親として応援いたしますわ」
「王妃までぇぇぇ!?」
絶叫する魔王の横で、長男と次男は苦笑いを浮かべ、大臣たちは「おお、王女殿下方が交易都市で学ばれれば、我が国の未来は安泰ですな……!」と早くも賛同の声を上げていた。
「大臣たちまで寝返るな! 頼む、行かないでくれぇぇ!!」
威厳あふれるはずの魔王の悲痛な叫びが、焼き芋の甘い香りが漂う食堂に虚しく響き渡るのだった。




