第35話 閑話 お風呂の伝道師
「バカな! 正気の沙汰ではないぞ! 無礼かつ不敬にも程がある!!」
豪奢な絹の衣服に身を包み、肥え太った腹を揺らして激昂しているのは、海洋交易都市群でも指折りの規模を誇る大手「グランヴェール商会」の幹部・バロアであった。
後ろには、高価な商品や試供品を積んだ馬車数台と、大勢の使用人や護衛兵が控え、周囲の商人たちを威圧している。
彼らの前に静かに立ち塞がっているのは、一切の無駄のない動きで身構える交易都市の門番(生体アンドロイド)であった。
「繰り返しご案内いたします、お客様」
門番は一切の感情を乱すことなく、穏やかで丁寧なトーンで語りかける。
「当都市では、外部からの病原菌流入を防ぐ水際対策および衛生維持のため、すべての入城者に外門の『洗浄・消毒施設』にてお身体と衣類を清めていただくことが絶対のルールとなっております。温水シャワーと石鹸をご利用の上、お着替えを行ってください」
「ふざけるなッ!」
バロアは顔を真っ赤にして唾を飛ばした。
「『お風呂』などという忌々しい行為を行えば、皮膚の毛穴が大きく開き、そこから恐ろしい疫病や悪霊の呪いが体内に侵入するというのは世界の常識だ! それを強要するなど、我らを殺す気か! それに……聖堂教会の教義において、身体を濡らして洗うなどという行為は試練を放棄する不敬の極み! 我が商会は敬虔なる聖堂教会の信徒であるぞ!」
バロアは胸を張り、周囲の警備兵や後続の商人たちに見せつけるように威張ってみせた。
「良いか!? 我がグランヴェール商会が動けば、海洋都市国家群におけるお前たちの立場など一瞬で吹き飛ぶのだ! 我らの入門をこのまま無条件で認めぬというのなら、海洋都市群とこの交易都市とのすべての取引を即座に全面停止させ、経済的に孤立させてやるぞ!! 嫌なら今すぐその不潔な洗浄命令を取り下げろ!!」
横暴極まりない脅迫に、周囲の小規模な商人たちは「また大手商会のゴネ得か……」「だが、交易を止められたら困るのでは……」とおそるおそる息を呑んでいた。
しかし、門番のアンドロイドは眉ひとつ動かさず、淡々と答える。
「当都市では、いかなる大商会様であっても衛生規定の例外は認められません。拒否される場合は、大変恐れ入りますが——」
「ちょっと待ちなさいなーーーーーッ!!!!」
その時、街道の脇から鋭い叫び声が響き渡った。
一同が驚いて振り向くと、そこには修道服の裾を翻し、肩を激しく上下させながら息を切らせて走ってくる一人の少女の姿があった。
日課である水濠のほとりでの祈りを捧げるため、たまたま通りかかったシスター・リゼであった。
「な、なんだこの修道女は……?」とバロアが眉をひそめた瞬間、リゼはバシャッと音を立ててバロアの目の前に詰め寄った。その瞳には、炎のような情熱と憤怒がメラメラと燃え盛っている。
「聞き捨てなりませんわッ! あなた様、今『聖堂教会の教義に反する』とおっしゃいましたわね!? 創世の女神様の教典のどこに『お風呂に入ってはならない』などというおぞましい記述がありますのよッ!?」
「ひっ……!? な、なんだお前は! 教義の伝統を知らん青二才が——」
「私は創世の女神様に身を捧げた正真正銘のシスターですわ!」
リゼは胸の聖印をビシッと提示し、至近距離で熱弁を振るい始めた。
「言っておきますけれど! かつて大聖堂で『毛穴から呪いが侵入する』という愚かな迷信を信じ込まされ、月に一度あるかないかの生ぬるい行水で済まされていた私の身にもなってご覧なさい! 身体は常にベタベタと不快で痒く、髪は自分の油でギトギトに固まって雑菌臭を漂わせ、皮膚炎の恐怖に怯える毎日……! あれこそが本当の『地獄』でしたのよ!!」
リゼのあまりに生々しすぎる不衛生被害の暴露に、バロアをはじめとする大商会の男たちは思わず「うぐっ……」と顔を引きつらせて後退りした。
「ですが! この交易都市で体験したあの温かなお湯と、柑橘の香りがする泡立つシャンプー、そしてフカフカのバスタオル……ッ! あれを知った時の感動が分かりますか!? 髪はサラサラ、お肌はツルツル、全身が軽やかになって心の底から生き返る心地がいたしましたわ! 経血の悩みすら清潔な衛生用品で救われるこの街の技術こそ、女神様が与えし真の救済ですのよ!!」
感極まってポロポロと涙を流しながらお風呂の素晴らしさを熱弁するリゼ。その圧倒的な圧力を前に、バロアはタジタジになりながら叫んだ。
「い、いやしかし! 毛穴が開いて病気が……!」
「開いた毛穴は綺麗な水と石鹸で汚れを落とし、しっかり保湿すれば健康そのものですわ! むしろ不衛生な雑菌を溜め込むことこそが病気の元凶ですの! 自分が不潔であることを教義のせいにするのはおやめなさいなッ! それに……『海洋都市との交易を止める』とおっしゃいましたわね!?」
リゼは仁王立ちになり、バロアをビシッと指さした。
「すでに海洋都市群の中小商会連合のマークスさんたちが、この街の清潔さと美味しすぎる日本酒、そして頑丈な鉄器に感動して平和な取引を開始しておられますわ! あなた方が勝手に交易を止めたところで、困るのは時代遅れの不衛生に固執するあなた方の大手商会だけでしてよ!?」
「「「ぐぬぬぬぬ……ッ!!!」」」
バロアと幹部たちは完全に言葉を詰まらせた。
不衛生の現実を突きつける元シスターの鬼気迫る説得と、すでにライバルである中小商会が先行して莫大な利益を得ているという決定的な事実。
門番はタイミングを見計らったように、フッと丁寧にお辞儀をした。
「……シスター・リゼのおっしゃる通りでございます。当都市の洗浄施設は、長旅の疲れを完全に癒やす極上の温水設備を整えております。どうしても受け入れられない場合は、お引き取りいただくほかございません」
バロアは周囲の視線と、先行するライバル商人たちの影、そしてリゼの射殺するような視線に挟まれ、汗だくになりながら崩れ落ちるように頷いた。
「……わ、分かった……入る! 入れば良いのだろう、洗浄施設とやらに……!」
「賢明なご判断でございます。それでは、あちらの施設へどうぞ」
そそくさと降参して洗浄施設へと連行されていく大商会の一行を見送り、リゼは「ふぅ……女神様、本日も正しい道へとお導きいただきありがとうございます」と満足そうに胸の前で手を組んだ。
◇
その頃、執務室のホログラムモニターで一部始終を見ていた遠藤アキラとタマモ。
「……なぁ、タマモ」
アキラがお茶をすすりながら引きつった苦笑いを浮かべる。
「あのシスター……どんどん『お風呂と清潔の伝道師』みたいになってないか?」
「ふふ、マスター」
タマモは九本の白い尾を嬉しそうにパタパタと揺らした。
「真の実体験に裏打ちされた言葉こそ、何よりの説得力を持ちますからね。これで、あの大手商会の方々も、お風呂の素晴らしさに目覚めて素晴らしいお得意様になってくださることでございましょう」
「まあ……さっぱり洗って改心してくれるなら、それに越したことはないな」
アキラは笑うと、お茶を飲み干して爽やかに作業着の袖を捲り上げるのだった。




