第32話 差し出された温もりと真実
第18階層『医療都市』の応接室。白を基調とした温かみのある部屋の中で、三人の高校生――伊藤シン、佐野こずえ、斎藤はじめは、硬直したまま目の前の光景を凝視していた。
自分たちを包み込んでいた激痛や疲労、重力デバフによる関節の違和感は、跡形もなく消え去っていた。そしてテーブルの上に並べられていたのは、大聖堂で与えられていた硬いパンとパサついた肉ではなく、湯気を立てる炊き立ての白いご飯、出汁の香りが漂うお味噌汁、ジューシーなハンバーグ、そして急須から注がれたばかりの温かい緑茶であった。
「……これ、日本の……ご飯……?」
聖女・こずえが、震える声で呟いた。
「治療と空腹補填のプロセスは完了しておりますが、精神的な疲労には温かい食事が一番効果的ですので」
和やかな声とともに、お茶の湯呑みを添えたのは、九本の白い尾を優雅に揺らす少女――管理AIのタマモだった。
「お前たち……一体何者なんだ……!? 俺たちをどうするつもりだ!」
勇者・シンは椅子から立ち上がり、警戒感を剥き出しにして叫んだ。しかし、その手足には一切の縛りも枷もなく、身体は驚くほど軽い。
「まあ落ち着けって。別に取って食おうってわけじゃないんだからさ」
ドアを開けて入ってきたのは、作業着の袖を捲り上げた五十代の男性――遠藤アキラだった。手には人数分の和菓子が載ったお盆が握られている。
「あんた……あの日、電車から森に放り出された時にいた……」
賢者・はじめが眼鏡の奥の目を細め、記憶を辿るように呟いた。召喚されたあの日、大森林で武装集団に囲まれた際、自分たち高校生に「待ってください! 俺たちはどうなるんですか!?」と叫んで連れ去りを止めようとしたのは別の大人(男性)だったが、この目の前の男も、横転した車椅子の女性に真っ先に駆け寄っていた姿を覚えていたのだ。
「俺は遠藤アキラ。まずは座って冷めないうちに食いな。腹が減ってちゃまともな思考もできないだろ」
アキラは気負わない笑顔で湯呑みを置くと、空いている椅子へと腰掛けた。
「おじさんたち……なんで生きているんだよ……!? 教会は言っていたぞ! 森に残された大人たちは無能だから魔物の餌食になったって……! なのに、どうしてこんな立派な街があって、日本の飯があるんだよ!?」
シンの困惑と叫びに対し、廊下から静かな足音が近づいてきた。
「教会の方々は、そう仰っていたのですね」
入ってきたのは、落ち着いた雰囲気を纏う若い女性だった。凛と背筋を伸ばし、自分の足でしっかりと大地を踏みしめて歩いてくる。
「あ……あの時の車椅子の……!?」
こずえが息を呑んだ。召喚された際、車椅子から投げ出されて地べたに倒れ込んでいた女性の姿を鮮明に覚えていたからだ。下半身不随で歩けないはずの彼女が、支えもなしに目の前に立っている。
「はじめまして。佐藤志保と申します。当時は混乱していてお互いに名前も名乗れませんでしたね。三人とも……無事で本当に良かった」
志保は優しく微笑むと、手際よく三人の前にお手拭きを差し出した。
「佐藤……さん……? 足、動くようになったんですか……!?」
はじめの問いに、志保は温かい眼差しで頷いた。
「ええ。アキラさんやタマモさん、そしてこのダンジョンワールドの医療技術のおかげで、損傷していた神経を治療してもらいました。……ここには、悲惨な最後を遂げた人なんて一人もいません。地球から巻き込まれた四十三人全員が、病気やケガを完治させて、元気に暮らしています」
「全員……完治……!?」
シンの頭の中で、大聖堂で神官や聖騎士たちから叩き込まれ続けてきた言葉が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
『森の者たちは既に魔物の餌食となった』
『大森林の要塞は魔王の手先が築いた悪の巣窟である』
『魔王を撃滅せねば地球へ帰ることはできない』
すべてが、自分たちを都合良く操るための「嘘」だったのだ。
「……はじめの言っていた通りだったんだ……」
こずえの目から、溜め込まれていた涙がぽろぽろと溢れ出した。連日の過酷な訓練、失敗すれば責め立てられる恐怖、見知らぬ世界で置き去りにされた孤独感。それらすべてが、大人たちの身勝手な欲望によって捏造された試練だったと知り、肩を震わせて泣き崩れた。
「……教会が僕たちに嘘をついていた理由は、明白ですね」
はじめは静かに胸の奥の動揺を押し殺し、アキラとタマモを見つめた。
「彼らは自分たちの権威を守るため、勇者という戦力を確保し、同時に教会の教理を脅かすこの交易都市の存在を消し去りたかった……。違いますか?」
「正解だ、はじめ君」
アキラはお茶を一口すすり、真剣な眼差しで三人を見つめた。
「教会の連中は、お前たちに『魔王を倒さなければ帰れない』と言ってただろ? だがな、タマモの調査によれば過去の召喚者で教会経由で帰還できた記録はゼロだ。魔王だって、人間を滅ぼそうなんて思っちゃいない。普通に土を耕して飯食ってる連中だ」
「そんな……じゃあ俺たちは、何のために……何のためにあんな酷い訓練を……!」
シンは拳を強く握り締め、悔しさに唇を噛み切らんばかりに震えた。
「シン君」
アキラは静かに、しかし力強い声で呼びかけた。
「悔しいのも、怒るのも当然だ。だけどな、お前たちはもう教会の道具になる必要はない。誰かを倒すための捨て駒になる必要もないんだ」
「でも……! 俺たちが戦わなきゃ、地球に帰れないんだろ!? お父さんやお母さんのところに帰りたいんだよ……!」
叫ぶシンに対し、アキラは優しく首を振った。
「帰る方法なら、俺たちが探す。このダンジョンワールドの技術と情報力を総動員して、安全に地球へ戻る手段を必ず見つけ出す。だから、焦って命を捨てるような真似はするな」
タマモも九本の尾をそっと寄せ、静かに微笑んだ。
「当ダンジョン内には、あなた方と同年代の中学生や高校生たちが通う学校や生活施設も整っております。まずはここで美味しいものを食べ、温かいお風呂に入り、傷ついた心と身体を休めてくださいませ」
「学校……? 異世界で……?」
ポカンとするシンとこずえに対し、はじめはフッと口元を緩めた。
「……なるほど。僕たちが喉から手が出るほど欲しかった『安全』と『日常』が、ここには最初から揃っていたわけですね」
「そういうことだ」
アキラはニシシと笑い、お茶を飲み干すとパンパンと手を叩いた。
「大人の勝手な都合で子供に無理をさせるのは、俺の性に合わないんでね。……まあ、まずはそのハンバーグを食ってみろ。冷めたらもったいないぞ」
差し出された温かいハンバーグとお味噌汁。一口頬張った瞬間、シンとこずえの口の中に、懐かしい地球の味が広がった。
「美味い……っ、すごく……美味いよ……ッ!」
ボロボロと涙を流しながらご飯をかきこむシンとこずえ。はじめもまた、眼鏡を外して目元を拭いながら、静かにお茶を口にした。
そんな彼らの食べっぷりを頼もしそうに眺めていたアキラだったが、ふと思い出したように顎に手を当て、爽やかな笑みを浮かべて付け加えた。
「……あ、そうそう。飯食って落ち着いたら、まずは精密健康診断な。――でもまずは歯医者だな」
「……え?」
ハンバーグを噛みしめていたシンの動きがピタリと止まった。
「あ、あの……歯医者……ですか……?」
こずえがおずおずと尋ねると、タマモが和服の袖から静かにホログラムの診察リストを取り出し、にっこりと微笑んだ。
「ご安心くださいませ。当施設の魔法再生医療を行使すれば、虫歯の処置から歯質の再生までわずか数分で完了いたします。なお、昨夜の生体スキャンの結果、お三方とも初期の虫歯が確認されておりますので、全員残らず治療を行いますね」
「「「………………」」」
応接室に、一瞬で凍りついたような沈黙が訪れた。
さっきまでの感動的な空気はどこへやら、眼を輝かせたエルフや獣人の歯科医たちが待ち構える診療室の光景を察したのか、はじめの眼鏡がツルリと鼻頭からずれ落ちた。
聖堂教会の野心と偽りから解放された勇者たちの「平和な日常への復帰」は、温かいご飯と、容赦のない虫歯一括治療から始まるのであった。




