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第28話 密偵侵入

大森林の樹海を抜け、交易都市・西外門へと続く美しい石畳。

そこに、使い込まれた革の肩掛けかばんに、身を守る最低限の護身用ナイフ、そして懐に十分な金額の硬貨を忍ばせた一人の男が歩いていた。


黒装束も、怪しげな隠蔽魔導具も一切身につけていない。その佇まいは、どこからどう見ても「交易に訪れたしがない小商人」そのものであった。


男の名はアルヴァン。聖堂教会の地下深くに所属する、熟練の隠密捜査官である。

彼はシスター・リゼが育った孤児院で、彼女に教理の手ほどきをした先輩修道士でもあった。


(大部隊で押し寄せ、隠密気取りの怪しい重装備で接近するから『呪い』の標的にされるのだ。この街の噂にある『10人ルール』を回避するには、警戒を抱かせぬ姿で堂々と、単身(1人)で入城するのが最適解……!)


アルヴァンは密かに心の中で口元を歪めた。過剰な隠蔽アイテムなど一蹴し、あえて「完全な一般人」として潜入する。これこそが長年の諜報活動で培った彼の真骨頂であった。


(あの世間知らずで純粋すぎるリゼが匿われ、挙句に教会の部隊が次々と壊滅している……。何か恐ろしい精神汚染か、邪悪な術式がかけられているに違いない。私が必ず連れ戻し、この街の邪悪な真実を暴いてやる)


自信に満ちた足取りで、アルヴァンは入城待ちの列へと静かに並んだ。


-----


列に加わり、周囲の様子を鋭い観察眼で探っていた、その時だった。


「〜〜♪ 〜〜〜♪」


門の方角から、どこか呑気で可憐な鼻歌が風に乗って聞こえてきた。

アルヴァンは身体をわずかに強張らせ、視線だけで音の主を追った。


入城門の脇から軽やかな足取りで姿を現したのは、木綿の修道服の裾をゆらゆらと揺らした少女――シスター・リゼであった。

手にはお気に入りの木製コップを大事そうに抱え、日課である水濠のほとりでの祈りに向かうところらしい。


(なっ……!? リ、リゼ……!??)


アルヴァンは息を呑み、とっさに商人のフリをして目線を下に落とし、全身の気配を極限まで殺した。隠密としての本能が警鐘を鳴らす。かつて大聖堂で密偵の手ほどきをした教え子だ。自分の顔を見られれば、即座に潜入が露呈する――!


心臓が警鐘のように高鳴る中、リゼはアルヴァンのすぐ目の前――わずか数十センチの距離を、ごく普通に通り過ぎていった。


「ふふ〜ん♪ 今日のイチゴかき氷も楽しみですわ〜♪」


リゼはアルヴァンの存在に**一瞬たりとも気づくことなく**、ハチミツのように甘い笑顔で鼻歌を口ずさみながら、トコトコと水濠の草地へと去っていった。


「……………………」


去っていくリゼの無防備すぎる後姿を、アルヴァンは身動きひとつ取れずに見送った。


(ば……バレなかった……ふぅ、危ないところだった……)


安堵の息を漏らそうとしたアルヴァンだったが、直後、猛烈な困惑と脱力感が頭を殴りつけた。


(……いや、待て。気づかなすぎではないか……!? 目の前にかつての先輩が立っていたのだぞ!? 警戒感というものが一微塵もないではないか! 一体どんな能天気な生活を送っていれば、あれほど危機感を欠いた歩き方ができるのだ……!?)


唖然として立ち尽くすアルヴァンの前で、列は静かに進んでいくのだった。


-----


その後、アルヴァンの「決死の潜入計画」は、門をくぐる直前の**最初の関門**であっけなく崩れ去りかけた。


「お客様、入城前の洗浄・消毒施設へどうぞ。温水シャワーと柑橘石鹸をご用意しております」


無表情だが丁寧にお辞儀をする門番(生体アンドロイド)。

アルヴァンは心の中で血の気を引かせた。


(お、お風呂だと……!? 『毛穴を開かせて病や悪霊を体内に侵入させる』というあの不敬な拷問を強制する気か!? だが……ここで拒否して騒ぎを起こせば潜入は失敗する……ぐぬぬ、どこから見ても商人に見えるこの格好を維持するためだ、耐えねば……!)


覚悟を決め、地獄へ飛び込む思いで洗浄室の扉を開けたアルヴァン。


――数分後。


「……あ……あぁ……っ……!?」


ふかふかの真っ白なタオルで髪を拭きながら、アルヴァンは洗浄施設の出口でがくがくと膝を震わせていた。


(な……なんだあの温かなお湯の束は……っ!? 頭皮のギトついた油が泡とともに消え去り、身体の痒みが嘘のように消えた……! 柑橘の甘い香りが全身を包み……肌が、肌がツルツルしている……ッ!?)


あまりの快感と衝撃に、涙がポロポロと溢れ出す。

(バカな……! 教会の教理では『お風呂は体を蝕む試練の放棄』のはず……! なのに、なぜこんなにも心が清らかで、身体が軽いのだ……っ!?)


さらに渡された綿100%の清潔な衣服に袖を通した瞬間、そのサラサラとした肌触りに、アルヴァンは膝から崩れ落ちそうになった。


-----


なんとか正気を保ち、第一区画の市場へと足を踏み入れたアルヴァンは、警戒を強めて周囲を鋭く見回した。


(くっ……惑わされるな! 街のどこかに、我々を監視する邪悪な眼や、空を舞う殺人ドローンがいるはずだ……!)


しかし――いくら気配を探っても、上空や路地裏に自分を追跡するドローンの気配は**一切なかった**。


それもそのはずである。

奉行所の執務室で温かいお茶をすすっていたアキラが、街の防衛設計時に真っ先にこう命じていたからだ。


『一般市民や旅人のプライバシーを24時間ドローンで監視するなんて、気持ち悪いし絶対ダメだろ。防衛線(10人ルール)と門での検疫さえしっかりやってりゃ、街の中ではみんな普通に自由に過ごしてもらえばいいんだよ』


そのため、街の中に「一般人を監視する目」などは最初から存在しなかった。

ただ、人々が普通に買い物をして、笑い合っているだけだった。


(監視がない……? 街の警備兵すら巡回していないだと……!? なぜだ、なぜこれほど無防備なのに、誰も暴動を起こさず、市場が整然と保たれているんだ……!?)


ゴミ一つ落ちていない美しい石畳。

透明な水路から漂う清涼な水の匂い。

そして、水路の脇に設置された「公衆お手洗い」から出てきた男が発した一言に、アルヴァンは耳を疑った。


「やっぱこの紙(トイレットペーパー)、柔らかくて最高だなー。もう葉っぱや藁で拭いてた頃には戻れねぇよ」


(は、葉っぱじゃない……!? 紙で……拭くだと……!?)


カルチャーショックの連続に頭を抱え、クラクラと眩暈を起こすアルヴァン。


やがて、水濠でのお祈りを終えて第一区画の食堂テラス席へと戻ってきたリゼの姿を発見した。


「はいどうぞ、シスター! 今日のお施しの『焼き鳥』と、イチゴシロップたっぷりの『特大かき氷』だよ!」

店主の獣人のオヤジが、極上の笑みで豪華な料理を差し出す。


「まあ……! いつもいつも、私のような無一文の者にこのような温かいお恵みを……! 創世の女神様、そして街の皆様、ありがとうございますわ〜!」


リゼは胸の前でギュッと手を組み、感涙しながら深々と祈りを捧げると、幸せそうに焼き鳥を頬張り、かき氷を口に運んだ。


(な、なんだあの冷たくて赤い輝きを放つお菓子は……!? 大聖堂で与えられていた、カビ臭くて硬いパンとパサついた干し肉とは一体何だったのだ……っ!?)


物陰で生唾を飲み込むアルヴァン。

その時、あまりの気配の強さにリゼがふと振り返った。


「あら……? そこにいらっしゃるのは……アルヴァン様ではありませんか……!?」


「ッ……! 察知されたか……!」

観念したアルヴァンは、商人らしい身なりのまま堂々と歩み出た。


「リゼ……! 無事だったのだな! この街は不気味だ……市民を監視する様子すらないのに、なぜ皆がこんな奇妙な清潔さに包まれている!? 一体どんな術で洗脳されているのだ!」


悲壮感を漂わせるアルヴァンに対し、リゼはポカンと目を丸くした。


「洗脳などされておりませんわ! ここには温かいシャワーがあり、柔らかいお召し物があり……そして、この美味しすぎるイチゴかき氷があるのですわ!」


困惑するアルヴァンの前に、食堂の店主が気を利かせて「イチゴかき氷の小サイズ」をすっと差し出した。

おそるおそるスプーンを取り、一口食べた瞬間――。


シャリッ――。


「………………ッ!??!?!?」


アルヴァンの脳内に、電光石火の衝撃が駆け抜けた。頭にキーンと突き抜ける快感と甘酸っぱいイチゴの風味。


(う、美味い……っ!? 美味すぎる……っ! 我々は今まで、大聖堂のあの暗く不衛生な部屋で何をやっていたのだ……っ!?)


ぽろぽろと涙を流しながらかき氷を完食したアルヴァンは、空の器を見つめ、静かに決意を固めた。


「……リゼ。私は大聖堂へ戻るのをやめる。教会の連中には『商人になりすまして潜入したが、邪悪な術など存在せず、ただ圧倒的に清潔でご飯が美味しい最高の街でした。私はここでハローワークに通い、文字と計算を教えて派遣社員として生きていきます』と報告書を送ることにする」


「まあ……! アルヴァン様、素晴らしいご決断ですわ! 一緒にハローワークへ行きましょう!」




その日の夕方。

奉行所の執務室で、ホログラムモニターに送られてきた「定住申請書」を見ていたアキラとタマモ。


「……なぁ、タマモ」

お茶をすすりながら、アキラが引きつった苦笑いを浮かべる。


「俺、別に監視も追跡もしてないんだが……勝手に商人になりすまして潜入してきて、勝手にかき氷食べて改心した奴がいるんだが」


「ふふ、マスター」

タマモが九本の尾を誇らしげにパタパタと揺らした。


「『普通に快適で、普通に清潔な暮らし』こそが、不衛生な異世界から来た方々にとって最大の衝撃であり、無力化兵器なのでございますね」


「まあ……害意がないならハローワークでしっかり教育受けて、普通に暮らしてもらうか」


「はい、マスター」


こうして、交易都市に忍び込んだ凄腕の潜入者は、一切の武力もドローン監視も使われることなく、ただ「シャワーとイチゴかき氷の普通さ」によって、見事に街の住人へと生まれ変わったのであった。




【作者あとがき・感想】


**作者より**


今回は物語に少し緊張感を持たせるため、厳重な変装と対策を固めた「プロの密偵」を潜入させてみたはずなのですが、リゼを登場させた途端にストーリープロットが別方向に……。


門の前で能天気に鼻歌を歌いながら通り過ぎるリゼと、温かいシャワー&特大イチゴかき氷の前に、あっさりと無力化されてしまいました。


10人ルール(重力デバフ)の「歩く兵器」として猛威を振るうだけでなく、無自覚な「お風呂とかき氷の伝道師」として敵の戦意を根こそぎ奪っていき、作者の思考まで巻き込んでいくリゼ……。

交易都市の最強の防衛システムは、実は彼女なのかもしれません。





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