第12話 両親への思い
夜の静寂が、第1階層の居住区を優しく包み込んでいた。天蓋に広がる疑似夜空には穏やかな星々が瞬き、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っている。隣り合う男女別の共同生活棟の廊下を、静かな足取りで巡回する人影があった。佐藤志保だ。
車椅子での生活を抜け出し、自分の足で大地を踏みしめられるようになってから、彼女の表情からはかつての陰りが消え、穏やかな強さが宿っていた。昼間はリハビリを兼ねて学校や居住区の手伝いをこなし、夜はこうして子供たちの様子を見守るのが彼女の日課となっていた。
女子棟の通路を歩いていた志保は、ある部屋の前でふと足を止めた。
(……えぐっ……ぐすっ……)
扉の向こうから、かすかに漏れ聞こえる小さな息遣い。布団の中に潜り込み、必死に声を殺して泣いている気配だった。志保は静かにドアを押し開け、室内へと足を踏み入れた。
月明かりが差し込む室内で、隣り合ったベッドの布団がかすかに震えていた。泣いていたのは、小学生の女の子――花菜とサチだった。
「……花菜ちゃん、サチちゃん」
志保が優しく声をかけ、ベッドの脇にそっと腰を下ろすと、目元を真っ赤にした二人が布団から顔をのぞかせた。
「志保……お姉ちゃん……」
「ごめんなさい……困らせるつもりじゃ……なかったの……」
周りの大人たちやアキラたちが自分たちを守るために必死になってくれているのを知っているからこそ、二人は我が儘を言って困らせまいと、ずっと感情を抑え込んでいたのだ。自分たちのことで精一杯な状況だからこそ、幼いながらに周囲を思いやろうとする健気で優しい心――。
「謝らなくていいのよ。辛かったよね……。思っていること、全部話してごらん?」
志保が温かく包み込むように囁くと、溢れ出る涙とともに、二人の口から抑えていた感情が言葉となって溢れ出した。
「おとうさん……おかあさん……いまごろ、すごく探してると思うの……」
花菜がしゃくりあげながら、小さな声を震わせる。
「“ただいま”って言えなかった……。お夕飯の匂いがして……お母さんが『おかえり』って言ってくれるいつものお家に戻りたい……。お母さんに、会いたいよぉ……っ」
サチも志保の服の裾をぎゅっと握りしめ、ボロボロと涙を流した。
「ここ……空も街も綺麗だけど、地球じゃないんだよね……? お空に知らない月が浮かんでて、すごく怖いの……。あたしたち、ずっとこのまま……お父さんたちに会えないのかな……? ずっとここにいなきゃいけないの……?」
突然の異世界召喚、親しい両親や友達と引き裂かれた環境、そして見知らぬ世界への底知れぬ不安。大人たちの前では必死に笑顔を見せていた小さな二人が抱え込むには、あまりにも重すぎる寂しさと恐怖だった。
志保の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
(お父さん……お母さん……)
「お母さんに会いたい」という二人の悲痛な叫びは、そのまま志保自身の胸の奥深くにも突き刺さっていた。
車椅子での不自由な生活の中、自分を支え続けてくれた両親の顔が脳裏をよぎる。理不尽な事故で足を失い、幾度となく自暴自棄になって当たってしまった時も、両親は決して見捨てず、ただ黙って温かく寄り添ってくれていた。
(私がいなくなって……お父さんたち、どれほど心配しているだろう。泣いているかもしれない……)
突然姿を消してしまった自分を想う両親の痛切な痛みが想像でき、志保自身の目にも思わず熱いものが込み上げてくる。しかし、今この場所で立ち尽くし、二人と一緒に泣き崩れるわけにはいかない。
「不安だったよね……怖かったよね。お父さんやお母さんのこと、大好きだもんね……」
志保は愛おしさを込めて、二人をまとめて優しく抱きしめた。二人は堪えきれなくなり、志保の胸に顔をうずめて声を上げて泣き出した。
志保は二人の背中を優しく擦りながら、かつての自分に思いをはせていた。
事故で足を奪われ、未来に絶望し、心まで色褪せていた自分。異世界へ引きずり出されたときも、歩けるようになることすら恐怖に感じていた。そんな自分に見返りを求めず、ただ「困っている人がいたら助ける」と温かい手を差し伸べてくれたアキラやタマモ。彼らの救いがあったからこそ、自分は今、こうして自分の足で立ち、未来を向くことができている。
(救われた私だからこそ、できることがある……)
両親に愛されて育ってきた記憶、そしてアキラたちから受け取った温もり。それらを自分だけのものにしておきたくはなかった。大切な人から受け取った恩や優しさを、今度は自分がこの幼い二人へ繋いでいきたい――その強い思いが、志保の心を満たしていく。
「大丈夫よ。アキラさんも、タマモさんも、私も……みんながあなたたちを絶対に一人になんてさせないから。寂しい時はいつでも泣いていいし、お父さんやお母さんの話、たくさん聞かせて。私がずっと側にいるからね」
志保の温かい言葉と抱擁に包まれながら、二人の泣き声は次第に小さくなり、やがて安心したように安らかな寝息へと変わっていった。
二人がしっかりと眠りについたのを見届け、志保は優しく布団をかけ直した。
部屋を後にした志保は、夜風が心地よい廊下の窓辺に立ち、夜空を見上げた。
自分を縛り付けていた過去の傷や、元の世界に残してきた家族への愛おしさは、簡単に消えるものではない。けれど、こうして誰かの不安を和らげ、受け取った優しさを繋いでいくことができる。
一歩、また一歩と前へ踏み出す志保の瞳には、夜明けに向かう新しい世界と同じ、確かな光が宿っていた。




