第9話 拾った人が起きました
知らない天井だった。
レオナールク・ヴァイスフェルトは、しばらくそれを見ていた。
木の天井。
見覚えがない。
自分がなぜここにいるのかも、すぐには分からなかった。
考えようとする。
頭が重い。身体も重い。ひどく長い眠りから無理やり起こされたような感覚がある。
ここはどこだ。
なぜ寝ている。
最後に何をしていた。
出てこない。
普段なら、目を開けた瞬間には周囲の状況を確認している。出入口、窓、人の気配、自分の身体、武器、逃走経路。
それが今は、天井を見ているだけだった。
「…………」
しばらくして、ようやく視線だけを動かした。
本棚。調合台。薬瓶。乾燥させた植物。小さな鍋。床には何冊もの古い帳面が散らばっている。
寝台。
そうだ。
自分は知らない寝台に寝ている。
誰のものだ。
さらに視線を動かす。
寝台のすぐ横に、毛布の塊があった。そこから淡い髪が出ている。
少女が寝ていた。
床で。
その背中に、クリーム色の狐らしきものがぴったりとくっついている。
「…………?」
なぜ狐がいる。
レオナールは眉を寄せた。
すると、眠っていると思っていた狐の片耳がぴくりと動いた。
ゆっくりと顔を上げる。
目が合った。
「…………」
「…………」
しばらく、男と狐は無言で見つめ合った。
「キュ」
狐が小さく鳴いた。
その声には、どういうわけか「動くな」と言われたような気がした。
レオナールは身体を起こそうとした。
「っ……」
腕に力が入らない。その瞬間、頭の奥が強く痛んだ。
レオナールは眉を寄せ、再び身体を寝台へ戻した。
それでも、さっきより意識ははっきりしてきている。
視線を動かす。
剣は――。
壁際にあった。鞘に収められたまま置かれている。手を伸ばしても届かない。
その瞬間、ぼんやりしていた意識の一部が戻った。
身体を確認する。
痛みは少ない。外傷もほとんどない。それなのに力が入らない。
記憶。
街道。
腕。
痛み。
そして――毒。
そこまで考えたところで、床の少女が動いた。
「ん……」
ゆっくり目を開ける。
しばらく瞬きをして、寝台を見る。
「あ」
目が合った。
「起きましたか」
レオナールは答えなかった。
少女は身体を起こした。寝起きのため髪が少し乱れている。
「気分はどうです?」
「……ここはどこだ」
「馬車です」
それは見れば分かる。
「なぜ俺は馬車にいる」
「拾ったからです」
「…………」
意味が分からない。
レオナールが黙っていると、少女は少し考えた。
「街道の横に落ちていました」
「落ちて……」
「倒れていました」
「そういう意味か」
「はい」
頭痛がする。
「いつだ」
「昨日です」
昨日。
街道。
腕。
痛み。
そして――毒。
記憶が急につながった。
レオナールの目から眠気が消えた。
窓、一つ。
扉、一つ。
人の気配は少女と狐だけ。
剣は壁際。
荷物はある。
外套もある。
ほかに人の気配はない。
少女を見る。
若い。
武器は見当たらない。
「動かないでください」
少女が言った。
レオナールは無視して身体を起こそうとした。
「まだ駄目です」
「俺の荷物は?」
「壁際にまとめてあります」
レオナールは視線を向けた。
剣のそばに鞄が置かれている。外套も畳まれていた。
「中を見たか?」
「いいえ」
「何も?」
「触ってはいません。剣は邪魔だったので外しましたけど」
レオナールは少女を見る。
少なくとも、所持品を探られた形跡はなさそうだった。
「あなたの身体には触りました」
「……身体?」
「外套を脱がせて、服も少し緩めました。毒がどこから入ったのか調べる必要があったので」
そう言って、少女はレオナールの右腕へ視線を落とした。
「ここです。肘の少し上に、小さな刺し傷がありました」
レオナールも右腕を見る。
覚えがある。
「毒だと分かったのか」
「はい」
フィリエンヌは頷いた。
「毒はかなり減っています。でも完全に抜けたかは、まだ分かりません」
「……お前が解毒したのか?」
「はい」
簡単に答える。
レオナールは調合台を見た。
鍋。薬草。使われた器。床に散らばった古い帳面。
それから少女を見る。
「何の毒だった」
「分かりません」
「…………何?」
「知らない毒でした」
あまりにも平然と言うので、レオナールは一瞬言葉を失った。
「知らない毒を解毒したのか?」
「完全な解毒ではありません。師匠の備忘録に似た症例があったので、それを参考に薬を作りました」
「似た症例?」
「はい。完全には同じではありませんでした」
レオナールは少女を見つめた。
少女も見返す。
何かおかしなことを言った自覚はなさそうだった。
「……名前は」
「フィリエンヌです。フィリエンヌ・クラルヴェーゼ」
そして足元を見る。
「こちらはシュネリュです」
「キュ」
狐が鳴いた。
「綿雲狐です」
レオナールは狐を見る。
シュネリュもレオナールを見る。
あまり歓迎されてはいないらしい。
「あなたは?」
一瞬、答えるのをためらった。
「……レオナールク」
「レオナールクさん」
「レオナールでいい」
「では、レオナール」
あっさり呼び捨てになった。
レオナールは訂正しなかった。
フィリエンヌが手を伸ばす。
「もう一度診ます」
「必要ない」
「必要です」
「もう意識は戻った」
「意識が戻ることと、毒が抜けることは別です」
手をかざされる。
「走査」
レオナールの眉がわずかに動いた。
フィリエンヌはそれに気づかず、目を閉じたまま状態を確認している。
「魔力の流れはかなり戻っています。臓器への負担も減っています。血中の異物反応も――」
「待て」
フィリエンヌが目を開けた。
「はい?」
「今のは走査か?」
「そうです」
何を聞かれているのか分からないらしく、フィリエンヌは首を傾げた。
レオナールは少し黙ってから尋ねた。
「……どこまで分かる?」
「どこまで?」
「今、俺の何を見ていた」
「魔力の流れと、内臓の状態と、血液の中に残っている毒です」
「血液の中まで見えるのか?」
「見えますよ」
当然のことのように答えられた。
レオナールはフィリエンヌを見つめた。
「他には?」
「骨や血流、異物反応……あとは身体の中で傷んでいるところですね」
「それを全部、走査で?」
「はい」
レオナールは黙った。
走査は珍しい魔法ではない。治療院でも使われているし、魔法を扱える者なら知っている者も多い。
だが、こんなものではなかった。
少なくとも、血液の中に残った毒を追い、臓器ごとの状態を見分け、魔力の流れまで同時に読み取るような魔法ではない。
「誰に教わった?」
「師匠です」
「師匠?」
「オルテンシアという調合師です」
その名前を口にしたフィリエンヌは、何の疑問も抱いていない顔をしていた。
自分がしていることを、本当に普通の走査だと思っているらしい。
「何か変ですか?」
「……いや」
レオナールはそれ以上聞かなかった。
今はまだ、身体がまともに動かない。
それに、目の前の少女自身が何も知らないのなら、問い詰めても答えは出ない。
「では、続けますね」
「ああ」
フィリエンヌは再び手をかざした。
レオナールは今度は黙って、その魔法を受けた。
「まだ安静にしてください」
「どのくらいだ」
「今日いっぱいは寝ていた方がいいです」
「必要ない」
「必要です」
「俺の身体だ」
「今は私の患者です」
「…………」
レオナールは、どうやら自分が毒で倒れ、見知らぬ調合師に拾われ、その少女の寝台で一昼夜眠り続けていたらしいという事実を、ようやく理解し始めた。
「……お前」
「はい?」
「どこで寝ていた」
フィリエンヌが床を指した。
「そこです」
「昨夜も?」
「ほとんど寝ていません。朝になってから少しだけ」
「床で?」
「はい」
今度はフィリエンヌが不思議そうな顔をした。
「寝台が一つしかありませんから」
「…………」
「毒に侵されている人を床には寝かせられません」
あまりにも当然のように言う。
レオナールは自分が寝ている場所を見た。
小さな寝台。
枕元には薬草の香りがわずかに残っている。
「俺はもう起きた」
「はい」
「なら、寝台を返す」
レオナールは身体を起こし、足を床へ下ろした。
「まだ――」
「問題ない」
立ち上がる。
一歩踏み出したところで、突然視界が揺れた。
「……っ」
「危ない」
身体が傾く。
フィリエンヌが咄嗟にレオナールの腕を両手で抱え込んだ。
「お、重いです」
「……悪い」
フィリエンヌ一人では支えきれない。
レオナールも咄嗟に寝台の縁へ手をつき、どうにか転倒だけは免れた。
「だから、まだ駄目だと言ったんです」
「……そうらしいな」
フィリエンヌに腕を支えられたまま、レオナールは再び寝台へ腰を下ろした。
そのまま横になると、思った以上に息が上がっている。
「今日は寝ていてください」
「…………」
「立つのは禁止です」
「そこまでか?」
「今、倒れかけました」
「…………」
「禁止です」
反論できなかった。
寝台の脇では、シュネリュが呆れたような顔でレオナールを見ている。
フィリエンヌはレオナールが横になったのを確認すると、寝台の端へずれていた枕を直した。
「寝台のことは、元気になってから考えましょう」
「……考える?」
「私も寝る場所が必要なので」
「…………」
レオナールは床に敷かれた毛布を見た。
どうやら、自分がまともに動けるようになるまで、フィリエンヌは自分の寝台を使わせるつもりらしい。
レオナールは天井を見た。
知らない天井。
知らない馬車。
知らない調合師。
知らない狐。
少なくとも、自分がなぜここにいるのかは分かった。
フィリエンヌは調合台へ向かい、薬の入った器を手に取った。
「次の薬です」
「……まだ飲むのか」
「患者ですから」
「それはもう聞いた」
フィリエンヌは器を差し出した。
レオナールはしばらく中身を見たあと、それを受け取った。
知らない調合師が作った、何の毒に対するものかも分からない薬。
本来なら、成分を確かめず口にすることなどない。
それでも、この少女が自分を殺すつもりなら、意識のない間にいくらでも機会はあった。
レオナールは薬を飲んだ。
苦い。
「…………」
「苦いですか?」
「苦い」
「薬ですから」
「そういう問題か?」
フィリエンヌは少し考えた。
「効きますよ」
「……ならいい」
レオナールは空になった器を返した。
フィリエンヌは受け取ると、何事もなかったように調合台へ戻っていく。
シュネリュはまだこちらを見張っている。
レオナールは枕へ頭を戻した。
身体は思った以上に動かない。
今は、この奇妙な馬車の中で休むしかなさそうだった。
拾った男「レオナール」今までの常識が通じない女に出会う。この女と会話が出来ることを願う、切実に・・・




