第8話 知らない毒でした
次のページには、薬の作り方が書かれていなかった。
「…………」
フィリエンヌはもう一度、前のページへ戻った。そして次のページをめくる。
ない。
「師匠」
さらにめくる。
「肝心なところがありません」
もちろん返事はない。残されているのは観察記録だけだった。
『黒斑蛇の毒に似る。だが違う』
『魔力の流れに食いつく。自然毒じゃない可能性あり』
その下に、小さな文字が続いている。
『魔力が多いほど悪化が早い』
フィリエンヌは寝台の男を見た。
「魔力……」
もう一度走査する。
これまで毒の反応ばかりを追っていた。今度は男自身の魔力を見る。
その瞬間。
「……え?」
フィリエンヌの手が止まった。
多い。
どのくらい多いのか、うまく判断できない。オルテンシア以外の魔法使いを詳しく走査した経験が少ないせいもある。
ただ、普通ではないことだけは分かった。
身体中を巡るはずの魔力が毒によって乱されている。それでもなお、信じられないほどの量がある。
「だから、こんなに……」
毒そのものだけが強いのではない。
この毒は、男自身の魔力を利用しているのかもしれない。
魔力が多いほど毒の作用が強くなるのなら、この男にとっては普通の人間よりはるかに危険だ。
フィリエンヌは備忘録へ視線を戻した。
ページの端に、さらに一行。
『解毒を急ぐな。先に魔力循環を抑えろ』
「……急いでは駄目?」
普通なら毒は早く身体から出した方がいい。けれどオルテンシアは逆のことを書いている。
なぜ。
フィリエンヌは床へ座り込み、帳面を膝に置いた。
考える。
毒が魔力の流れに食いついている。その状態で一気に解毒しようとすれば――。
「……毒も一緒に流れる?」
魔力循環が活発になれば、残った毒がさらに身体中へ運ばれる可能性がある。
ならば先に、魔力の流れを穏やかにする。完全に止めれば身体へ負担がかかる。弱めるだけ。
それから毒を分解する。
フィリエンヌは立ち上がった。
「シュネリュ。しばらく静かにしてください」
「キュ」
調合台へ向かい、必要なものを並べる。
魔力の流れを鎮める静脈花。
毒素を吸着する白炭苔。
内臓を保護する蜜樹皮。
刺激を和らげる青月草。
しかし、これだけでは足りない。
毒そのものへ作用するものが必要だった。
棚を探す。
「……これ」
小さな瓶を取った。
中には銀色がかった粉末が入っている。
月殻貝の殻を細かく砕いたもの。毒物の成分を吸着する素材として使われるが、量を間違えると必要な薬効成分まで吸着してしまう。
「少しだけ」
量を測る。
調合鍋へ水を入れ、静脈花を刻む。蜜樹皮を削り、白炭苔を細かくほぐす。
指先を鍋へ向ける。
ぽっ。
小さな火が灯った。
薬液を熱する。
急いではいけない。
温度を上げすぎれば静脈花の成分が壊れる。低すぎれば白炭苔から必要な成分が出ない。
その間に許される温度の幅は狭かった。
けれどフィリエンヌには、それほど難しいことではない。
火を小さくする必要もない。大きくする必要もない。
同じままにしておけばいい。
一時間。
火は変わらない。
二時間。
変わらない。
三時間。
やはり変わらない。
フィリエンヌは途中で何度も寝台へ行き、走査を繰り返した。
男の状態は少しずつ悪くなっている。
焦る。
けれど火は変えない。
薬は急がせることができない。
「もう少しです」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
鍋へ戻る。
薬液の色が薄い灰青色へ変わる。
予定していた色だ。
ここで月殻貝の粉末をほんの少し加える。
混ぜる。
火を保つ。
さらに待つ。
夜になっていた。馬車の中を照らす灯りの中で、調合鍋の下には小さな炎が変わらず灯っている。
フィリエンヌは寝台へ戻った。
「走査」
呼吸は浅い。
意識は戻らない。
魔力の流れに絡みついた毒は、まだ男の身体を蝕んでいる。
けれど脈はある。
「もう少し待っていてください」
眠っている男に聞こえているはずはない。
それでもフィリエンヌはそう言って、調合台へ戻った。
薬液を確認する。
「できました」
ただし、ここからが問題だった。
いきなり大量に飲ませることはできない。
少量を器へ移し、男の身体を少し起こす。ほんのわずかずつ口へ含ませると、喉が動いた。
飲み込んだ。
フィリエンヌは男を寝台へ戻して待った。
「走査」
まだ変化はない。
さらに待つ。
もう一度走査する。
異物反応が、ほんの少しだけ弱くなっている。
「……効いています」
そこで初めて、フィリエンヌは息を吐いた。
けれど安心するには早い。
時間を置いて二度目の薬を飲ませる。
待つ。
走査。
三度目。
走査。
毒の反応はゆっくりと下がっていった。
それでも男は目を覚まさなかった。
夜は深くなった。
フィリエンヌは寝台脇の床へ座り、壁にもたれた。男は自分の寝台に寝ている。
今夜、自分が寝る場所はない。
床を見る。
「ここでいいですね」
シュネリュがフィリエンヌを見る。
「一晩くらいなら平気です」
余っていた布を畳んで敷き、毛布を持ってくる。市場で二枚目を買わなかったことを少しだけ思い出した。
「……もう一枚あってもよかったですね」
「キュ」
「今言っても仕方ありません」
毛布に包まる。
シュネリュがその横へ来て身体を丸めた。
暖かい。
「シュネリュは便利ですね」
「キュ?」
「暖かいです」
シュネリュの尻尾が少し膨らんだ。
けれど、まだ眠れない。
フィリエンヌは何度も起きて走査した。
深夜。
毒性反応――低下。
魔力循環――少しずつ安定。
呼吸――改善。
それでも意識は戻らない。
フィリエンヌは男の額へ手を当てた。冷たい汗は減っている。
「大丈夫です。薬は効いています」
男から返事はない。
シュネリュだけが小さく、
「キュ」
と鳴いた。
朝の光が小さな窓から差し込む頃、フィリエンヌはもう一度、寝台の横へ座った。
「走査」
生命活動――安定。
毒性反応――危険域を脱している。
魔力循環――回復傾向。
フィリエンヌはしばらく目を閉じたまま、その状態を確認した。
もう一度。
同じ。
ようやく手を下ろす。
「……よかった」
肩から力が抜けた。
眠い。
ひどく眠い。
いつからきちんと寝ていないのか、よく分からなくなっていた。
少しだけ目を閉じよう。
寝台の横なら、何かあればすぐ分かる。
フィリエンヌは毛布へ潜り込んだ。シュネリュが背中へくっつく。
「少しだけ……」
目を閉じる。
数秒もしないうちに、眠っていた。
寝台の男は、まだ静かに眠っていた。
道端に「落ちてた」男、この男の正体は? フィリエンヌは気にしなさそうだけどね




