第7話 道端に男が落ちていました
人だった。
街道から少し外れた草地に、男が倒れている。うつ伏せに近い姿勢で、片腕だけが不自然に投げ出されていた。
「止まってください」
フィリエンヌが操作板へ声をかけると、馬車がゆっくりと速度を落とした。完全に止まるより早く、シュネリュが御者台から飛び降りる。
「シュネリュ、待ってください」
フィリエンヌも外へ出て、春の草を踏みながら男へ近づいた。
シュネリュは数歩手前で止まっていた。耳を伏せ、低く身構えている。普段ならふわふわしている尻尾が大きく膨らんでいた。
「キュゥ……」
「知っている人ですか?」
「キュ!」
違うらしい。
フィリエンヌは男のそばに膝をつき、まず首筋へ指を当てた。
脈はある。弱い。
呼吸もしている。ただし浅い。
「生きています」
男はかなり大きかった。フィリエンヌより頭二つ分ほどは背が高そうだ。黒に近い外套を身につけ、腰には剣がある。旅人にしては上等な装備だった。
けれどフィリエンヌが最初に気にしたのは、剣でも服でも顔でもなかった。
額に触れる。熱はそれほど高くない。顔色が悪い。唇にも血の気がない。額には冷たい汗。指先を見ると、爪の色もおかしい。
外から見える大きな出血はなかった。
「どうして倒れているんでしょう」
シュネリュが答えられるはずもない。
フィリエンヌは男の身体へ手をかざした。
「走査」
意識を集中させる。
頭部――大きな損傷なし。
骨格――骨折なし。
外傷――軽微。
失血――問題となる量ではない。
そこまで確認して、フィリエンヌは眉を寄せた。
おかしい。
呼吸機能が低下している。心機能にも異常があり、複数の臓器に負荷がかかっている。それだけではない。魔力の流れがひどく乱れていた。
もう一度、深く走査する。
血中――強い異物反応。
「……異物反応?」
血中に何かがある。
先日診た子供とは比べものにならない。身体のあちこちへ広がり、特に魔力の通り道へ絡みつくように反応している。
「毒……?」
フィリエンヌの表情が変わった。
もう一度確認する。
間違いない。
「シュネリュ。この人、馬車に運びます」
「キュ!?」
「ここには置いておけません」
「キュゥ……」
シュネリュは明らかに反対していた。知らない人間で、しかも武器を持っている。
「でも、放っておいたら死ぬかもしれません」
シュネリュが黙った。
「運ぶのを手伝ってください」
「キュ」
シュネリュが男を見る。自分を見る。そしてフィリエンヌを見る。
どう考えても無理だった。
「……そうですね」
フィリエンヌも気づいた。
とりあえず男の肩へ手を入れて持ち上げようとする。
「ん……っ」
動かない。
もう一度力を入れる。
「……重いです」
成人男性なので当然だった。
足を引っ張っていくことも考えたが、患者を地面の上で引きずるのはよろしくない。
そこでフィリエンヌは馬車へ戻った。
オルテンシアがこの馬車で旅をしていた頃、大きな荷箱や調合材料を積み込むために使っていた簡易牽引具が後部に収納されている。古い魔導具だが、まだ動いた。
幅の広い布を男の身体の下へ通し、牽引具につなぐ。
「ゆっくりお願いします」
魔導具が低く音を立てた。
男の身体が少しずつ持ち上がる。
「頭をぶつけないように……」
フィリエンヌが支え、どうにか馬車の中へ運び込んだ。
問題はその先だった。
床へ直接寝かせるわけにはいかない。調合台の上など論外。椅子では身体を休められない。
残るのは一つしかなかった。
フィリエンヌは自分の寝台を見る。
「ここですね」
「キュ」
シュネリュが何か言いたそうだった。
「患者ですから」
寝台を譲ることにした。
男を仰向けに寝かせる。剣は邪魔になるので腰から外し、手の届かない壁際へ置いた。
フィリエンヌは改めて状態を確認した。
外套を外す。襟元を緩め、袖をまくる。
目立つ傷はない。
「毒なら、どこから入ったんでしょう」
食事からなら侵入口は見つからない。しかし、今の反応には少し違和感がある。
走査で異物反応の濃い場所を追う。
右腕。肘より少し上。
「……ここ?」
よく見なければ分からないほど小さな傷があった。針で刺したような点で、周囲がほんのわずかに青黒く変色している。
フィリエンヌは傷の近くへ手をかざした。
「走査」
反応が強い。
「ここから入っています」
問題は、その先だった。
何の毒なのか。
フィリエンヌは知っている毒を頭の中で順番に照合した。
蛇毒。虫毒。植物毒。鉱物毒。魔物由来の毒。
合わない。
もう一度走査する。
やはり分からない。
「……知らない毒です」
その言葉を口にした途端、胸の奥が少しだけ重くなった。
知らない。
それは調合師にとって、とても怖い言葉だった。
毒の種類が分からなければ、正しい解毒薬も分からない。似た症状だからと薬を選べば、かえって悪化させることもある。
男の呼吸は浅いままだった。
時間もあまりない。
フィリエンヌは立ち上がった。
「師匠の本」
馬車には、オルテンシアが残した本が大量に積んである。
そして、その中には本屋で買えるものとは別に、何冊もの古びた帳面があった。オルテンシアが旅をしていた頃から書き続けていたものだ。
薬草。毒。魔物素材。調合。症例。失敗。
ときどき料理の感想。
分類方法は、本人にしか分からない。表紙にも番号しか書かれていなかった。
フィリエンヌは棚から何冊も引き抜いた。
「毒……毒……」
一冊開く。
『東の湿地。虫が多い。二度と行かない』
「違います」
次。
『青月草は若葉を使うな。苦い上に効かない』
「これも違います」
次。
『紫。苦い。舐めるな。三日寝込んだ』
「師匠、どうして舐めたんですか」
亡くなった本人から返事はない。
床へ帳面が増えていく。
シュネリュは寝台の近くから動かなかった。男を警戒しながら、ときどきフィリエンヌを見る。
フィリエンヌはページをめくり続けた。
毒の症状。魔力異常。刺し傷。
何か。
何か似たものがあったはずだ。
師匠が昔、話していた。
何だっただろう。
帳面をもう一冊開く。
途中までめくった手が止まった。
古いページ。端が少し破れている。
そこには簡単な人体の絵が描かれていた。腕に小さな点。そこから身体中へ黒い線が広がっている。
横には、オルテンシアの癖のある文字。
『黒斑蛇の毒に似る。だが違う』
フィリエンヌは寝台の男を見る。
もう一度、帳面を見る。
その下には続きがあった。
『魔力の流れに食いつく。自然毒じゃない可能性あり』
「……これ」
完全に同じかは分からない。
けれど、似ている。
フィリエンヌは帳面を持って寝台へ戻った。
男の身体へ手をかざす。
「走査」
魔力の流れに沿って広がる異物反応。
帳面の記録。
小さな刺し傷。
一致する部分が多い。
けれど、何かが違う。
フィリエンヌはページと男を何度も見比べた。
「似ています。でも……少し違います」
シュネリュの耳が動いた。
フィリエンヌは次のページをめくった。




