第10話 患者は寝ていてください
目を覚ました翌日になっても、レオナールは患者だった。
少なくともフィリエンヌの中ではそうだった。
「起きていいか?」
「駄目です」
「昨日より動ける」
「昨日は倒れかけました」
「今日は倒れない」
「昨日も問題ないと言っていました」
「…………」
反論しにくかった。
レオナールは寝台へ戻った。
シュネリュがその様子を床から見ている。
「キュ」
「お前は何だ」
「キュ」
「会話にならないな」
「シュネリュです」
「それは知っている」
フィリエンヌは調合台で薬を作っていた。
朝からずっと同じ場所にいる。
薬草を刻み、量を測り、鍋へ入れる。指先に小さな火を灯してからは、ほとんど動かない。
レオナールはしばらくその様子を見ていた。
「……ずっとその火なのか?」
「はい」
「火力を変えなくていいのか」
「変えたら駄目です」
「何時間だ」
「これは四時間くらいです」
「四時間?」
フィリエンヌが頷く。
「温度を変えない方がきれいに抽出できます」
「四時間、同じ火力を維持するのか?」
「はい」
何でもないことのように言う。
レオナールは鍋の下を見た。
小さな炎だった。
本当に小さい。蝋燭に火をつける程度しかない。
だが、揺らぎがほとんどない。
魔力による火は術者の状態に影響される。呼吸、集中、疲労。長時間維持すればわずかな変動は避けられない。
まして四時間となれば、普通は魔導具を使う。
フィリエンヌの火には、それがない。
「お前、火魔法が得意なのか?」
「苦手です」
「…………」
「弱い火しか出せません」
「そういう意味では――」
レオナールは言いかけてやめた。
まただ。
走査のときと同じだった。
本人の認識と、実際にしていることが噛み合っていない。
「師匠にも、弱い火しか使えないと言われました」
「オルテンシアか?」
「はい」
フィリエンヌは鍋を見ている。
レオナールも鍋を見る。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
オルテンシア。
覚えておく必要がありそうな名前だった。
昼近くになると、フィリエンヌが火を消した。
「できました」
薬液を瓶へ移していく。
レオナールは寝台からその作業を眺めていた。
「俺の薬か?」
「違います」
「違うのか」
「咳止めです。次の町で売ります」
「売る?」
フィリエンヌが顔を上げる。
「はい。今日は町へ行って、お店を開こうと思っています」
「この馬車で?」
「はい」
「俺も乗ったまま?」
「はい」
レオナールは窓を見る。
馬車は止まっている。
「……今、どこにいる」
「街道の脇です」
「町までどのくらいだ」
「分かりません」
「地図は?」
「あります」
「なら分かるだろう」
「馬車に行き先を伝えれば着くので、あまり見ません」
「…………」
レオナールは額を押さえた。
毒のせいではない頭痛がした気がした。
「どこの町へ行くつもりだ」
「リュセールです」
「リュセールなら、ここから北東へ半日ほどだ」
「詳しいですね」
「地図を見れば分かる」
フィリエンヌが壁に掛けてある地図を見る。
「本当ですね」
「今初めて確認したのか?」
「はい」
「…………」
シュネリュがレオナールを見る。
「キュ」
「何だ」
「キュ」
「俺に何を言わせたい」
フィリエンヌは気にせず、薬瓶を箱へ詰め始めた。
「では、リュセールへ行きます」
御者台の操作板へ行き先を告げる。
馬車がゆっくり動き始めた。
「お前が御者をするわけではないのか」
「必要ありません。行き先を伝えれば走ります」
「馬もか?」
「はい」
「……あれは普通の馬じゃないのか」
「魔法馬だそうです」
「魔法馬?」
「師匠から詳しく聞いていません」
「調べなかったのか?」
「走るので」
「…………」
レオナールは再び額を押さえた。
昼過ぎ。
馬車は問題なく街道を進んでいた。
フィリエンヌは調合材料を整理している。
レオナールは寝台にいる。
シュネリュは窓から外を見ている。
妙に平和だった。
平和すぎて、レオナールには落ち着かなかった。
「なあ」
「はい?」
「お前、一人で旅をしているのか」
「シュネリュもいます」
「人間の話だ」
「一人です」
「いつから?」
「少し前からです」
「家族は?」
「いません」
答えが短かった。
レオナールはそれ以上聞かなかった。
フィリエンヌも何も付け加えない。
代わりに棚から乾燥した植物を取り出した。
「星露草が少なくなりました」
「町で買うのか?」
「生えていたら採ります」
「どこに?」
「森とか」
「一人で?」
「はい」
「魔物が出たら?」
「逃げます」
「戦えないのか?」
「蝋燭に火をつけるくらいなら」
「…………」
レオナールは目を閉じた。
「よく今まで無事だったな」
「そうですか?ありがとうございます」
「褒めていない」
「そうなんですね」
シュネリュが、
「キュ」
と鳴いた。
夕方前、馬車が止まった。
リュセールへ着いたのかと思ったが、フィリエンヌが窓を見る。
「あ」
「どうした」
「星露草です」
街道脇の林を指していた。
「少し採ってきます」
「待て」
「はい?」
「一人で行くな」
「すぐそこですよ」
「森だろう」
「林です」
「同じだ」
「違います」
「俺からすれば同じだ」
フィリエンヌは少し考えた。
「では、シュネリュと行きます」
「キュ!」
「狐を増やしたところで安心できるか」
レオナールは寝台から起き上がった。
「俺も行く」
「駄目です」
「もう歩ける」
「昨日倒れました」
「今日は倒れない」
「それも聞きました」
フィリエンヌは採取籠を持った。
「待っていてください」
「待て」
扉が閉まる。
シュネリュもついていった。
「…………」
馬車に一人残された。
静かだった。
レオナールはしばらく扉を見ていた。
五分。
十分。
「……遅くないか?」
まだ戻らない。
十五分。
「…………」
二十分を過ぎたところで、レオナールは寝台から立った。
今度は視界は揺れなかった。
剣を取る。
扉へ向かう。
そこで外から声がした。
「戻りました」
扉が開く。
フィリエンヌが籠いっぱいの星露草を抱えている。
その後ろからシュネリュが入ってきた。
「たくさんありました」
「……そうか」
レオナールは剣を持ったまま立っていた。
「何をしているんです?」
「身体を動かしていただけだ」
「寝ていてください」
「もういいだろう」
「まだ経過観察中です」
「…………」
その言葉に、レオナールは黙った。
フィリエンヌは採取籠を調合台へ置いた。
「明日までです」
「明日?」
「明日の朝、走査して問題がなければ終わりです」
「そうか」
「それまでは患者です」
レオナールは寝台へ戻った。
シュネリュが隣を通りながら、
「キュ」
と鳴いた。
「……笑ったか?」
「シュネリュは笑いませんよ」
「今のは絶対に笑っただろう」
フィリエンヌは星露草を一本ずつ並べ始めた。
馬車は再び走り出した。
しばらくして、レオナールは窓の外を見た。
日がかなり傾いている。
「……フィリエンヌ」
「はい?」
「リュセールには今日中に着くつもりだったんじゃないのか」
「そのつもりです」
「もう夕方だ」
「そうですね」
「途中で馬車を止めた」
「星露草がありましたから」
「採取にも時間を使った」
「たくさん採れました」
「…………」
会話が噛み合っているようで、噛み合っていない。
「今日中に着かなかったらどうする」
「明日着きます」
「今日売る予定だった薬は?」
「明日売ります」
「…………」
フィリエンヌは何の問題も感じていないらしい。
今日できなければ明日やればいい。
彼女の中では、それだけのことなのだろう。
「お前、いつもこうなのか?」
「何がです?」
「……いや、いい」
レオナールはそれ以上聞くのをやめた。
フィリエンヌは再び星露草の整理へ戻った。
シュネリュはその隣で丸くなっている。
リュセールには、その日のうちには着かなかった。
フィリエンヌ、レオナールに頭痛薬作ってあげて




