第3話 弱火の魔女、店を開く
旅の始まりです。一人と一匹の珍道中。はてさてどうなることか
フィリエンヌがリュカ村に到着したのは、出発から三日目の昼だった。
本来なら一日半ほどで着くらしい。
本人はその事実を知らない。
一日目には珍しい苔を見つけた。二日目には街道脇に薬草の群生地があった。三日目の朝には、川辺に見慣れない白い石が落ちていた。
どれも調べる必要があった。
したがって三日かかったのは仕方がない、とフィリエンヌは考えている。
シュネリュは何も言わなかった。この三日間で、馬車が止まると昼寝の時間だと理解したらしい。
リュカ村は、フェルディナ平原の北寄りにある小さな農村だった。
春には金蜜草が咲き、夏には麦畑が金色に染まる。大きな町ではない。けれど周辺の農家が集まるため、小さな市場がある。
フィリエンヌは市場の端に馬車を停めた。
そして困った。
「どうやって店を開けばいいんでしょう」
旅をしながら調合屋をする。
そこまでは考えた。
どうやって客に調合屋だと知らせるかは考えていなかった。
「看板が必要ですね」
幸い、木の板はあった。
フィリエンヌは魔法インクを取り出し、筆を持った。
『調合します』
書いた。
眺める。
「分かりやすいです」
本人は満足した。
市場を管理していた老人は、看板を見てしばらく黙った。
「……嬢ちゃん、何を調合するんだ?」
「いろいろです」
「いろいろ」
「薬、軟膏、香水、保存液、魔法インク。材料があれば大体できます」
「薬師か?」
「調合師です」
「店の名前は?」
「ありません」
「値段表は?」
「ありません」
「営業許可証は?」
「あります」
フィリエンヌは鞄から紙を取り出した。
老人は少し驚いた。
王国調合師組合が発行した正式な登録証だった。しかも等級は思っていたより高い。
「……ちゃんとした調合師なんだな」
「はい」
「そうは見えんかった」
「どうしてです?」
「看板かな」
フィリエンヌは『調合します』を見た。
「読めますよ?」
「そういう話じゃないんだがなあ」
老人は頭を掻いた。
ともあれ、場所代として銅貨を支払い、フィリエンヌの移動調合屋は営業を開始した。
客は来なかった。
一時間。
二時間。
シュネリュは馬車の前で丸くなっている。
「来ませんね」
「キュ」
三時間目。
フィリエンヌは暇になったので金蜜草の選別を始めた。
四時間目。
調合を始めた。
客が来ないのだから、自分の作りたいものを作ればいい。本人としては自然な判断だった。
金蜜草を細かく刻む。油を加える。小さな調合鍋を火にかける。
フィリエンヌが指を向けた。
ぽっ。
鍋の底に小さな火が灯った。
弱い火だった。
風が吹けば消えてしまいそうに見える。
けれど消えない。
一時間経っても。
二時間経っても。
炎の高さも、熱も、ほとんど変わらなかった。
フィリエンヌはその間、本を読んでいた。時々鍋を混ぜる。また読む。
「お嬢ちゃん」
声をかけられた。
顔を上げると、中年の女性が立っていた。籠を持っている。市場で野菜を売っていた女性だった。
「はい」
「それ、何を作ってるんだい?」
「軟膏です」
「何の?」
「手荒れと小さな傷用です。金蜜草が採れたので」
女性が自分の手を見る。
農作業をする手だった。指先は荒れ、細かな傷がいくつもある。
「効くのかい?」
「効きますよ」
「いくら?」
フィリエンヌは止まった。
「…………」
「どうしたんだい」
「少し待ってください」
鞄を探した。
オルテンシアが残した古い価格表を取り出す。
「銅貨五枚です」
「じゃあ一つおくれ」
「まだできていません」
「いつできる?」
「あと三時間くらいです」
「三時間?」
「はい」
「そんなに煮るのかい?」
「六時間です」
「火、大丈夫なのかい?」
女性が鍋の下を見る。
薪ではない。魔導具でもない。
小さな火が浮かんでいる。
「魔法かい?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
女性は不思議そうな顔をした。
フィリエンヌには、その理由が分からなかった。
「弱い火しか使えませんから」
そう説明した。
女性はますます不思議そうな顔になった。
夕方。
軟膏が完成した。
最初の女性が受け取りに来た。その隣に別の女性がいた。
「この人も欲しいって」
「ありますよ」
二つ売れた。
しばらくすると、今度は老人が来た。
「腰に塗る薬はあるか?」
「症状を見ても?」
「ああ」
フィリエンヌは老人の腰に手を近づける。
「走査」
状態を確認する。
骨に異常なし。強い炎症もない。長年の農作業による筋肉疲労。
「温める軟膏の方がいいですね」
「作れるか?」
「材料があります」
また鍋を出した。
夜になる頃には、馬車の前に三人並んでいた。
フィリエンヌは困った。
客が来ないことを心配していたはずなのに、今度は客が多い。
「順番にお願いします」
「嬢ちゃん、こっちの薬は?」
「少し待ってください」
「うちの子が虫に刺されてな」
「掻かないようにしてください。今見ます」
「この狐は売り物かい?」
「違います」
「キュ!」
シュネリュの尻尾が膨らんだ。
子供たちが歓声を上げた。
さらに人が集まった。
「シュネリュ」
「キュ?」
「もしかして、あなたの方が看板として優秀なのでは?」
「キュ!」
尻尾がさらに膨らんだ。
否定する気はないらしい。
その夜。
市場が閉じた後、フィリエンヌは馬車の机に硬貨を並べた。
銅貨。銀貨。たくさんある。
「売れましたね」
満足だった。
シュネリュが隣で硬貨を眺めている。
「旅をしながらでも、やっていけそうです」
フィリエンヌは硬貨を袋へ戻した。
数えてはいない。
売上帳にも書いていない。
材料費も計算していない。
場所代を差し引いてもいない。
そもそも今日、いくら儲かったのか本人は知らない。
だが銀貨がいっぱいあったので、たくさん売れたことだけは確かだった。
この時点では、それで困る者はいなかった。
まだ。
馬車の外では、春の夜風が吹いている。
調合鍋の下には、最後の薬を温める小さな火が灯っていた。
弱く。静かに。同じ温度のまま。
フィリエンヌはその火が特別だとは思わない。
シュネリュも何も言わない。
だから、その異常さに最初に気づくことになる人物は、まだここにはいなかった。




