第2話 床下には狐がいました
床下にいたものは、狐によく似ていた。
ただし、普通の狐よりかなり小さい。丸い耳。クリーム色の柔らかそうな毛。身体の半分ほどもある大きな尻尾。
そして何より、フィリエンヌが床板を開けても逃げる様子がなかった。
「……こんにちは」
「キュ」
返事をした。
少なくともフィリエンヌにはそう聞こえた。
フィリエンヌは床に膝をつき、しばらくその生き物と見つめ合った。狐も見つめ返している。
「ここに住んでいるんですか?」
「キュ」
「師匠の?」
「キュ」
「どちらです?」
「キュ」
会話は成立しなかった。
仕方なくフィリエンヌは手を伸ばした。
狐は逃げない。むしろ自分から鼻先を近づけてきた。
その瞬間、フィリエンヌの意識に、ごく自然に魔法の感覚が立ち上がった。
「走査」
フィリエンヌが使える数少ない補助魔法だった。
対象の状態を調べる魔法である。調合師にとって、素材や患者の状態を知ることは何より重要だ。
もっとも、フィリエンヌ自身はこれを特別な魔法だとは思っていない。師匠のもとで、毎日のように使ってきたからだ。
種族――綿雲狐。
性別――雄。
健康状態――良好。
魔力状態――安定。
毒、病気、外傷――なし。
「綿雲狐」
「キュ」
「あなた、綿雲狐というんですね」
尻尾が膨らんだ。
「わ」
フィリエンヌは目を丸くした。
先ほどまででも十分ふわふわしていた尻尾が、一瞬で倍近くになった。文字どおり雲の塊のようである。
「もう一回できます?」
「キュ!」
さらに膨らんだ。
フィリエンヌはすっかり興味を奪われた。
旅支度のことは忘れた。
それから一時間。
フィリエンヌは綿雲狐の毛を観察し、触り、一本だけ抜け落ちた毛を採取し、魔力伝導性を調べようとしていた。
狐の方も嫌がるどころか、机の上に寝転がっている。どうやら大物だった。
「不思議ですね。普通の獣毛より魔力を保持しやすいような……」
「キュ」
「インクに混ぜたらどうなります?」
「キュ」
「試します?」
「キュ」
賛成された気がした。
昼近くになって、フィリエンヌはようやく我に返った。
「そうでした。旅に出るんでした」
狐がこちらを見る。
「あなたはどうします?」
返事の代わりに机から降りた。床を歩く。寝台へ飛び乗る。丸くなる。
「……ここにいるんですね」
「キュ」
どうやらそのつもりらしい。
考えてみれば、フィリエンヌより先にこの馬車にいたのは狐の方らしい。オルテンシアがこの馬車を使っていた頃から住んでいた可能性すらある。
そうなると、後から馬車を譲り受けたフィリエンヌが追い出すのもおかしな話だった。
「では、一緒に行きますか?」
尻尾が膨らんだ。
肯定らしい。
問題が一つあった。
「名前は?」
狐は答えない。
当然である。
フィリエンヌは考えた。
調合品なら名前をつけたことがある。新しく作った軟膏にも名前をつける。
ただ、生き物につけるとなると勝手が違う。
「ふわふわ」
「…………」
狐が無言で見た。
「駄目ですか」
尻尾が萎んだ。
「クリーム」
さらに萎んだ。
「雲」
変化なし。
「難しいですね」
フィリエンヌは本棚から魔物図鑑を引っ張り出した。
名前をつけるために図鑑を読む必要があるのかは疑問だが、本人は真剣だった。
古い地方語。雪。雲。綿。柔らかなもの。
いくつか候補を口にしていくうち、一つの響きで狐の耳がぴくりと動いた。
「シュネリュ?」
狐が顔を上げた。
「これがいいんですか?」
「キュ!」
尻尾が一気に膨らんだ。
「では、シュネリュです」
こうして、馬車の住人には名前がついた。
もっともフィリエンヌは知らなかった。
シュネリュがいつからこの馬車に住んでいたのか。なぜ床下にいたのか。オルテンシアとどんな関係だったのか。何一つ知らない。
けれど、それを今すぐ調べる必要があるとも思わなかった。
分からないものは、分からないままでもいい。
少なくとも調合に関係しないうちは。
午後。
フィリエンヌはようやく馬車を出発させた。
魔法馬車には簡単な自走機能がある。御者台に座って行き先を指示すれば、街道に沿って進んでくれる。
これなら自分でも旅ができる。
オルテンシアがこの馬車を遺した理由が少し分かった気がした。
「南へ行きましょう」
フィリエンヌが言った。
馬車は動かなかった。
「……南です」
動かない。
シュネリュが御者台の隣から見上げている。
「どうしてでしょう」
フィリエンヌは古い操作板を調べた。
小さな文字が書かれている。
『目的地を指定してください』
「南です」
反応なし。
『目的地を指定してください』
「南という目的地です」
違う。
十五分ほど格闘した末、フィリエンヌは家へ戻って地図を持ってきた。
「では……フェルディナ平原の、リュカ村」
馬車がゆっくり動き始めた。
「動きました」
フィリエンヌは満足した。
シュネリュが尻尾を振った。
こうして一人と一匹の旅は始まった。
最初の目的地を選んだ理由は単純だった。
リュカ村周辺では、この時期になると金蜜草という薬草が採れる。
軟膏の材料になる。花からは甘い香りの油も取れる。さらに乾燥させると――
「シュネリュ、知っていますか? 金蜜草はですね」
フィリエンヌが説明を始める。
シュネリュは丸くなった。
聞いているのか、寝ているのかは分からない。
街道を、古い魔法馬車が進んでいく。
フィリエンヌはまだ知らない。
旅にはお金がかかることも。食料は勝手に増えないことも。薬草を見つけるたびに道を外れていたら目的地には着かないことも。
そして何より。
この馬車に、近いうちもう一人住人が増えることも。
今のところ彼女が考えているのは、金蜜草を何束採取できるかということだけだった。
馬車と格闘後ようやく出発。これからの旅も一筋縄ではいかない予感・・・




