第1話 師匠の遺した馬車
フィリエンヌ・クラルヴェーゼは、火の魔法が使える。
どのくらい使えるのかと問われれば、蝋燭一本に火を灯せるくらいだった。もう少し正確に言えば、二本でも三本でも灯せる。ただし、一度にではない。一本ずつである。
魔法使いとしては、あまり自慢できる話ではなかった。
アルヴェリア王国では、魔法を使えること自体はそれほど珍しくない。もちろん個人差はある。井戸から水を汲み上げられる者もいれば、乾かした薪に火をつける程度の者もいる。王都セレスタには、巨大な炎を操ったり、風に乗って空を駆けたりする魔術師までいるという。
フィリエンヌは、そのどれにも当てはまらなかった。
彼女の火は小さい。とても小さい。
けれど、消えなかった。
「火をお願い」
まだ幼かったフィリエンヌに、師匠のオルテンシアはよくそう言った。
調合鍋の下には、普通なら薪を使う。だがフィリエンヌは指先を向けるだけでよかった。ぽっ、と小さな火が生まれる。
「そのまま」
「はい」
一時間。二時間。三時間。
オルテンシアが薬草を刻み、鍋へ入れ、混ぜ、時折温度を確かめる。フィリエンヌは火を灯していた。
「まだですか?」
「まだだねえ」
「お腹が空きました」
「パンならそこ」
「火を止めてもいいですか?」
「駄目」
「……師匠」
「薬を駄目にしたら晩ご飯もなし」
仕方なくフィリエンヌは片手でパンを食べた。
それが彼女の調合師としての始まりだった。
オルテンシアは、フィリエンヌの火を一度も褒めなかった。
弱い火だ。戦いには使えない。暖炉にも向かない。そんなものだから、せめて上手に使えるようになりなさい。何度もそう教えられた。
だからフィリエンヌは、自分の魔法について深く考えたことがない。
弱いものは弱い。その代わり、調合には便利だった。
それで十分だった。
そのオルテンシアが亡くなったのは、夏の終わりの、ひどい雷雨の夜だった。
その夜のことを、フィリエンヌはあまり思い出さないようにしている。
薬を作った。湯を沸かした。何度も額に触れた。自分にできることは全部やった。
窓の外が白く光った。大きな雷鳴に驚いて、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして目を開けてから、
「師匠?」
と呼んだ。
返事はなかった。
もう一度呼んだ。それでも返事はなかった。
それから半年。
フィリエンヌは十六歳になっていた。
もっとも、正確な誕生日を知らないので、オルテンシアに拾われた日を境に十六歳ということにしている。本人はあまり気にしていない。
今日の彼女にとって重要なのは年齢よりも、目の前にある大量の荷物だった。
「……多いですね」
フィリエンヌは腕を組んだ。返事をする者はいない。
師匠と暮らした家の前に、薬草の束、調合器具、衣類、本、保存食、空瓶、乳鉢、鍋などが積み上がっている。
そして、その向こうに一台の馬車があった。
古い。かなり古い。
木製の車体はところどころ色褪せ、金属部品にも細かな傷がある。けれど、不思議と傷んでいる印象はなかった。
オルテンシアが若い頃に使っていた魔法馬車だという。本人から詳しい話を聞いたことはない。
家の物置に置かれていた遺書には、ただ、
『家は好きにしな。馬車はあんたにやる』
と書かれていた。その下に、
『本を売ったら化けて出る』
とも書かれていた。
こちらの方が文字が大きかった。
いかにも師匠らしい、とフィリエンヌは思った。
フィリエンヌには両親がいない。
正確には、どこにいるのか知らない。幼い頃にはぐれ、オルテンシアに拾われ、そのまま弟子として育てられた。
だから師匠が亡くなったあと、この土地に残る理由はあまりなかった。家を維持するにもお金がかかる。調合師として仕事をするなら、客のいる町へ行く必要もある。
そこでフィリエンヌは考えた。
馬車がある。調合道具もある。自分は調合ができる。
三つ揃っている。
ならば、旅をしながら調合屋をすればいい。
フィリエンヌとしては、かなり論理的な結論だった。
問題は、彼女が旅についてほとんど何も知らないことだったが、その点について本人はまだ気づいていなかった。
「まず荷物ですね」
フィリエンヌは馬車の扉を開いた。
中には簡素な棚と机、それから小さな寝台が一つ。外から見るより多少広く感じるのは、簡単な空間魔法が施されているからだとオルテンシアから聞いている。
もっとも、フィリエンヌには空間魔法など使えない。
使えるのは火だけである。蝋燭一本分の。
まず本を運んだ。売ると師匠が化けて出るので、置いていくわけにはいかない。
次に調合器具。薬草。空瓶。衣類。保存食。さらに本。まだ本。
どうしてこんなに本があるのだろうと途中で疑問に思ったが、オルテンシアの人生の半分くらいは本でできていたのかもしれない。
夕方になる頃には、馬車の中は荷物でいっぱいになっていた。
フィリエンヌは入口に立って考えた。
「寝る場所がありません」
当然だった。寝台の上にも本が積んである。
旅に出る以前の問題である。
フィリエンヌはしばらく考え、寝台の本を床へ移した。
「これで大丈夫です」
根本的には何一つ解決していなかった。
その日は馬車の中で初めて眠った。
まだ旅には出ていない。家はすぐ目の前にある。それでも、少しだけ違う場所に来たような気がした。
夜。
フィリエンヌは寝台の中で目を開けた。
雨が降っていた。
雷はない。
それを確認してから、また目を閉じる。
静かな馬車の中には、乾燥させた薬草と古い木の匂いがした。
師匠の匂いに少し似ていた。
「……旅をしながら、調合屋をしましょう」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
行きたい場所はまだ決めていない。どんな町があるのかもよく知らない。道にも詳しくない。お金の管理も得意ではない。料理も最低限しかできない。野営など一度もしたことがない。
それでも、調合ならできる。
フィリエンヌにとっては、それで十分だった。
翌朝。
旅立つ前に馬車をきちんと掃除しておこうと思ったフィリエンヌは、寝台の下に妙な隙間を見つけた。
「……?」
床板が一枚だけ浮いている。
手をかける。持ち上げる。
暗い床下から、何かがフィリエンヌを見返していた。
「…………」
フィリエンヌは床板を戻した。
三秒ほど考える。
もう一度開けた。
やはり、いた。
クリーム色の、ふわふわした何かが。
「……師匠」
フィリエンヌは、亡き師匠が説明していなかったことが、まだずいぶん残っているらしいと知った。




